最長距離バスの系譜(4)~昭和30年 白浜急行バス「白浜-大阪線」196.8km~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

前回までは、日本に高速道路が建設される前の、黎明期の日本最長距離バスを取り上げてきた。  
昭和37年開業の東北急行バス「東京-山形線」、昭和36年開業の長野電鉄「志賀高原-東京直通特急バス」、そして昭和25年開業の一畑電鉄「松江-広島急行バス」と、時代を遡りながら、その歩みについて書かせていただいた。

「松江-広島急行バス」は営業距離195kmの路線だったが、実は、昭和30年に、南紀白浜と大阪を結ぶ白浜急行バスが開業し、その営業距離は少しだけ長い196.8kmであったという。
「松江-広島急行バス」の夜行便が、広島から宮島口まで足を伸ばし、営業距離が216.8kmに及んだ時期があるので、前回の記事では、昭和25年から昭和36年までの日本最長距離路線と解釈したのである。
だが、「松江-広島急行バス」が宮島口まで足を伸ばしていた時期がはっきりとしない。
もしかしたら、白浜急行バス「白浜-大阪線」が日本一であった時期があったかもしれない。

今回は、日本最長距離バスだった時期があったのかわからないけれど、という注釈つきで、白浜急行バス「白浜-大阪線」を取り上げたい。
 


白浜急行バスは南海電鉄の子会社で、「白浜-大阪線」は昭和30年に開業し、白浜-田辺-御坊-南海和歌山市駅-大阪内本町バスセンターという経路であった。
もちろん、一般国道経由である。
運行時間は7時間ちょうど、運行本数は1日3往復、運賃は700円であったという。

 
東海道新幹線開業直前の昭和39年9月の時刻表には、「白浜急行バス」が1往復だけ掲載されている。
開業後10年足らずで減便されてしまったのだろうか。
自分が生まれた時代に何の不満もないけれど、このような昔のバスの痕跡を目にすると、もう少し早く生まれたかったと思ってしまう。
 
 
大阪側のターミナルである内本町バスセンターとは、大阪市東区内本町2丁目に存在していたバスターミナルで、阪急や京阪などの民間バス会社が郊外バスの起点として昭和28年に開設された。
しかし、渋滞が起きやすい立地であったとのことで輸送実績・効率ともに思わしくなく、昭和45年に廃止され、白浜行きバスも大阪の発着地を内本町から難波に変更している。

一方で、関西と白浜を結ぶ鉄道は、戦前から頻繁に運行され、大阪と和歌山の間を南海電鉄線を経由して、紀勢本線に直通する列車もあった。
戦前の時刻表を見ると、たとえば、南海電鉄難波駅を7時40分に発車、南海和歌山市駅を8時42分発、白浜口駅に11時26分着という直通特急列車が走っている。
また、戦前の看板列車として名高い快速「黒潮」は、難波14時25分発、和歌山市駅15時20分発、白浜口17時40分着と、所要3時間半を切っている。
各駅停車でも、難波4時30分発、和歌山市で乗り換えて6時03分発、白浜口9時40分着と、所要5時間余りで結んでいることがわかる。

戦後は、昭和23年7月に天王寺-新宮に夜行準急が、昭和25年4月に同じ区間に昼行の準急が運行を開始し、同年10月に天王寺-白浜口間に快速「黒潮」が登場した。
昭和28年5月に同じ区間に準急「南紀」が、昭和33年10月に新宮-天王寺に準急「はやたま」が、同年12月には天王寺-白浜口に準急「きのくに」が登場している。
昭和40年10月には、特別急行「くろしお」が運転を開始、昭和41年に「南紀」「きのくに」が急行に格上げされるなど、関西と南紀の間には次々と優等列車が運行されたのである。

白浜急行バスは、鉄道より2~3時間以上の長い時間をかけて、大阪と白浜の間を走っていたわけである。
乗客がバスを選ぶ理由は、運賃や、座り心地が良く空調が効いた座席などということだったのであろうか。

昭和44年には、一部の便が白浜空港まで足を伸ばすようになり、昭和46年には、和歌山港を経由する便を設定している。
ところが、昭和48年に、なんと難波への乗り入れが廃止され、和歌山港-白浜間だけの運行に縮小されてしまったのである。
昭和49年には、白浜急行バスが南海バス(南海電鉄と無関係のバス事業者だったが、昭和35年に南海電鉄の子会社となっている)と合併して、南海白浜急行バスが創設された。
同年には和歌山港停車をやめて、和歌山市駅発着になっている。
昭和52年には白浜空港発着が廃止、昭和59年には白浜-御坊間の運転も取りやめてしまった。
運行区間が次々と短くされてしまったわけで、残された和歌山市駅-御坊間の路線は御坊南海バスへ移管された。
南海白浜急行バスは、解体されたという。

