最長距離バスの系譜(6)~昭和58年 西鉄・阪急バス ムーンライト号 658.2km~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

僕が、生まれて初めて九州へ渡ったのは、昭和61年の師走だった。
昭和58年に開業していた、大阪と福岡を結ぶ夜行高速バス「ムーンライト」号に乗ったのである。

片道の走行距離658.2㎞は、それまで最長だった東京と大阪を結ぶ国鉄「ドリーム」号の574.8kmを抜いて、当時の日本最長路線となっていた。
 


「ドリーム」号は、全国規模のネットワークを持つ国鉄だからこそ運行できた路線だった。
当時、長距離を走るバス路線としては、他に、東京と仙台・山形を結ぶ東北急行バスがあったが、こちらは沿線のバス会社が出資して新会社を設立した上で運行されている。

「ムーンライト」号は、起終点のバス会社(阪急と西鉄)が共同運行し、収入をプールして、走行距離に応じて事業者に配分するという方式を初めて採用した。
営業地域が限られている民間バス会社は、このシステムによって、自社エリアを大きく超えた長距離路線の運行が可能となったのである。

「ムーンライト」号は、全国に長距離高速バスが輩出する礎を築いたと言っても、過言ではない。

一般的に見れば、日本の交通機関の発展は、流動の多い東海道から始まり、次に山陽道という順番になることが多い。
在来の鉄道然り、新幹線然り、である。
東海道本線が新橋-神戸間で全通したのは明治22年、山陽本線の前身である私鉄山陽鉄道が全線(神戸-下関間)開業したのは明治34年であり、東海道新幹線は昭和39年、山陽新幹線は昭和50年である。

ただし、高速道路の場合は、若干勝手が違っていた。
東名・名神高速道路によって首都圏と関西が直結されたのは、国鉄夜行高速バス「ドリーム」号が開業した昭和44年のことであった。
「ドリーム」号は、東名・名神高速が建設されたから誕生したとも言える。
大阪と福岡を結ぶ夜行高速バス「ムーンライト」の誕生が、「ドリーム」号より遅れた14年間とは、高速道路の整備を待っていた歳月に他ならない。
「ムーンライト」号の開業のきっかけとなったのは、昭和58年の中国自動車道の全線開通だった。
平成9年に山陽道が全線開通し、中国地方を貫く東西交通の主流となっている現状からは、想像もつかないけれど、中国縦貫自動車道が構想された昭和50年代には、

「中国地方においては、高速道路網の東西軸は1本のみを建設する」

と決定されていた。
山陽地方からも山陰地方からもほぼ等距離にアクセス出来る、中国山地のど真ん中に建設予定のハイウェイが、京阪神と九州を結ぶメイン・ルートとして想定されていたのである。
都市が連なる山陽路も山陰路も通らず、従来の鉄道とは全く異なる経路で、奥深く鄙びた脊梁山脈を貫くだけの高速道路が、果たしてどんな案配なのか、「ムーンライト」号に乗る楽しみの1つでもあった。

 


昭和61年の歳末も押し迫った週末、僕は東海道新幹線で西に向かった。
旅の目的が「ムーンライト」号に乗るためだけだったから、慌てる必要性が何にもなく、当時の速達型「ひかり」ではなくて、「こだま」で各駅に停車しながら、4時間あまりかけて新大阪まで行った記憶がある。

当時の東海道・山陽新幹線は、2階建て新幹線として有名な100系車両がデビューしたばかりの時代だった。
見慣れた0系とは全く趣の異なる、100系のシャープな面構えの新鮮さに魅せられた僕は、この旅の帰路に、100系「ひかり」の1階席個室でふかふかのソファーに座り、ビジネスデスクに向かって大学のレポートを書きながら、博多から東京まで乗り通した。
防音壁のために、窓からは空しか見えなかったのが、ちょっぴり残念だった。

当時の国鉄は、東海道・山陽新幹線の様々なてこ入れ策に着手していて、新大阪まで乗った0系「こだま」の普通車指定席には、左右とも横2列席という豪華座席が投入されていた。
新大阪までは、ゆったりのんびりと過ごすことができたのである。

 

 

 


