原発事故に揺れる街へ~帰還困難区域を走る竜田-原ノ町鉄道代行バスに乗って常磐線を行く~前編 | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

平成28年5月の日曜日、高曇りの上野駅を午前7時きっかりに発車した特急列車「ひたち」1号は、リズミカルな走行音を刻みながら常磐線を北上した。

停車駅は土浦、友部、水戸、勝田、日立、高萩、勿来、泉、湯本。
終着のいわきには9時18分着である。



「ひたち」に使われているE657系車両は、普通車でも、グリーン車のように深々とくつろげる座席である。
あまりに走りっぷりが軽快なので、11両編成の長大な列車が奏でるテンポのいいソナタを、コンサートホールで鑑賞しているかのような心地良い気分になる。

東北・上越新幹線が開業してからしばらく、信越本線方面への「あさま」と常磐線方面への「ひたち」が、上野を発着する昼行特急列車の二大看板だった時期がある。
故郷の長野へ「あさま」をちょくちょく利用していた僕は、「ひたち」が羨ましくてしょうがなかった。
上野と長野の間が217.2km、上野といわき(当時は平)の間が211.6kmと似たような距離でありながら、「あさま」は3時間もかかったのに対して、「ひたち」には流麗な外観の651系特急車両が投入され、所要は僅か2時間あまりと、その俊足ぶりがあまりに際立っていたからである。
それだけ常磐線の線形が良いことの証で、東北新幹線が出来る前は、青森方面の列車が経由することも少なくなかった。
 


 

しかし、誇り高き常磐線も、大きな悲劇に見舞われてしまう。

平成23年3月11日の午後2時46分、東日本大震災の発生である。

茨城県から福島県、宮城県にかけて線路の支障が多発し、沿岸部では津波に襲われて壊滅的な被害が発生した。
駅や線路が流失し、新地駅で普通列車が、浜吉田駅と山下駅の間では貨物列車が、津波の直撃によって脱線・大破した。

それでも、同年5月14日までに上野-久ノ浜間、亘理-仙台間で列車の運行が再開される。
同年10月10日には、久ノ浜-広野間も運行を再開。
原ノ町と相馬の間は、その前後が不通のままの孤立した区間でありながら、電車を陸送で搬入した上で、同年12月21日に運行を再開している。
平成25年3月16日には浜吉田-亘理間、平成26年6月1日には広野-竜田間、平成28年7月12日には小高-原ノ町間の運行が再開された。




僕は、震災発生から2年が経った平成25年の6月に、部分開通していた広野まで足を運んだことがある( 「原発事故に揺れる街へ~常磐線不通区間の南端・広野駅を訪ねて~」 )。
青く穏やかな海原を背景にした広大な田園地帯と、駅を囲む閑静な住宅地は、時が止まったかのような静けさが支配していた。
広野から先の線路が雑草に覆われて赤錆びている様には、胸が痛んだ。

今回の旅で僕が持っているのは、東京都区内から竜田駅までの乗車券である。

いわき駅で乗り換えたのは竜田行きの普通列車671Mで、水戸を7時18分に発ち、いわきを9時22分に発車する。
3年前に乗車した415系電車より新型のE531系電車で、ロングシートばかりだった前回とは異なり、ボックス席が設けられている。
乗客の姿が少ないことは前回と同様で、僕が乗車した車両は貸切状態であった。




少しでも線路が先へ伸びたことは目出度いが、いわき以南は特急列車が行き交い、震災前と変わらない運行状況に復しているのと対照的に、いわき以北に優等列車の設定はなく、普通列車が1~2時間に1本が行き交うだけで、幹線だった昔日の面影はない。
草野、四倉、久ノ浜、末続と停車していく途中駅の、ひっそりした佇まいも、3年前と変わりなかった。
これらの駅の1日あたりの乗降客数は、震災前の半分に減少していると聞く。