実際にどのようなダイヤで運行されていたのかという当時の資料を見つけることができず、詳細は全く不明であるが、上記のような鉄道輸送の発展と、モータリゼーションの普及や渋滞などが主因なのであろう。
紀伊半島南部の高速道路整備が遅れたという事情も、大いに関わっていたものと思われる。
こうして複数の路線の歩みを調べてみれば、鉄道と違って、初期投資は車体購入など少なくて済むものの、道路事情や世相に左右されやすく、自力で再生が困難なバス輸送の実情が浮き彫りになる。

紀伊半島西南部を貫く阪和自動車道は、全国でも早い昭和49年10月に、阪南ICと海南ICの間が開通しているが、それ以外の区間の建設が遅々として進まなかった。
阪南ICより北側の、西名阪自動車道や阪神高速14号線と接続する松原JCTと阪南IC間が全通したのは、平成5年9月のことだった。
海南ICより南側では、昭和59年3月に、海南ICと有田IC(当時は吉備ICと呼ばれていた)が、海南湯浅道路と名付けられた高規格道路で開通している。
平成6年7月に湯浅御坊道路の有田IC-広川IC間が、同8年3月に広川IC-御坊IC間が、同15年12月に御坊IC-みなべIC間が開通し、同17年4月に、海南湯浅道路は阪和道に組み込まれた。
平成19年11月にみなべIC-南紀田辺IC間が開通し、ようやく現在の形が整ったわけである。

平成14年7月に、白浜に本社を置く明光バスが、白浜と大阪の間に高速バス路線を開業した。

阪和道が御坊IC止まりの時代であり、当初は3往復だけだったが、所要は3時間30分と、かつての白浜急行バスの半分に縮めている。
大阪と南紀を結ぶ特急列車「くろしお」が、天王寺と白浜の間を2時間余りで結んでいるが、バスの運賃は特急の6割程度と安く、少々遅くても、バスを選ぶ需要はあると踏んだのであろう。
「白浜エクスプレス大阪」号と、やや月並みな愛称を冠した高速バスの乗車率は上々で、途中から西日本JRバスも参入して増便を重ね、現在は10往復が運行されている。
 

 

僕が「白浜エクスプレス大阪」号に乗車したのは、平成17年10月1日のことだった。

これほどはっきりと日付を憶えている訳は、その年の9月30日を限りに運転を終了した、宮崎発の寝台特急「彗星」に乗って大阪駅に降り立ったからである。
「彗星」が遅れて到着したので、白浜行き朝1番の便が大阪駅を発車する7時30分を過ぎてしまっていた。
西日本JRバスの窓口で、8時30分発のバスの指定席を買い求め、構内の喫茶店で一服した僕を乗せて、「白浜エクスプレス大阪」号は定刻に大阪駅バスターミナルを発車した。
車内はなかなかの賑わいぶりで、半分ほどの席が埋まっている。
 
バスは中央郵便局前のガードをくぐって、いったん大阪駅の北側に抜け、梅田ランプから阪神高速に駆け上がった。
左へ大きく弧を描いて阪神高速1号環状線に合流する寸前に、右手奥の阪神高速11号池田線から分岐した流出路が、円筒形の「TKP GATE TOWER BUILDING」の中層階にぽっかりと開いた空洞をくぐっているのが見える。
どうして、わざわざビルの中を高速がくぐり抜ける構造にしたのかは知らないけれど、何回見ても気になってしょうがない。
1度は中を通ってみたいのだけれど、そのためには、池田線から梅田ランプに降りる必要があり、まだ、その機会に恵まれない。
 

 

阪神高速環状線は時計回りの一方通行で、首都高速を走り慣れた者にとっては、余裕のあるうまい造り方をしたものだと思う。
安治川の北岸に沿って、中之島のビル街を左手に見下ろす区間は、僕がこよなく愛する都市景観の1つで、水の都・大阪に来たのだな、という実感が湧いてくる。

阪神高速環状線が13号東大阪線と交差する、本町JCTの手前の東側一帯が、かつて白浜急行バスが出入りしたバスセンターがあったと言う、内本町である。
松屋町筋と本町通の交差点にある、のぞみ信用組合の本店が、バスセンターの跡地であると言われているが、目をこらしても、中小のビルがぎっしりと建ち並ぶ街並みが広がっているだけだった。