新大阪から在来線に乗り換え、大阪駅までやってくれば、冬の日はとっぷりと暮れていた。
阪急三番街にある阪急高速バスターミナルに行くのは初めてだったけれど、迷った記憶はない。
大阪駅御堂筋南口を出て横断歩道を渡り、阪急百貨店の脇の広いコンコースをキョロキョロしながら進み、国鉄のガード下に広がる新梅田食堂街を左手に見ながら左折、横幅がある阪急電車中央口の階段に驚きながら、紀伊國屋書店の左側の地蔵横町の薄暗く狭い通路を抜ければ、そこが高速バスターミナルだった。

その後、何回か訪ねた経験がある今でも、経路をはっきりと思い浮かべることが出来るわけではないから、携帯ナビがあるわけでもない時代に、よく、たどり着いたものだと思う。
せわしなく錯綜する人混みをかき分けながら、延々と歩くことが少しばかり煩わしかった気がしたのは、今でもよく覚えている。
新梅田食堂街のせせこましい通路をさまよいながら、夕食を食べる店を物色した可能性もあるが、後の記憶とごちゃ混ぜになっているかもしれない。
新梅田食堂街は、国鉄の退職者に対する救済事業として、昭和25年に設立されたのが始まりだという。
当初は素人ばかりの飲食店の集まりだったというが、今では97の店舗が営業し、僕にとっても、ガード下に隙間なくぎっしりと詰め込まれた店舗と、狭く天井の低い通路を歩けば、食い倒れの大阪に来たという実感を味わわせてくれる場所となっている。

 

 

 


蔵書数の多い紀伊國屋書店で、車中で読む本を選び、新梅田食堂街でほろ酔い加減になってから、夜行バスの座席に潜り込むのは、なかなか捨てがたい風情である。

しかも、その座席は、それまでにない豪華さだった。
「ムーンライト」号は、運行開始後3年を経て、昭和61年に、日本で初めて、横3列独立シートを採用したのである。
その夜の僕の座席は、右側の1番後ろだった。
最後部だけは横4列だったけれど、通路がないから、座席の幅は3列シートと変わりがない。
しかも、その日は隣りに相客も来ず、ゆったりとくつろぐことができた。
幅の広い座席に納まって、後ろに気がねなくリクライニングを倒すことができるのだから、のびのびとくつろぐことができた。

それまでに僕が乗った夜行高速バスと言えば、国鉄「ドリーム」号と東北急行バスだけである。
どちらも狭苦しい横4列シートで、隣りや前後の相客に気兼ねし、気配りしながら一夜を過ごしたものだった。
2本の通路を挟み、個々の座席を独立させて3列にするという配置は、今でこそ当たり前のことになっている。
「ムーンライト」号で初めて目にして、実際に乗ってみれば、最初に発想した人物は何たる頭の良さなのか、と驚愕するほど快適だった。

 


バスの横3列独立シートは、どの国で最初に発案されたのだろうか。
いくら調べてもわからなかったのだけれど、今では、韓国や台湾の高速バスをはじめ世界各地で採用されている。
当時、何かの書籍で、

「横3列シートなど、他国に類を見ない居住性の座席が一般化している日本の長距離バスは、他国とは違う方向性で発展しているようなのだ」

などという意味の文を読んだ記憶がある。
もしかしたら、日本の「ムーンライト」号が世界初だったのかもしれないと、ひそかに思っている。

 


バスは、他の交通機関に比べて、様々な点で小回りが利く交通機関と言われている。
バスを数台新造すれば営業できるわけで、設備投資が、航空機や鉄道や船舶より安いことが最大の特徴であろう。

昭和30年代から40年代に開業した東北急行バスや志賀高原-東京直通バス、白浜急行バスといった、日本の長距離バスの歴史をたどってみれば、座席や空調など、車内設備に関連した乗客サービスが他の交通機関よりも先行し、鉄道が追いついたら縮小・衰退を余儀なくされる、という経過をたどった路線が多い。
「ムーンライト」号は、他の交通機関に勝る居住性をバスで実現する、という歴史を、昭和61年に再現したのだ。

