最長距離バスの系譜(9)~昭和63年 東急・一畑・中国JRバス スサノオ号 832.8km~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

かつて「ミルキーウェイ」を名乗った夜行高速バスがあった。
東急バスが、自社の高速バスに共通のネーミングを施したのだ。
天の川とは、満天の星空の下を走る夜行高速バスに、なんとふさわしい愛称だろうか。
シルバーにブルーの濃淡のストライプが入ったボディカラーも、星が散りばめられた銀河を彷彿とさせ、なかなかシックな雰囲気だった。
決して派手でなく、僕が大好きなカラーリングだった。

 


「ミルキーウェイ」が登場したのは、昭和63年10月、渋谷と和歌山、渋谷と鶴岡・酒田を結ぶ2つの夜行高速路線である。
「ミルキーウェイ」は、東急バスだけに固有の愛称だったので、共同運行した地方側のバス会社は、別の愛称をつけていた。
和歌山線の南海電鉄は「サザンクロス」、鶴岡・酒田線の庄内交通は「日本海ハイウェイ夕陽」といった風である。
昭和63年12月には、渋谷-松江・出雲線(共同運行の一畑電鉄と中国JRバスの愛称は「スサノオ」)が、平成元年3月には、渋谷-三宮・姫路線(共同運行の神姫バスの愛称は「プリンセスロード」)が運行を開始した。

 


今回は、渋谷-松江・出雲間高速バス「ミルキーウェイ」と「スサノオ」を取り上げたい。

松江・出雲線でも、東急バスは、同社の他の3路線と同様に、自社便について「ミルキーウェイ」の愛称を名乗り続けていた。
同社のポスターや乗り場の案内では、「『ミルキーウェイ』松江・出雲行き」と表現されていたような記憶がある。
例えて言うならば、東海道・山陽新幹線の「のぞみ」を、JR東海所属の編成とJR西日本所属の編成で列車名を変えてしまうようなものだったから、利用者にとってはわかりにくいし、バス会社ごとに愛称を変える方法は馴染まない気がした。
しかし、「ミルキーウェイ」塗装のバスでも、よく見れば、扉のわきのステッカーに、素戔嗚尊のイラストと一緒に「スサノオ」と書かれたステッカーが貼ってあった。
いったいどっちなのか、と分類にこだわるマニアとしては思ってしまうのだが、普通の乗客にとっては目的地にさえ走ってくれるならば、愛称などはどうでもいいことなのかもしれない。
この稿でも「スサノオ」と呼ぶことにしよう。

 

 

 

 


子供の頃に「古事記」や「日本書紀」といった神話に接しながら、最も親しみを覚えたのが、素戔嗚尊だった。
駄々をこねて泣き叫んだり、凶暴になったり、子供のような性格付けをされている側面もあるけれども、生贄にされそうになっていた櫛名田姫を櫛に変えて髪にさし、八岐大蛇を退治する場面などは、子供心にも、最高に格好良く映ったものだった。
櫛名田姫を妻に迎えて、出雲の国に降り立ち、

「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を」

と詠んだ和歌は、優しさに満ち溢れているように感じられた。
ちなみに、この歌は、日本最初の和歌とされているという。

「スサノオ」の運行距離は832.8kmで、品川-米子線「キャメル」号の779.7kmを抜いて、日本一の長距離路線となった。
800kmを初めて超えたこの路線に、天照大神や大国主命ではなく、「スサノオ」と雄々しく命名したセンスを、僕は大いに支持したものだった。

振り返ってみれば、東京-大阪間「ドリーム」号の登場から、大阪-福岡間「ムーンライト」の登場まで、14年を要した。
「ムーンライト」登場から、東京-弘前間「ノクターン」登場まで、3年。
「ノクターン」から、東京-米子間「キャメル」まで2年。
そして、「キャメル」から「スサノオ」まで、僅か5ヶ月である。
日本に高速道路が建設されて以降の、最長距離高速バスの記録更新間隔は、どんどん縮んでいた。
昭和60年代は、他にも、全国に高速バスが雨後の筍のように開業し、認知されていた時代である。
「ムーンライト」が、民間のバス事業者でも長距離高速バスを運行するノウハウを築き上げ、「ノクターン」が、地方都市でも、夜行高速バスをペイできるだけのニーズがあることを証明した功績が、大きかったのだ。
そして、「キャメル」が、700kmを超えるような長距離輸送でもバスが担えることをアピールしたのである。
このように、最長距離路線が次々と更新される状況は、それだけ、バス事業者が高速バスの運行に自信をつけた表れだったのだろう。