バスは、ぐるりと大阪の中心街を半周し、湊町ランプで本線を離れた。
流出路は難波OCATビルの中を貫いて地上に向かい、バスは専用通路でそのまま2階の湊町バスターミナルに入っていく。
都市計画と一体化したバスターミナルのあり方には、羨ましくて溜め息が出る。
かつての白浜急行バスの乗客が見ても、たまげてしまうのではないだろうか。

ここで、座席は殆ど埋まった。
40人ほどの乗客を乗せた「白浜エクスプレス大阪」号は、9時10分定刻に発車し、再び湊町JCTから阪神高速環状線に駆け上がった。
西船場JCTで16号大阪港線に乗り換えて西へ向かい、安治川の河口の天保山付近で大阪湾に突き当たると、4号湾岸線で紀伊半島に向かってひたすら南下していく。
密集した目まぐるしい市街地から、波光がきらめく大阪湾岸地域の広々とした車窓への、見事な舞台転換である。
 

 

 

遙か前方に、銀色に輝くひとすじの橋梁が、沖合まで一直線に伸びているのが見えてくる。
その先に霞む、のっぺりと平たい人工島が、関西新空港である。

空港連絡橋の袂のりんくうJCTで、湾岸線は関西空港自動車道と合流し、バスは東へ90度進路を変えて内陸へ進む。
泉佐野JCTでようやく阪和道に合流し、再び南へ進路を戻せば、「白浜エクスプレス大阪」号の旅の導入部も終わりである。

初めて接する車窓に、僕は興奮しっぱなしだったが、初体験の区間というわけではない。
平成8年3月に登場した「ルナメール」という美しい愛称の夜行高速バスがあった。
その運行区間が、大阪と新宮の間だったのである。
僕は、開業直後に乗車したことがある。
大阪駅を深夜の23時30分に発ち、おそらくは、「白浜エクスプレス大阪」号と同じ経路をたどって、南紀に向かったはずなのだ。
降車停留所は、紀伊田辺駅2時32分、周参見駅3時43分、串本駅4時37分、紀伊勝浦駅5時25分と、JRバスだけあって、律義に駅だけに寄っていく。
一大観光地である白浜に立ち寄らなかったのは、なぜだろうか。
ゆったりした横3列独立座席にもたれて、まどろみながら、深夜の停留所には殆ど気づかず白河夜船で過ごすうちに、ほの暗い新宮駅前に到着したのが5時56分だった。
約270kmを6時間半で走り切ったのである。

駅の立ち食い蕎麦屋が、早朝から店を開けていたのには驚いた。
息もつかずにすすった、関西風うどんの薄味のつゆに、戸口から射し込んできた朝の光がきらきらと輝いた様を、今でもよく憶えている。
 

 

「ルナメール」の前身は、「新宮夜行」2921Mであると言ってもいい。
朝釣りをする人々に愛され、「太公望列車」とも呼ばれていた。
昭和34年の紀勢本線の全通を期に、名古屋と天王寺の間を通しで運転された夜行鈍行「はやたま」が起源の列車で、オンボロの寝台車が連結されていた時期もある。
昭和59年に運行区間が新宮-天王寺間に短縮され、昭和61年には下り新宮発の運転をやめて天王寺発上り列車のみの片道列車となってしまい、平成11年に運行を終了している。
2921Mの主要な停車駅は、新大阪発22時45分、天王寺23時05分、和歌山0時03分、海南0時15分、湯浅0時43分、御坊0時59分、印南1時16分、紀伊田辺1時38分、白浜2時10分、串本4時00分、紀伊勝浦4時47分、そして新宮5時10分着。
276.8kmの走行距離の所要は、6時間25分であった。
46もの駅に停車するにも関わらず、「ルナメール」と殆ど変わらない。 
「ルナメール」が走った、田辺から先の羊腸のように入り組んだ海岸沿いの国道が、それだけ時間がかかったということであろう。
 

 

「ルナメール」は、その後、京都駅に延伸したり、関西空港に寄ったり、時刻改正のニュースに接するたびに、利用客が少ないのだろうな、と心配していた。
バス会社が、路線の経由地などを色々いじり始めたら、その路線は低迷していると思って間違いない。
前述した白浜急行バスも、末期には、白浜空港や和歌山港に寄ったりやめたりしている。

2921Mと同じく、「ルナメール」も、休前日には釣り客で満席になることもあったというが、「新宮夜行」廃止3年後の平成14年3月に、運行を取りやめてしまった。
「白浜エクスプレス大阪」号が開業する、わずか4ヶ月前のことだった。   
 

 

 

 