特筆すべきは、「ムーンライト」号から始まった全国の長距離高速バスブームは息が長く、追いかける交通機関もなく、現在に至っているということである。
平成2年から平成20年まで、関西と九州を結ぶ寝台特急列車にも横3列独立シート(レガートシート)が連結されたことがあったけれども、今や、夜行列車そのものが消えつつある。
夜間の交通機関の主役は、高速バスであると言っても過言ではない。

 


深夜の22時に、梅田の高速バスターミナルを発車した「ムーンライト」号は、国道423号線・新御堂筋の高架に駆け上がり、淀川を越えた。
暗い車窓でも、周囲の建物の灯が途切れるから、長い橋を渡っていることは容易に察せられる。
新大阪駅新幹線ホームの北側にあるバス乗り場と、新御堂筋の中央を走る北大阪急行線桃山台駅前の側道にある、千里ニュータウンバス停で乗客を拾えば、間もなく、中国道の盛り土に突き当たる。
中国道に沿って、側道を西へ進み、池田ICから中国道に入れば、エンジン音が高まってバスの走りがびしっと安定した。

 

 

 


大阪から西へ高速バスで旅をするのは、初めてのことだった。
一夜明ければ、僕にとって初めての九州の地を踏めると思うと、胸が高鳴った。

交替運転手さんがコックピットからひょっこりと顔を出し、滑らかな口調で挨拶を始めた。
途中休憩地や降車停留所、車内設備についてひと通り案内した後に、

「なお、本日、中国道に積雪の予報が出ておりますが、このバスはスパイクタイヤを履いております。どうか安心してお休み下さい」

と付け加えた。
冬用タイヤと言えばスパイクタイヤであって、スタッドレスタイヤが出来る前の時代だった。
粉塵公害が社会問題となり、スパイクタイヤが全面的に禁止されたのは、平成3年のことである。

何より驚いたのは、東日本の人間の思い込みではあるが、中国地方で雪が降る、ということだった。
雪の高速道路がどのような状況になるのか、見当もつかない。
この日、僕が乗車したのは福岡の西鉄バスだったから、雪道にはあまり慣れていないのではなかろうか、と、若干の不安がこみ上げてきたものだった。

スパイクタイヤ独特の勇ましい唸りを響かせながら、宝塚IC、西宮名塩バスストップ、西宮北ICの各停留所でも乗車扱いをした「ムーンライト」号は、中国山地に向けてぐんぐん高度を稼いでいく。
きついカーブも多く、時たま、身体が左右に揺さぶられる。
上り線であれば、山あいの遙か前方に、大阪平野に散りばめられた一面の灯が望めるところである。
暗い車窓を過ぎ去る標識に記された地名は、馴染みのないものばかりで、それが逆に旅情をそそる。

西宮名塩って、福知山線の駅だったよなあ?──

三田ICの三田も福知山線や神戸電鉄線の駅だったけど、確か「みた」ではなく「さんだ」って読むんだよなあ?──とすれば、ここは有馬温泉の北側にあたるのか。

滝野社ICの滝野って、もしかして、加古川線の滝野駅の近くなのか?──

福崎ICの福崎は、播但線の駅だったっけ──

などと、頭に思い浮かぶのが、どれも、この地域を南北に走る鉄道の駅ばかりなのは、元鉄道ファンとしてやむを得ない。
想像力を駆使しながら、自分の身体が未知の土地に向かって走りこんでいる時間は、僕にとって、まさに至福だった。

中国道は人跡稀な山岳地帯を貫くのだから、街の灯が頻繁に車窓に映る東名や名神とは違って、高速道路以外の照明が見られないであろうことは、乗る前からわかっていた。
ただ、バスの愛称から、空にぽっかりと浮かぶ月を窓越しに愛でながら過ごす夜の旅を、何となく想像していた。
この日は日中から、分厚い冬雲に空が覆われてしまい、月も星も、仰ぎ見ることは全くできなかった。

それにしても、「ムーンライト」とは、よく名付けたものだと思う。
国鉄の「ドリーム」に匹敵する、夜行バスにふさわしい愛称ではないだろうか。
「ムーンライト」といえば、一時期全国を走った夜行快速列車「ムーンライト○○」を思い出す人も多いであろうが、その嚆矢となった新宿と新潟を結ぶ夜行快速列車が運行を開始したのは、昭和62年のことである。

