日本一の長距離を走った昼行高速バス弥次喜多ライナー号で東海道・山陽道中バス栗毛 | ごんたのつれづれ旅日記

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このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

JR横浜駅中央コンコースの雑踏を東口の方へ向かい、ルミネと東口地下街「ポルタ」を抜けると、いきなり、掻き消すように人々の姿がまばらになる。

通路をまっすぐに進めば、床面積が日本一と言われたこともある横浜そごう百貨店だが、右へ折れれば、行き交う人は一段と減り、階段や柱の陰などに、人待ち顔の人がぽつりぽつりと佇んでいる。
横浜シティエアターミナル(YCAT)の入口である。
大阪などもそうであるが、シティエアターミナルと言っても、実質はバスターミナルとして使われている。



今から10年前の平成17年10月の週末、僕の旅はそこから始まった。

時刻は午前7時を回ったばかりである。
階段を昇って、屋内に何本ものホームが並ぶバス乗り場に出ると、かすかな潮の匂いを運んでくる風が、優しく頬を撫でる。
東側のバス出口から朝の日光が差し込んでくるから、構内は明るくあっけらかんとしていた。
大きな荷物を抱えた人々が列を作る、羽田や成田へ向かうリムジンバス乗り場だけが活況を呈しているが、広い構内の大半は、市営バスが思い出したように出入りするだけで、閑散としていた。

僕が目指す高速バス乗り場は、リムジンバス乗り場と同じホームにある。
横浜を発着する高速バスの殆どが夜行路線であり、日中に運行されているのは、大阪行き「横浜昼特急大阪」号や飯田行き「ベイブリッジ」号、富士五湖や静岡、浜松方面、または房総方面に向かう系統くらいである。



平成17年10月に、横浜を起終点とする驚くべきバスが登場した。
横浜から町田駅を経由して、福山・広島に向かう昼行高速バス「弥次喜多ライナー」である。
運行距離は912.1km、所要時間は13時間にも及び、昼行高速バスとしては日本一の長距離・長時間路線として、今でもその記録は破られていない。

だからこそ、僕などは勇んで乗りに来る訳であるが、発車時刻の7時30分の数分前に姿を現した中国バスに乗り込んだ客は、たった3人であった。
横3列シート29人乗りのハイデッカーはガラガラで、ゆったりくつろぐ贅沢な道行きとなった。

その略語ってどうなの、と思ってしまう「Chu Bus」と書かれた車体には、羽織に脚絆姿で、刀を差した腰紐をキリリと巻いた出で立ちの、弥次さん喜多さんが描かれている。
「東海道中膝栗毛」で花のお江戸を旅立ったのは、神田の八丁堀に住む、妻を亡くして独り者の弥次郎兵衛と、居候の喜多八である。

東海道どころか山陽道まで足を伸ばすバス路線に、どうして「弥次喜多ライナー」と命名したのだろうか。
十返舎一九の著作では「東海道中膝栗毛」の知名度が群を抜いているが、「続膝栗毛」と題し、浪速から船で四国に渡って金比羅さんに詣で、更に瀬戸内を渡って安芸の宮島、中山道を戻って信濃の善光寺参りと、実に壮大な旅物語が出版されていたのである。



留守宅で暴れる鼠のために店賃を払うのは無駄とばかりに借家を引き払い、身代残らず風呂敷包みにまとめ、幾らかでも値がある物は古道具屋に売り払って、唯一の心がかりは、酒屋と米屋のツケをそのままにして旅立ってしまったことだと、なかなか剛毅な2人なのだ。