僕が「スサノオ」に乗ったのは、年号が変わった、平成元年の師走のことだった。
九州・長崎からの帰り道に、山陰を回ったのである。
長崎から列車を乗り継いで、九州の玄関口・門司まで戻ってきた僕は、11時51分発のディーゼル急行列車「さんべ」2号に乗りこんだ。

島根県の名山・三瓶山に名を借りた「さんべ」の愛称は、最初、昭和36年に登場した大阪-浜田間夜行急行が始まりであったという。
昭和40年10月に走り始めた、博多-米子間夜行急行「しまね」、小倉-米子間準急「なかうみ」、そして熊本-米子間準急「やえがき」(前身は博多-米子間準急「やくも」)の3つの列車を、昭和43年10月に統合した急行列車に、「さんべ」の名は譲られた。
この頃、急行「さんべ」は、下関から、海岸沿いの山陰本線経由と、内陸を行く美祢線経由の2編成に分割して運行し、1時間40分後に長門市駅で再び併結するという離れ業で知られていた。
益田駅では、小郡始発の編成まで連結して、終点の米子に向かっていたのである。
下関と長門市の間は、山陰本線経由で77.7km、美祢線経由で79.8kmだった。
厳しい定時運転で定評のある、日本の国鉄だからこそ、可能だったのだと思う。
昭和50年には、「さんべ」の熊本-博多間が別の列車に分割され、小郡-益田-米子編成が廃止されている。
昭和59年には、夜行「さんべ」が廃止されて日中の運転だけに削減された。
昭和60年には、「さんべ」の運転区間が小倉-米子間に短縮され、美祢線経由の分割運転も取りやめとなったが、同時に、博多-米子間で特急「いそかぜ」が運転を開始している。
しかし、平成11年に急行「さんべ」は廃止され、平成13年に小倉-益田間に運転を短縮していた特急「いそかぜ」も、平成17年に姿を消してしまった。

 

 


僕が乗った「さんべ」2号は、門司駅が始発で、関門海底トンネルを越えて本州に上陸し、そのまま山陰本線に入っていく。
気動車でくぐる海底トンネルというのも、なかなか風情があったと、今にして思う。
急行「さんべ」と特急「いそかぜ」が亡きあと、関門トンネルをくぐる特急・急行列車は、絶えてしまったのである。

わずか2両編成のディーゼル急行は、低く腹に響いてくるエンジン音を唸らせながら、日本海に面した海岸線を忠実にたどっていく。
福江、湯玉、阿川、黄波戸、飯井、三見、越ヶ浜、長門大井、木与、宇田郷、須佐、戸田小浜、石見津田、折居、周布、石見福光、馬路、五十猛、波根、田儀──
ここに挙げた駅は、ほとんどが急行停車駅ではないけれども、車窓から、真っ青な海が見えた区間にある。 
冬の山陰の海は、静かにうねりながら渺々と広がり、水平線と曇り空の境は、霞んで見えなかった。
同じ日本海でも、北陸の荒々しさとは随分違うものだと思った。
出雲市駅まで6時間もの長旅だったが、4人向かい合わせの固いボックス席で、僕は飽きることがなかった。

 

 


定刻17時59分に到着した出雲市では、既に陽は西に隠れて、薄暗くなり始めていた。
現在のように、瀟洒なロータリーがなかった時代の駅前だった。
見知らぬ町でバスを待つというのは、不安に駆られるものである。
鉄道の駅とは異なり、バス乗り場の存在感などというものは、決して大きくも絶対的でもないから、停留所を探し出すのもひと苦労であることが少なくない。
祭などのイベントや交通規制などで、簡単に場所が変更されてしまうこともあるから、停留所を見つけ出しても、バスが実際に現れるまで、本当にこの場所にバスが来てくれるのか、と、僕のようなよそ者は疑心暗鬼になってしまうのだ。
まして、乗り場が暗闇に包まれている時間帯に、夜行バスを待つ心細さは、経験した者でないと分かりにくいかもしれない。
それを、旅情とも呼ぶのだけれど。

 