 

 

 

$†ごんたのつれづれ旅日記†


僕が思い浮かべたのは、かつて日本で運航されていた深夜航空便の方だった。
昭和35年6月22日、日本航空が羽田空港と福岡空港を、伊丹空港を経由して結んだ深夜割引便「ムーンライト号」である。

その運航ダイヤは、

羽田0:30→大阪2:20着・2:25発→福岡4:50
福岡2:35→大阪4:05着・4:30発→羽田5:50

というものであった。

今では考えられないほど時間がかかっているのは、使用機材が、日本唯一の国産旅客機YS-11、つまりはプロペラ機だったからである。
深夜の発着が許可されたのも、ジェット機ではないからという理由であったらしい。
僕は乗ったことはないけれども、好きだった小説で、主人公が急遽大阪から東京へ向かわなければならない時に、恋人が「ムーンライト」の座席を手配してくれた、という場面が、強く印象に残っていた。

 


他にも、羽田と福岡を直行する「第2ムーンライト」、羽田と札幌を結ぶ「オーロラ」、札幌から羽田経由で伊丹まで足を伸ばす「ポーラスター」といった便が、深夜の日本の幹線航路を飛翔していたという。
ちなみに料金は、羽田から大阪が4450円、福岡8900円、札幌9100円であった。
東京-大阪間の電車特急「こだま」が、1等7440円、2等4200円、3等であれば1790円で乗れた時代である。

「深夜まで東京で仕事をしても、目的地で充分な休養がとれ、翌朝には爽快な気分で活動できます。時間や宿泊費が節約でき、1日をフルに活用」

と、以前に紹介した「ドリーム」号のパンフレットと似たような宣伝文句がポスターに書かれて、まさに高度成長期ならではの猛烈な時代であったことが伺われる。
「ムーンライト」は、後に日航から東亜国内航空が担当することになったが、国内線のジェット化が進み、夜間の離着陸が全面的に禁止されたため、昭和49年に運航を終了した。

「ムーンライト」だけではなく、「オーロラ」は札幌と函館や根室を結ぶ夜行バスとして、「ポーラスター」は仙台と成田空港を結ぶ夜行バスとして、深夜航空便の愛称は、いずれも夜行高速バスに復活している。
それだけ、魅力あるロマンチックな愛称だったということなのであろう。

 


毛布にくるまって、いつしか眠りに落ちていた僕は、ふと目を覚まして、カーテンの隅っこを少しだけめくってみた。
消灯されて漆黒の闇に包まれた車内で、前方の、緑色に鈍く輝く小さなデジタル時計は、午前3時を示している。

どこまで来たのだろう、と、外を一瞥するなり、いきなり眠気が吹き飛んだ。
ハイウェイの路面は、運転手さんが予告した通り真っ白に染まっていた。
アスファルトをかむタイヤの唸りもなく、もこもこと、どことなく頼りなさげな走行音だけが聞こえている。
照明に照らされて、激しく牡丹雪が降り注ぐインターチェンジで、「三次」という標識が窓外を過ぎ去っていった。
バスは、広島県北部の山岳地帯を走っていたのである。

僕にとって、雪道の高速走行は、初めての経験だった。
しばらくは、その冬初めての雪景色を楽しみながらも、おそるおそるバスの走りっぷりを窺っていた。

スリップしたり、スタックしたりしないものなのか?──

と、若干ヒヤヒヤしながら。

しかし、「ムーンライト」号の乗り心地に、微塵の揺るぎも感じられなかった。
僕はすっかり安心して、襲ってきた睡魔に身を任せるように、カーテンを閉めて眠りに落ちた。
 
「おはようございます。バスは定刻に運行しており、ただいま、壇之浦パーキングエリアに到着しております」

という囁くようなアナウンスとともに、車内の照明が点けられた。
リクライニングされていた座席が、あちこちでもっこりと起き上がり、静まり返っていた車内が、衣ずれの音や、欠伸や溜息でざわざわし始める。