「さきの世に 借りたをなすか 今貸すか いづれ報いの 有りと思へば」
「借金は 富士の山ほど あるゆへに そこで夜逃を 駿河ものか」

このように人を喰った歌を残して旅立った弥次さん喜多さんであるが、工面した費用は、これほどの長旅に足りたのだろうか。

そもそも、「弥次喜多ライナー」は、江戸に足を踏み入れていない。
道路いっぱいにひしめく車の波に揉まれながら、バスが走るのは、横浜から西へ向かう国道1号線である。

弥次さんが、

「海辺をば など品川と いうやらん」

と難癖をつけているような上の句を詠み、すかさず喜多さんが、

「さればさ水の あるにまかせて」

と、「さ水」と「鮫洲」をかけて気のきいた下の句で応じた品川宿も、

「飯に炊く 麦藁ざいく 買いたまへ これは子供を すかし屁のため」

と、麦飯を食べればよく出ると言われるオナラと、子供をあやす藁細工をかけて弥次さんが詠んだ大森も、「弥次喜多ライナー」は通らないのである。

バスは、横浜駅から東海道本線沿いに走る。
横浜駅のすぐ近くに首都高速横羽線のランプがあり、首都高速三沢線から横浜新道へと進めばスピーディな高速走行が出来るのに、と思ってしまう。
そんなに気が急くならばバスなど選ばなければいいと笑われそうだが、保土ヶ谷駅前を過ぎ、丘陵地帯にある戸塚に向けて、だんだんと山深くなっていく、200万都市とは思えない風情は、僕も嫌いではない。



「東海道中膝栗毛」における保土ケ谷の描写は、なかなか印象的である。

「もし、お泊りかえ」

と、宿の呼び込みをする留め女が、行き交う旅人を捕らえては手を引っ張り、

「コレ、手がもげらァ」
「手はもげてもようございます。お泊りなさいませ」
「馬鹿ァ言え。手がなくちゃァおまんまが食われねえ」
「お飯のあがられねえほうが、お泊め申すにゃァなおいい都合さ」
「エヽいまいましい。放さぬか」

旅人と留め女のやりとりの様子を面白がって眺めていた弥次さん喜多さんが、

「お泊りは よい程が谷と 留め女 戸塚前ては 放さざりけり」

と一句捻り出すくだりには、思わず吹き出してしまう。

行く先々の同行二人と、触れ合う人々との会話やドタバタだけでなく、このように、道中の地名を巧みに詠み込んだ狂歌が散りばめられているのも、「東海道中膝栗毛」の大きな魅力だと思う。
セコかったり悪戯好きであるものの、2人はなかなか教養人なのである。

バスは戸塚の手前の新保土ケ谷ICから国道16号線保土ヶ谷バイパスに入り、車の波に揉まれながら、東名高速道路の横浜町田ICを素知らぬ顔で通り過ぎてしまう。
町田街道を町田駅まで往復してから、ようやく東名高速を走り出した時には、何だかホッとした。
およそ1時間あまりを費やして寄り道したにもかかわらず、町田からの乗車は2人だけであったが、横浜から乗った客も3人だから、文句も言えない。

いったん高速道路に入れば、「弥次喜多ライナー」は、愛称の主である2人から「関係ない」と言われそうなほどに俊足である。
東京からの高速バスに乗ると、関東平野を抜け出すまでが冗長に感じるが、横浜からならば、相模野の田園地帯の彼方に、丹沢の山並みがみるみる近づいてくる。

 



「はやそろそろと、爪先上がりに、石の高く飛び出た石畳」と描写された箱根八里は、現在でも難所に変わりはなく、連続する急カーブで高度を詰めていくハイウェイに、身体が右に左に揺さぶられる。
酒匂川の川面が、あっという間に深い谷底に遠ざかり、見下ろせば身がすくむ程である。

「人の足に 踏めど叩けど 箱根山 本堅地なる 石高の道」

と、弥次さんが詠み上げた風情はさすがに残っていないけれど、東名高速前半の見所であるのは間違いない。

平成3年の拡張工事の折り、新しい下り線は、従来の上り線と下り線を使った2ルートを同方向に併走させ、全く別個に3車線の上り線を建設する方法が採られた。
僅かな乗客で身軽なためか、「弥次喜多ライナー」の走りはなかなか果敢であったが、さすがに、高速車優先とされる右ルートには入らなかった。


 



木々の間に見え隠れしていた右ルートが近づき、上り線の巨大な橋梁が頭上を過ぎ去ると、周囲の視界がぽっかりと開けて、峠の頂に近づいたことが伺われる。
御殿場ICを過ぎ、緩やかな勾配を勢いよく下り始めれば、右手に雄大な富士の裾野が広がる。
この日は快晴だったから大いに期待していたのだが、富士の山頂は、幾筋ものちぎれ雲に覆われて、なかなか全貌を見せてくれない。