列車が停まって扉が開くと、漠とした静寂が車内に押し寄せてくる。
ホームに置かれた、綺麗に手入れされている花壇に咲く花の鮮やかさが目にしみる。

今は山なか
今は浜
今は鉄橋渡るぞと
思う間もなくトンネルの
闇を通って広野原

常磐線の久ノ浜と広野の間を歌ったという鉄道唱歌そのままの、変化に富んだ車窓が過ぎ去っていく。







9時44分に到着した広野の停車時間は僅かだったが、僕は席を立って扉から身を乗り出し、3年近く終着駅の重責を担った構内と、周囲の景色を改めて目に焼き付けた。
白い堤防で遮られて海が見えなくなっており、建物も増えたようである。
震災から5年、僕が訪れてから3年という時の流れを感じる。

あの時は乗ってきた電車で引き返さざるを得なかったが、この日は更に先へと進むことが出来るのだから、気持ちが高揚する。

新しく開通した区間は2駅、8.5kmである。
楢葉町に入ると、線路は木戸川が開いた平地に出て、海岸から離れて内陸部へ入り込んでいく。
無人駅の木戸駅を過ぎ、終点の竜田駅に到着したのは、9時54分であった。








震災前までは、通過する特急列車をやり過ごす普通列車の待避駅としても使われたという構内は余裕がある造りで、駅舎のある単式ホームの1番線と、2番線・3番線がある島式ホームが設けられている。
列車が着いたのは3番線で、跨線橋もあるが、1番線ホームと2・3番線ホームの間には仮設の足場が設置されているから、階段を昇り降りする必要はない。

どうして駅舎があるホームを使わないのか定かではないが、まるで、足場が赤錆びた線路を通せんぼうしているように見えてしまう。

電車を降りてホームに一歩を踏み出すと、ついに来たか、と思う。
上野から240km、今は、この駅が常磐線の終点である。
線路は先へ伸びているけれども、震災から5年が経った今でも、列車が進入することはできない。

常磐線の2つの不通区間には、代行バスが運行されている。

相馬と亘理の間には早くから代行バスが走り、仙台と相馬や南相馬を直通する高速バスも運行されている。
一方、竜田と原ノ町の間に代行バスが走り始めたのは、震災から4年近くが経過した平成27年1月31日のことだった。



このタイムラグの原因は、言うまでもなく、東京電力福島第一原子力発電所の事故である。

昨年1月に、次のような記事を見かけた。

『「JR東日本、常磐線竜田~原ノ町間で代行バス運行 上下各2便、途中停車なし」

東日本大震災、及び福島第一原子力発電所事故に伴い、運転見合わせとなっているJR常磐線竜田~原ノ町間にて、31日から代行バスの運行が開始される。
JR東日本水戸支社がこのほど発表した。
同区間は帰還困難地域も含まれることから、現在も列車での運転再開の目途は立っていない。
ただし、並行する国道6号線は昨年9月から自由通行が可能となっており、代行バスによる直通運行が実施されることとなった。
代行バスは上り・下り各2便運行される。
上りの運行時刻は原ノ町駅6時50分発・竜田駅8時15分着、原ノ町駅16時50分発・竜田駅18時15分着、下りの運行時刻は竜田駅9時35分発・原ノ町駅10時50分着、竜田駅20時10分発・原ノ町駅21時20分着。
道路混雑などで時間がかかることも予想されている。
代行バスは国道6号線を直通運行し、途中駅には停車しない。
竜田駅・原ノ町駅での列車への接続も行わない。
代行バス車内では乗務員が線量計を携帯し、1回の通行にあたっての被爆線量の測定を行う。
内閣府原子力被災者生活支援チームの昨年9月の発表によれば、国道6号線避難指示地域の南端(楢葉町)から北端(南相馬市)までの42.5kmを時速40kmで通行した場合、1回あたりの被爆線量は「1.2μSv」とのこと』

平成27年1月25日「マイナビニュース」


読み終わって、思わず深い溜め息が出た。
この区間にようやく代行バスが登場するのか、という感慨とともに、未だに苛烈な放射線災害に晒されている地域が厳然と存在するという現実を突きつけられて、胸が塞がる思いがしたからである。