18時30分発の渋谷行き「スサノオ」は、僕が出雲市駅の改札を出た時には、早々と駅前の営業所に姿を現してくれていた。
白地に「渋谷 松江 出雲」と大書された、一畑電鉄バスである。
これに乗れば、確実に東京に連れて行ってもらえる、という安堵が、僕の心を満たした。
同時に、九州まで往復した今回の旅も、これで終わりかと、一抹の寂しさがこみ上げてきたのも事実である。
それでも、東京まで13時間近くの夜行バスの車内を楽しく過ごそう、と心に決めた。

出雲そばの夕食に舌鼓を打ってから、乗降扉の前で改札する運転手さんに迎えられて、僕は、「スサノオ」に乗り込んだ。
夜行バスではすっかりお馴染みになった、横3列独立シートがずらりと並んでいる。
共同運行の東急の「ミルキーウェイ」は、前方8列が横3列で、9・10列目は喫煙サロンにするつもりで横4列という仕様になっていた。
利用者が増えたために、4列部分も客席として発売することになったのだが、「スサノオ」の乗車券を購入した時に、僕が指定されていたのは、9列目だった。
やれやれ、横4列シートで13時間か、と観念していたが、一畑電鉄のバスは、9列目も横3列独立シートだったので、飛び上がりたいほど嬉しくなった。
そうだよな、日本一の長距離バスなんだから、それくらいの配慮は当たり前だよな、と思った。
二十数年後の日本最長距離バスが、全席、横4列シートになるなどとは、思いも寄らなかった。
平成23年に登場した、大宮・池袋-福岡間「Lions Express」のことである。

 


「ミルキーウェイ」と共通の座席仕様として印象的だったのは、「スサノオ」の足置き台が、金属の横棒を渡しただけの簡易な造りだったことである。
他の夜行バスの足置き台は、平たい板状になっていることが多かったが、「ミルキーウェイ」と「スサノオ」の足置き台は、そのまま足を乗せると、ゴツゴツして落ち着かなかった。
どうやら、備え付けのスリッパを履くことが前提のようだったが、僕は、スリッパを履いて眠る習慣はなかったので、足置き台は使わず、新聞紙を床に敷いて足を伸ばすことにした。

色々と注文は多いけれども、出発までには、すっかりくつろいだ。
出雲市駅から乗った乗客は1/3程度で、車内には空席が目立った。
それにしても、午後6時半などという早い時間に、夜行に乗り込んだのは、東京駅から九州へ向かう寝台特急以来のことではなかったかと思う。
西鹿児島行き「はやぶさ」や、宮崎行き「富士」などは、東京駅を18時台に発車したものだった。
東京の手前で、都心へ向かう渋滞に巻き込まれないよう、上りの夜行バスは、地方を早めに発車することが多かった。
到着時刻を先に延ばしにくい以上は、長距離路線になるほど、出発時刻が早まるのは、やむを得ないであろう。
これも、最長距離路線の貫禄である。

出発前からカーテンが閉めきられていたが、いくら何でも、眠るには早すぎる。
リクライニングを倒して、鼾をかき始めた強者も中にはいたけれど、僕はカーテンの隅っこを少しめくって、窓外を流れる夜景を眺めながら、しばらく起きていた。
「スサノオ」は、夜の帳に包まれた国道9号線を、東へ向かう。
夜景と言っても、道路沿いにぽつりぽつりと点在する家々の灯や、店の派手な照明などが、時折、窓を淡く染め上げるだけである。
すっかり葉を落とした道端の木立ちが、櫛の歯を引くように、真っ暗な窓外を流れていく気配はわかる。
その奥に広がる深い闇は、宍道湖であろうか。
遙か彼方に、かすかに明滅する光は、湖の対岸なのかもしれない。
この時間帯は、どこにいても人恋しくなってしまうものだが、それにしても、山陰とは、何と寂しいところなのだろうと、胸がつまった。
松江駅で、大勢の客が賑やかに乗りこんで来て、ほぼ満席になった時には、なんだかホッとひと息ついたものだった。