弥次さん喜多さんは、箱根の麓の三島で、旅人を装い他人の物をかすめ盗る「ごまの灰」に金を盗られた挙げ句、沼津で出会った西国侍に財布を売り、僅かの路銀を得て、原の宿場町(沼津市)に入る。

「まだ飯も くはず沼津を うち過て ひもじき原の 宿につきたり」

と、沼津と飲まず食わずをかけて弥次さんが詠めば、喜多さんは、

「エヽおめえまだ、そんなしみったれを言うわ。今の銭で蕎麦でも食うべい」
「ソリャァよかろう、よかろう」

と、2人は蕎麦屋へ入ってしまう。

「オイ二謄頼みます」
「ハイハイ」

一般に、蕎麦は細いのに限ると言われているらしいが、原の宿では、野暮に太い田舎蕎麦であった。
その方が腹の足しにいいと喜ぶ弥次さんは、

「太い蕎麦だ。喰いでがあっていいわえ。喜多八、もう一杯替えようか」
「イヤイヤそういちどきに銭を使ってはならぬ。また先へ行って、なんぞやらかしやしょうから、湯でも思いっきり飲みなせえ」

湯とは、無料の蕎麦湯のことらしい。

「今くひし そばは富士ほど 山もりに すこしこころも 浮島が原」

浮島が原は、美しい松林と富士山の眺望が有名な浮島沼がある、東海道きっての風光明媚な名所である。
満腹して心が満たされたにもかかわらず、柏原(富士市)では鰻の匂いに悩まされなら、左富士で名高い吉原(富士市)へ向かう、というオチが待ち受けている。

「蒲焼の にほひを嗅ぐも うとましや こちら二人は うなんぎの旅」

このあたりでは悪天候にも見舞われたようで、しきりと降り続く雨に、洒落も無駄口も出ない有様だった。
珍しくも陰鬱な、しかし、静かな情緒に満ちた場面と言えよう。
とぼとぼと歩き悩むうち、江尻の宿場(旧清水市)でようやく雨が上がる。

「降りくらし 富士の根ぶとを うちすぎて 江尻に雨の 晴れあがりたり」

「東海道中膝栗毛」では、東海道のハイライトとも言うべき富士のナマの描写が欠如している。
フィクションなのだから、晴天に設定して幾らでも盛り上げようがあったと思うのだが、綿密に取材をした十返舎一九も、天候に恵まれなかったのであろうか。




朝食が早かったために、そろそろ空腹を覚えてきた頃合いの午前10時過ぎ、「弥次喜多ライナー」は富士川SAに滑り込んだ。
ここで、10分の休憩である。

東名高速の沿線で紅葉を見られる場所はあまりないが、富士川は、サービスエリアの周辺に並ぶ木々が真っ赤に色づいて、遠景の常緑樹との対比が鮮やかだった。
展望台からは、渡ってきたばかりの富士川と、その向こうにそびえる富士山が一望できる。

富士川の渡し場では、弥次さんが、

「ゆく水は 矢をいるごとく 岩角に あたるを厭う 富士川の舟」

と詠んでいるが、バスに乗って高速道路で瞬く間に渡りきってしまう平成の御代では、それほどの荒ぶる川には見えない。
流れの何倍も広い、白砂や岩がごろごろする河原ばかりが目立ち、対岸で製紙工場が白煙を上げている。

僅か10分では食事を摂るわけにも行かず、賑わうフードコートを恨めしく見つめながら、飲み物の調達と一服だけの発車と相成った。




箱根越えと富士山に次ぐ東名第三の見所と、僕が勝手に考えている由比の海岸では、山塊が海ぎわ近くまで押し寄せている。
東名高速ばかりではなく、国道1号線や東海道本線までが、細長く伸びる狭い平地の集落を掻き分けるように集まってくる。
高速道路は最も海側に押しやられているが、それだけに眺めは良く、左手の車窓いっぱいに広がる太平洋の海原が、高く昇った陽の光を眩しく反射している。
新幹線だけは内陸をトンネルでぶち抜いているから、由比の景観を見たいがために、僕は高速バスを選ぶことがある。