あたかも「ルナメール」からバトンを受け継いだような「白浜エクスプレス大阪」号が、快調に走り続ける阪和自動車道は、大阪湾岸に背を向けて、紀伊山地の裾野に分け入っていく。
紀ノ川SAの休憩でバスを降りれば、むっとするような熱気が、僕の身体を包みこんだ。
なだらかな山並みに囲まれた和歌山平野も、残暑の強い日差しに照らされて、ゆらゆらと揺らめいている。   

河川敷にこんもりと木々が繁る紀ノ川を渡って、平野部を走り出したのも束の間、両側の車窓は、少しずつ、緑の山肌に視界を遮られるようになっていった。
海南ICを過ぎると、長さ1830mの藤白トンネルをはじめ、谷間の下津ICを挟んで、1240mの下津トンネル、そして和歌山県内で最長の3831mの長峰トンネルと、長大トンネルが連続する。
平行する国道42号線や紀勢本線が大きく東に迂回する内陸の山岳地帯を、ハイウェイは、真っ直ぐ貫いているのだ。
有田ICからの湯浅御坊道路も同様で、地図を見れば、ジグザグに波線を描く鉄道に対して、高速道路は、和歌山市から御坊まで、ほぼ一直線である。
まさに、建設技術の進歩を象徴している設計だと思う。

鉄道ファン、またはアンチ高速バスファンならば、通行料を払っているとは言え、他人が造った高速道路で時間短縮を図るなんてずるい、と言うかもしれない。
しかし、平行する紀勢本線の特急「くろしお」は、振り子式の車体で曲線の速度を上げる工夫をして、バスより1時間も早く白浜に到着するのである。 
 

  

 
「白浜エクスプレス大阪」号の最初の降車停留所は、印南SAだった。
印南市街地からはずれた山の中腹だが、専用の駐車場が備えられ、自家用車で動く地元住民の便は図られている。

次の停留所の、みなべ役場前に停まるために、バスは速度を落として、みなべICを降りていく。
コンビニと工場と農協の建物が並ぶ、何とも殺風景な停留所だった。
陽光だけが、賑々しく跳ね回っている。

阪和道の終点は南紀田辺ICだけれども、「白浜エクスプレス大阪」号は高速道路には戻らず、国道42号線・熊野街道で、海岸線に沿って走り始める。
途端に乗り心地がゴツゴツし始めるが、右手には、ぎらぎらと日差しを反射する紺碧の太平洋が、車窓いっぱいに広がった。
濃緑色に覆われた山中の高速走行からの、鮮やかな色彩の変化は、夜行明けでうつらうつらし始めていた僕の眠気を吹き飛ばすのに充分だった。

次の「南部(梅ヶ丘)」バス停の案内で、「みなべ」が「南部」であることを了解した。
難読地名だから、町ごと、ひらがな表記に変えてしまったのであろうか。
芳養駅前バス停を過ぎると、国道の周りが建て混んできて、大きな街に近づきつつあることが察せられる。
熊野古道の入口「口熊野」と称され、武蔵坊弁慶の故郷、また、源平合戦で活躍した熊野水軍の根拠地としても知られる田辺市は、南国らしく陰影の少ない、あっけらかんとした街並みだった。
和歌山市に次ぐ県内2位の人口を持つのが田辺市だったとは、この時まで知らなかった。
車ばかり多くて、人通りが少ないのは、今やどの地方都市でも共通である。
こんな狭い道をバスが通っていいのだろうか、と息を呑むような街路で、路駐の車をよけたり、対向車とのすれ違いに苦労しながら、市役所前、田辺駅前、つぶり坂と、市内停留所で少しずつ客を降ろしていくうちに、バスに残っているのは、わずか数人ほどになっていた。
 

 

田辺まで来れば、終点の白浜町は、田辺湾を挟んだ反対である。
珊瑚礁の触角のように入り組んだ入江を右手に眺めながら、バスは国道42号線を離れて、田辺と白浜を隔てるなだらかな丘陵を越えた。
幾艘もの漁船やレジャーボートが、波に揺れている。

とれとれ市場前、白浜桟橋、古賀浦、ホテル古賀の井と、降車案内が、無機質な女性の声で閑散とした車内に響く。
白浜バスセンターでバスを降りたのは、僕だけだった。
「白浜エクスプレス大阪」号は、三段峡や白浜空港、そして終点のアドベンチャーワールドに向けて、数人の乗客とともに、あっという間に走り去っていった。
 

 

 

今にして思えば、その1kmほど先、次の湯崎停留所で降りれば良かったと思う。
なぜなら、そこが、往年の白浜急行バスの終点だったのだから。

既に正午を回っていて、僕の影法師は、足元にへばりつくように小さかった。
南国に来たな、と思った。
振り仰げば、まばゆい太陽が、10月とは思えないほどの真上から、僕をじりじりと照らしていた。
 

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