渋谷行き「スサノオ」の最後の乗車停留所は松江駅であるが、そこからどのような経路をとるのか、乗車する前から興味津々だった。
地図を見ると、国道432号線で、松本清張の「砂の器」で有名な亀嵩付近に出て、JR木次線に沿った国道314号線で狐峠を越え、中国自動車道の東城ICに出るのが最短距離のように思えるのだが、いかんせん、高速バスが走れるような道路なのかどうか。
宍道まで戻って、国道54号線を三次まで南下するのは遠回りだろうし、などとあれこれ考えているうちに、バスは、国道9号線に戻って中海の南岸を走り、鳥取県に歩を進めて、米子自動車道に入ってしまったのである。
なあんだ、と思った。
山陰自動車道も松江自動車道もなかった頃であるから、最も無難な経路なのだろうが、既に乗ったことのある米子-品川間「キャメル」号と同じ道なのかと、少なからずがっかりしたものだった。

そのまま車窓に興味を失ってしまったのか、高速に乗って勢いよく走り始めてから先の記憶は、ほとんど記憶に残っていない。
岡山との県境を越えたばかりの、蒜山高原SAで休憩した際に、身を切るような寒さに震えながら、澄み切った星空に吸い込まれそうな気分になったことだけは、かすかに憶えている。
九州からの帰り道に、中国山地のど真ん中で夜空を見上げているのは、不思議な感覚だった。

その後は、よく眠ったのだろう。
夜行バスの上り便は、旅の終わりに使うことが多いので、疲れてぐっすり寝込んでしまうのが常だった。
「スサノオ」でも例外ではなく、僕の記憶は、そのまま、渋谷駅ビル2階の、井の頭線と銀座線に挟まれた、東急バスターミナルまで一気に飛んでしまう。
到着予定時刻より30分ほど早い、午前7時頃だったと思う。
ゴミが風に吹かれて歩道に散乱している、まだ薄暗い道玄坂の建て込んだ街並みを、曇った窓を拭いながら、ぼうっと眺めていた。
バスは、緩やかなスロープの専用路で、直接、ターミナルに登っていく。
ここは、昭和44年まで国道246号線を走っていた、玉川電車渋谷駅の跡地である。
昭和45年5月から、渋谷と大井町を結ぶ東急バス「渋41」系統が乗り入れを始め、昭和45年から昭和50年まで、渋谷と静岡・名古屋を結んでいた東名急行バスも、ここを起点にしていたという。
学生時代から、長く大井町に住んでいた僕にとって、馴染みの深い乗り場だった。

 

 

 

 

 

 

 

 


あまりに呆気なく着いてしまったから、800km以上もの距離を走り終えたことが信じられないような心持ちで、僕は「スサノオ」を降りた。
玉川電車時代の面影が残る、吹きっさらしのホームで、容赦なく吹きつけてくる師走の寒風に、思わず身を震わせた。
「スサノオ」は、乗客全員を降ろすと、乗り場の奥にあるターンテーブルまで移動した。
運転手さんが窓から手を伸ばし、ぶら下げられたスイッチを操作すると、バスの巨体が、ゆっくりと180度回転していく。
大井町行きのバスも、いつも、同じように転回していた。
もともと鉄道駅だった細長い敷地だから、バスが自力でUターンするスペースの余裕がないのである。
回り終えた勢いで、「スサノオ」の車体が、ゆさゆさと左右に揺れていた。
眠そうな表情の乗客たちは、瞬く間に駅ビルの中に姿を消し、大井町行きのバスを待つ僕だけが取り残された。

 

 


平成6年7月に、マークシティの工事に伴って、渋谷の旧バスターミナルは廃止された。
現在、高速バスターミナルは、マークシティの5階に整備され、「スサノオ」も元気な姿を見せ続けている。
平成10年6月に、「スサノオ」の運行から東急バスが手を引き、残念ながら、「ミルキーウェイ」の流麗な姿は見ることが出来なくなってしまった。
一方で、「スサノオ」は、平成13年に山陰道に経路を乗せ換え、平成19年からは東京駅を起終点とするようになった。
人気路線に成長したようで、定員の多い2階建てバスが投入されたこともある。

平成24年には、下り便が、出雲市駅から出雲大社まで足を伸ばすようになった。
出雲大社の祭神は、素戔嗚尊の娘婿に当たる大国主命である。
素戔嗚尊が、娘の須世理姫を大国主命の嫁にやるくだりは、世代交代の寂しさが感じられて、胸がつまったものだった。
中世には、出雲大社が祭神として素戔嗚尊を祀っていた時期もあったというから、まんざら関係ない間柄でもないのである。

 

 

 

 

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