静岡ICを過ぎると、今度は、昭和54年の大火災事故で有名な日本坂トンネルに差し掛かる。

このあたりの大崩海岸は、由比にも増して、峻険な山塊が海岸に落ち込んでいる。
東名高速も、今度ばかりは付き合っていられないと、長大トンネルで通過してしまうわけだが、明治時代に起工した東海道本線は海岸線に線路を敷き、幾つかのトンネルを穿っている。
現在は内陸寄りに新線が造られているが、旧トンネルの海側が半分海中に崩れ落ち、半円形の入口部分がそのままひっくり返って波に洗われている写真を見て、たまげたことがある。
大崩とはよく名付けたもので、地殻が動き続けている日本列島の生々しさを、不意に覗いてしまった気分だった。



そう言えば、小松左京氏のベストセラー「日本沈没」の導入部は、太平洋の沖合で沈んだ小さな島の調査のために、主人公が焼津港から調査船に乗る場面ではなかったか。
主人公が東京駅で見かけた壁のひび割れに始まり、新幹線の車内で、今のリニア新幹線に当たるのであろうか、新々幹線計画の測量に次々と狂いが生じていることを友人から聞かされ、調査船上では東名高速の橋の落下事故をニュースで聞き、調査の報告をまとめている最中に訪ねた伊豆天城山の噴火に遭遇するという、「日本沈没」の冒頭で主人公に降りかかる不気味な前兆現象の数々は、東海道の東半分に集中している。



かつて、「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」と詠われた難所も、バスは立派な橋梁であっけなく渡ってしまう。
大井の渡しで、弥次さん喜多さんが、渡し賃を安くしようと偽の武士に化けようとする顛末が面白可笑しく書かれているが、そうそううまくいく訳がない。
バレても持ち前の機転でその場をしのぎ、人夫に担がれた蓮台に乗ってみれば、川面の水は逆巻いて目もくらむばかり、命の危険を感じるほどの恐ろしさは例えようもなく、誠に東海第一の大河だったという。
水勢は早く石も流れ、ようやく渡り越えて蓮台を下りた嬉しさに、

「蓮台に 乗りしは結句 地獄にて 下りたところが ほんの極楽」

という句が出たくらいである。
蓮の台に乗るのは極楽浄土と決まっているが、大井川では、蓮台の上が地獄、降りれば極楽だったと言うわけである。

その先の天竜川でも、

「水上は 雲よりい出て 鱗ほど 浪の逆巻く 天竜の川」

と、弥次さんが句を捻っており、ダムや護岸技術が発達していなかった昔は、現在よりも河の流れは遙かに激しかったようである。



愛知県に入った「弥次喜多ライナー」は、上郷SAに滑り込んだ。
ちょうど正午を過ぎたばかりであり、昼食を兼ねた40分もの大休憩をとると言う。

ここにはS&B直営のカレー店があり、上郷のカレーは全国のSA・PAで最も美味いと評判であったから、前々から1度入ってみたいと思っていた。
注文したのは「黒カレーと三河豚のハーブサラダセット」で、「SA・PAメニューコンテスト」で最優秀賞を受賞したという名物料理である。



高速バスで旅をしている最中に御馳走に巡り会うことは滅多にない。
長距離昼行バスの食事休憩は、東京と大阪を結ぶ「東海道昼特急」号の一部の便や、上野と青森を結んでいた「青森上野」号、新宿と岐阜を結んでいた「パピヨン」号などでも見られた。
最近はフードコートなどが整備されて有名グルメ店が出店することも珍しくなくなったが、当時のSAやPAのレストランは地元のバス会社などが出資していることが多く、味よりも、お腹を満たすことが優先されたメニューであることが多かった。

「東海道中膝栗毛」では、弥次さん喜多さんが食事を食いっぱぐれる場面が少なくない。
鰻の件もそうであるが、とろろ汁で有名な丸子でも、店の夫婦が喧嘩しながら作ったとろろ汁を庭にぶちまけてしまうというシーンがある。