眠い目をこすりながらバスの外に出て、思いっきり身体を伸ばした。
冷えきった空気が、僕の全身を包みこむ。
まだ、冬の夜は明けていなかった。

 

 

 

 

 


見上げれば、関門大橋のどっしりとした黒いシルエットが、頭上を圧して南へ伸びている。
点々と並ぶ街路灯が、霧に滲んで彼方へ続いている。
展望台の向こうに瞬く賑やかな街の灯は、これから向かう九州の地なのであろうか。
それは、手に取るように近くに見えた。

ブォーッ──

遠くで、かすかに、船の汽笛が、張りつめた空気をかすかに震わせる。

ここは、まさに、本州の西の端だった。
遠くまで来た、という喜びがこみ上げてきた。
航空機や新幹線では味わえない気分だったと思う。
初めての九州への旅で、夜行高速バスを選んで良かったと、心から思った。

 

 

 

 


その後に僕が乗車した、名古屋、金沢、岡山から福岡へ向かう夜行バスは、必ず、壇之浦で早朝の休憩を取ったものだった。
源平合戦の古戦場、壇之浦PAは、僕にとって、福岡へ向かうバス旅での、九州上陸の前奏曲みたいなものだった。

壇之浦PAでの感動があまりに大き過ぎたのか、それとも、再び眠り込んでしまったのか。
「ムーンライト」号がいったん高速を降りて経由した、門司(桟橋通り)・砂津・小倉駅前・引野口(黒崎IC)といった北九州地区の停留所のことは、すっかり記憶から抜けている。
当時の福岡都市高速は部分開通で、九州道とはつながっていなかったはずだから、どんな経路で福岡市内へ入ったのかも、全然憶えていない。

車窓から天神の西鉄福岡駅と岩田屋デパートを目にして、夢ではなく、自分がいるのが九州福岡の地であることが、ようやく確信できた。

バスは天神バスセンターには入らず、渡辺通りの信用金庫前バス停で、乗客の半分近くが降りてしまった。
車内が閑散とすれば、10時間に及ぶバス旅も終わりが近いことが実感されて、何となく寂しい思いに駆られた。
もっと乗っていたかった。

あちこちの木立ちの影に、ラーメンの屋台が無造作に置かれている那珂川を渡り、博多駅の隣りにある交通センターでバスを降りると、暖房の効いた車内との温度差に、思わず身体がガタガタと震えた。

「おうおう、ごっつう寒いもんやなあ、福岡って」

と、僕の前に降りたおっさんが、コートの襟を立てながら振り返って苦笑いした。

遙々とやって来た福岡は、僕が抱いていた温暖な九州のイメージを打ち破って、陰鬱とした日本海側に位置する街であることを思い出させる、冬の装いだった。

 

 


平成2年にJRバスと南海電鉄・昭和自動車が運行する「サザンクロス博多」号が、大阪と福岡・筑前前原の間で運行を始めたが、わずか4年後の平成6年に運行を取りやめている。
「ムーンライト」号の知名度に及ばなかったものと、当時は噂されたものだった。
また、大阪と福岡の間を日中に走る「山陽道昼特急博多」号も、平成15年に開業したが、こちらも8年後の平成23年に運休してしまった。

 

 

 

 

 


「ムーンライト」号は、平成2年に北九州地区を通過する特急便や、直方・飯塚・後藤寺に向かう筑豊系統を増設して、隆盛を極めた。
平成2年3月には神戸を発着する「山笠」号、同年10月には京都を起終点とする「きょうと」号といった、関西と福岡を結ぶ波及路線も生まれた。

この頃の「ムーンライト」号の存在感は圧倒的だった

 

 

 

 


無敵と思われた「ムーンライト」号の推移に翳りが見え始めるのは、この20年程のことである。

平成5年に筑豊系統が、平成11年に特急便が廃止され、大阪と北九州・福岡を結ぶ1系統だけに減便された。
平成22年には関西側の始発駅を京都に変更し、平成25年からは神戸三宮も経由するなど、 停車駅の大幅な見直しを余儀なくされたのである。
「山笠」号は平成11年に、 「きょうと」号は平成22年に廃止されており、かつては3つの路線が運行されていた区間を1つにまとめてしまった訳だから、乗客数の厳しさは推して知るべしである。