「けんかする 夫婦は口を とがらして すれとんびとろろに すべりこそ」

駿河には、

「カラスは鍛冶屋でかねたたき、とんびはとろろのお師匠さん」

という童歌がある。
とろろ汁は、大空をゆっくりと輪を描いて飛ぶ鳶のように、ゆったりした気持ちで擦ると美味しくできるという意味である。



弥次さん喜多さんには申し訳ないが、コクとスパイスが程よく調和した黒カレーに大いに満足した僕を乗せて、上郷を後にした「弥次喜多ライナー」は、名古屋市街の北を回り込んで名神高速道路に入っていく。

岐阜を過ぎると、実り豊かな濃尾平野から、建物がまばらな山あいへと車窓は移ろい、土地の起伏が激しくなって、カーブがきつくなってくる。
関ヶ原から伊吹山の麓にかけては、黒っぽい雲に太陽が覆い隠されて、寒々とした、翳りのある風景に変わる。
このあたりは、北陸に連なる気候と風土が滲み出ている。

米原から彦根、大津までは、琵琶湖南岸に広がる、しっとりとした田園風景である。



こうして名神高速道路をバスで旅すると、他の高速道路とはどことなく雰囲気が異なるように感じるのが常だった。

ほのかに、ドイツのアウトバーンの香りがする、と書かれた文を読んだことがある。
大垣や高槻、山科付近に、他では見られないような長い直線があったり、ハンドルを切り込んでいけば自然に曲がって行けるよう設計されたクロソイド曲線が連続する線形が、アウトバーンに似ているらしい。

クロソイド曲線など知らなかった日本の技術者は、名神高速の設計で、直線と円をつなぎ合わせればいいと単純に考えていたらしいが、世界銀行から融資を受ける関係上、ドイツからアウトバーンの専門家が来日して、クロソイド曲線などの技術を伝授された経緯がある。
山科付近に鉄道の廃線跡があり、名神の用地として先に確保できたことから、日本初の高速道路試験場として様々な試験を行った後に、本線として流用したため、直線になったというのである。
アウトバーンも、以前は直線が多く、第二次大戦前には20kmもの直線区間が存在したらしいが、その後、長い直線は眠くなるという理由で避けられるようになった。

ただし、我が国の高速道路の全てがアウトバーンに倣ったという訳ではない。

日本で高速道路を造る場合には、一般道や水路などの横断構造物が短い間隔で存在する。
それらを下に通すため、6mも土を盛ったのである。
ヨーロッパやアジアなどの大陸ならば、せいぜい1~2mの盛り土の上にハイウェイを造ればいいところを、日本では、6mもの盛り土の上に重い道路を造る訳であるから、ドイツをはじめ他国の例は全く参考にならなかったという。
道路の線形についてはアウトバーンに学んだが、その構造は、日本の風土に合わせて、日本人が自ら、全く独自に開発したのだ。

日本ほど、地域によって地形や地質が、猫の目のように異なる国はない。
極端な軟弱地盤では、盛り土が1.5メートルも沈下したことすらあった。
失敗を重ね、様々な試行錯誤の上で、アスファルト舗装の下の基礎として、大陸ではコンクリートを使うところを、日本ではアスファルトを採用した。
地盤が沈下した時に、コンクリートならば割れてしまうのだが、アスファルトは柔軟であるため、地盤沈下による変形で路面が凹んでも、アスファルトで上から埋められるのだという。
更に、地層の水を抜くため砂をパイプ状に挿入するサンドドレーンや、盛り土のローラーでの押し固め方など、場所ごとに構造を柔軟に変更する独自の構造設計を行わなければ、高速道路の平滑な路面が実現できなかったのだ。

名神高速道路が開業したのは、国道1号線ですら全線舗装されていなかった時代である。
昭和38年5月に栗東IC-京都南IC間を無料で開放したのが始まりで、同年7月に栗東IC-尼崎IC間71.1kmが開業した。
続いて昭和39年4月に関ヶ原IC-栗東IC、同年9月に尼崎IC-西宮ICと一宮IC-関ヶ原ICが、昭和40年7月に小牧IC-一宮ICと、順次開通していったのが、日本の高速道路時代の幕開けであった。

名神高速には、黎明期ならではの様々なエピソードが残されている。

開通当初は、時速100kmで走行できる性能の自動車が少なく、また、殆どの人々が経験したことのない速度だったから、最低速度の50km未満で走行する車や、ガス欠になる車が少なくなかった。
盛り土の高い位置に建設されたために、路肩に駐車して眺望を楽しむ家族連れまで現れたという。



未熟な線形が原因で、事故が多発する箇所も出てきた。
よく知られているのが今須区間で、南北方向から東西方向へ、ほぼ直角に曲がるカーブとなっていた。
下り線では、関ヶ原側に小さな山越えがあり、今須カーブへ向けて下り勾配で右に大きくカーブする。
下り勾配の右カーブがハンドル操作を誤りやすいことは、現在ではよく知られているが、当時の設計では全く考慮されなかった。
上り線は、トンネルを含む緩い右カーブから、急にきつい左カーブになり、上下線とも尋常ではない件数の事故が頻発したという。
昭和51年に、勾配と曲線の緩和のため、関ヶ原側の峠越えと今須カーブそのものを廃止し、全体に緩い曲線を描く新道が建設された。

試行錯誤の上に、日本ならではのノウハウが蓄積され、現在の我が国の高速道路網がある訳である。

3回目の休憩をとった大津SAで、木々の合間に覗く琵琶湖の眺望を楽しみながら、敷地内に「名神起工の地」という記念碑が建っていることを初めて知った。
日本は高速道路建設について未経験の後進国だったが、先進国から指導を受けつつも、実際のノウハウは自ら開発したのだ。




逢坂山トンネルをくぐり抜けて、畿内に足を踏み入れた「弥次喜多ライナー」は、京都市街の南側を通って、淀川沿いに大阪平野へ降りていく。
なだらかな千里丘陵では、大阪万博の太陽の塔がぬっと顔を出す。

午後3時過ぎ、「弥次喜多ライナー」は、山陽道に乗り入れた。
出発してからおよそ8時間で、全行程の3分の2を消化したわけである。
変化に富んだ車窓を存分に楽しんだから、案外早く感じたのだが、そこから先が長かった。

山陽道は、東名高速のように海や山の多彩な車窓が展開する訳でもなく、名神高速のような情緒がある訳でもない。
坦々とした変わり映えのしない丘陵地帯に、断続するトンネルが続くだけである。

午後4時過ぎに滑り込んだ、最後の休憩地である竜野西SAでは、秋の陽が西に傾いて薄暮が訪れていた。
瞬く間に、墨で塗り潰されたように景色が暗転していく。
燈火もまばらで、どこをどう走っているのかも定かではない。
車内のみいたずらに明るいが、ただでさえ乗客数が少ないから、無為に並ぶ空の座席ばかりが目に入って、早く目的地に着かないかと心細くなった。
好んでバス旅を選んだと言うのに、困った状態である。




日中に長時間を費やして移動することは、かつては当たり前のことだった。
太古の昔から江戸時代まで、人々はお天道様が空に昇っている間だけ街道を歩き、夜は宿で身体を休めた。

鉄道をはじめとする様々な交通機関が登場した近代でも、それは変わらなかった。
日中に走る長距離列車は珍しくも何ともなく、その頃の国鉄は決して乗り心地がいいアコモデーションではなかったはずであるが、盛況だったのである。
東京からならば、北は東北本線の特急列車「はつかり」で7~8時間かけて青森へ、西は特急「つばめ」で10時間近くかかって広島まで、などという昼行列車が数多く走っていたのだ。

新幹線網が伸び、航空機が大衆化するにつれて、旅に対する人々の姿勢が変わり始めた。
移動時間を極力短くして、目的地に出来るだけ早く到着することが当たり前となり、誰もが、それを進歩と考えるようになった。
新幹線ですら、4時間以上かかる区間は嫌われる傾向にあり、航空機に利用者が流れてしまう。