それでも、常に高速バス業界の牽引車として34年の長い歴史を途切れさせることなく、関西と福岡を結ぶ貴重な足として走り続けてきたことには、心からの敬意を表したい。

 

 


<追記>
平成29年2月に「『ムーンライト』号運休」というニュースを小耳に挟んだ時には、そんなはずがない、と一笑に伏した。
世の中「ムーンライト」を名乗る交通機関は少なくないから、そのどれかのことだろうと思った。

しかし、そうではなかった。

『福岡と近畿地方を30年余りにわたって結んできた西日本鉄道の夜行高速バス「ムーンライト号」が、3月末で運休する。
ゆったり座れる3列シートを日本で初めて導入するなど国内の夜行バスのお手本とされた存在だが、格安航空会社(LCC)などとの競争に敗れ、歴史に幕を下ろす。

ムーンライト号は1983年の中国自動車道の全線開通に合わせ、「日本一長い距離を走る高速バス」として福岡―大阪間で運行を開始。
「飛行機並み」のサービスを売りに、車内トイレ設置やビデオ上映のほか、毛布や飲み物の提供をしてきた。
現在は福岡―京都間を1日1往復。
途中で神戸や大阪などに停車し、運賃は福岡―大阪の大人料金で8千~1万1千円。
宿泊費を削れると、学生から社会人まで広い世代に愛された。
しかし、近年はLCCや格安バスなどに客を奪われ、この10年間は赤字が続いていた。
同社は「あと1カ月あまり、多くの人に乗ってほしい」としている(平成29年2月25日 朝日新聞)』

このニュースは他の大手メディアでも取り上げられ、読み終えて思わず溜め息が漏れた。

まず思い浮かんだのは、長きに渡って人気を保ってきた伝統の商品でも淘汰されてしまう、今の時代の厳しさである。
何十年と親しみ、不況などの時代の荒波にもびくともしなかった老舗や人気商品が、いきなり力尽きたように姿を消すことが、最近増えているように感じる。
世の中に存在していて当たり前と感じていたものがなくなっていく御時世なのだろう。
僕らはただならぬ時代に生きているのだと、諸行無常、容赦のない時の流れが身にしみるのは、このようなニュースに接する時である。

無論、そのような事態に陥るには第三者には窺い知れぬ事情があるのだろうし、それぞれの舞台裏を知らなかった者が抱く感慨に過ぎない。
人気路線とばかり思い込んでいた「ムーンライト」号が、まさか10年間も赤字運行だったとは初耳だった。

「ムーンライト」号には、まずはお疲れ様と言いたい。
複数の事業者で路線を運行するための運賃プール精算方式や、横3列シート、個室カーテンの採用など、今に通じる様々なノウハウを最初に生み出して一時代を築き上げた、日本の交通史に名を残すバスであったことは間違いない。

鉄道や航空機と比べて所要時間では劣るけれども、設備の豪華さや値段では優位を保ってきた高速バスの利点が、LCCの台頭で揺らいでいるという風潮は、最近よく耳にする。
航空機が高速バスよりも安い運賃を設定出来るカラクリが、僕にはどうしても理解出来ず、どこかに落とし穴があるのではないかと心配になるのであるが。
また、老舗の路線バス事業者が開拓してきた、いわゆる「レガシー」と呼ばれる高速バスが、元ツアー系の格安高速バスに乗客を奪われつつあることもよく聞く話である。

 

 

 


「ムーンライト」号でも、伝統と名声だけでは、時代の推移に伴うニーズの変遷には対応しきれなかったということなのだろう。
それでも「廃止」とは言わず「運休」という言葉を使っていることに、運行事業者は捲土重来の望みを捨てていないのだと信じたい。

乗車記にも記したように、「ムーンライト」号は、僕を初めて九州の地にいざなってくれた乗り物である。
その一夜は、旅の情緒に溢れていた。
楽しかった。
僕に高速バス旅の魅力を教え、ファンに仕立て上げた路線が消える。
長年務めた舞台を終えて一礼し、静かに引退していく名優のように。

寂しい限りである。

 

 

 

 

 

 

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