僕らは、そんなに忙しいのであろうか。
僕らにとって、究極の移動手段とは、目的地にたどり着く過程が皆無の「どこでもドア」なのであろうか。

国際線旅客機に乗った時には、機内サービスが上質でも、高度1万メートル近い高空を飛ぶことへの不安感と相まって、一刻も早く降りたくなる気持ちになった。
新幹線が2時間弱で結んでいる東京と名古屋の間を、1時間以内に短縮すると言われるリニア新幹線は、全区間の8割以上がトンネルだという。
乗り物の魅力と速さは、どうも反比例しているように思えてならない。

「弥次喜多ライナー」の登場は、昔の日本人の誰もがそうであったように、あくせくした日常から離れて、のんびりと旅を楽しみませんか、という、現代社会へ向けての壮大なアンチテーゼだったと思う。
若者を中心とした客層をつかんだ「東海道昼特急」号の成功からの着想であろうか。



「東海道昼特急」号のデビューは、「弥次喜多ライナー」に先駆けること4年前の、平成13年12月だった。
新幹線が2時間半で結ぶ区間を8時間かけて走る昼行高速バスを、誰が利用するのかと思われたらしいが、格安の料金と相まって、大変な人気路線となった。
「日経優秀商品賞」にも選ばれて、「昼特急」の名を冠した昼行長距離バスが続々と登場することになったのである。

「東海道昼特急」は仮称だったが、「昼特急」というスピード感に溢れた響きと、「東海道」という江戸時代以前を連想させる響きが、なぜかマッチして好評だったとのことで、そのまま正式な愛称となったのだと聞く。
愛称については「弥次喜多ライナー」と共通の発想だったのだ。

だが、「弥次喜多ライナー」は、登場から僅か7ヶ月後の平成18年4月に廃止されてしまった。
中国バスの時代への挑戦は、残念ながら実らなかったのである。
これほど短命な高速バスも珍しく、原因は客が乗らなかったことに尽きるのであろうが、のんびりした旅は我が国に受け入れられないのだろうかと考え込んでしまったものである。



午後6時前に、「弥次喜多ライナー」は、煌々と照明がまばゆい福山東ICを出て、久しぶりに一般道を走り始めた。
福山駅前のバスターミナルは、賑わっているようでありながらも、灯りに乏しく、翳りを帯びた雰囲気だった。
乗り場に何枚も掲げられた広告に、時代を遡ったようなレトロさが感じられる。

営業所が福山にあるらしく、交替でハンドルを握って来た2人の運転手さんのうち、1人がここで降りてしまう。



福山西ICから再び山陽道に戻れば、時折、暗い路面を照らし出す灯りばかりが虚しく過ぎていく。
朦朧としていたのか、居眠りをしていたのか、この間の記憶は殆ど残っていない。

「東海道中膝栗毛」における弥次さん喜多さんの旅は、尾張から伊勢に抜けて、京に至る。
現在の「東海道昼特急」などが経由する、伊勢湾岸自動車道から東名阪自動車道、新名神高速に至る新しい短絡ルートに似ている。
「続膝栗毛」は未読なので、四国を経て安芸の宮島に至る旅の詳細を、僕は知らない。
ただし、十返舎一九が宮島を詠んだ句は聞いたことがある。

「夏の夜の 浪間に月を 宮嶋は あきのまなこと おもふすゝしさ」

広島市に入った「弥次喜多ライナー」が、平和記念公園に程近い紙屋町バスセンターに到着した時には、午後8時を過ぎていた。
数少ない乗客をあっという間に降ろしたバスは、瞬く間に目の前から姿を消した。
運転手さんにとっては、福山までの長い回送が残っているから、お疲れ様と思う。



バスセンターを出ると、僕は、宿に向けてぶらぶらと歩き出した。
硬い轟音を上げて宮島口行きの路面電車が通過していくと、太田川を渡る橋のたもとの草むらから湧き上がる虫の声が、深まりゆく秋の気配を感じさせた。

ふと浮かんだ腰折れで、13時間近くに及ぶ長旅を締めくくらせていただきたい。

飽きもせず バス栗毛の果て 着きたるは 鈴虫さざめく 安芸の夜の街


 

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