それでも、この代行バスの登場により、常磐線は、実に3年10ヶ月ぶりに全線運転再開を果たすことになる。



運行開始当日には、次のような記事を目にした。

『「福島で不通のJR常磐線、代行バス運行 帰還困難区域を初走行」

東京電力福島第一原子力発電所事故の影響で不通が続くJR常磐線原ノ町(福島県南相馬市)-竜田(同県楢葉町)間の46キロで、JR東日本は31日、代行バスの運行を始めた。
原ノ町からの始発便は早朝ながら約30人が乗り、一定の需要を見せた。
バスは避難指示区域を南北に貫く国道6号を通り、公共交通機関として初めて、途中で放射線量の高い帰還困難区域を走った。
区間内の駅には停車せず、所要時間は1時間10~25分。
1日2往復だが、乗客数次第では増便も検討するという。
茨城県取手市に帰省するため始発便に乗った南相馬市の地方公務員、蛯原康友さん(39)は、これまで福島市経由の遠回りを強いられていたといい、
「時間が短縮されるのでうれしい。昼間に増便してもらえればさらに便利になる」
と話した。
政府の原子力災害対策本部が昨年実施した調査では、国道6号の避難指示区域(42.5キロ)を時速40キロで通過する際の推計被曝線量は約1.2μSvで、胸部X線撮影の被曝線量の50分の1程度という。
代行バスでは乗務員が線量計を携帯し、降車する際、希望者に実際の被曝線量を伝える』

 

(平成27年1月31日共同通信)


この時点での常磐線直通ダイヤは、

上野5:10→水戸6:58
水戸7:14→竜田9:24
竜田9:35→原ノ町10:50(代行バス)
原ノ町12:02→相馬12:19
相馬12:30→浜吉田13:17(代行バス)
浜吉田13:49→仙台14:28

という、普通列車とバスだけの所要9時間18分にも及ぶ行程だった。

朝1番の特急「ひたち」1号に乗っても竜田からの代行バスに間に合わず、早起きして普通列車に乗らなければならなかった。
東京から原ノ町へ直行する需要がそれほど多いわけではないだろうし、代行バスはあくまで地元の方々のために運行されるのだから、やむを得ないと思っていた。

ちなみに上りは、

仙台14:35→浜吉田15:11
浜吉田15:24→相馬16:16(代行バス)
相馬16:26→原ノ町16:44
原ノ町16:50→竜田18:15(代行バス)
竜田18:29→いわき19:03
いわき19:54→勝田21:27
勝田21:40→23:41上野

という接続で、所要9時間6分と下りより短く、いわきから先を19時18分発の特急「ひたち」28号にすれば、21時39分には上野に着く。

乗ってみたい、見てみたい、という強い思いが原動力となったのは確かだが、僕がこうして竜田駅に降り立つことが出来たのは、竜田-原ノ町間代行バスの時刻が繰り下げられて、「ひたち」1号からの乗り継ぎでも間に合うようになったからである。

現在の代行バスのダイヤは、下りが、

1便:竜田10:05→原ノ町11:20
3便:竜田20:10→原ノ町21:20

上りが、

2便:原ノ町6:55→竜田8:20
4便:原ノ町16:55→竜田18:20

となっている。




竜田駅のホームを歩いていると、こちらに尻を向けて停車しているバスの姿が、柵越しに目に入った。
改札口で駅員さんに竜田までの乗車券を渡し、駅舎を出ようとしてから、ふと思いついて歩を戻した。

「代行バスの切符はここで買えるのですか?」
「買えますよ。どちらまで」
「仙台です」

初老の駅員さんが、目を上げてまじまじと僕の顔を見つめたような気がした。
仙台まで乗り通す客は珍しいのだろうか。
だが、それも一瞬のことで、駅員さんは「ありがとうございます」と丁寧に一礼しながら、乗車券を発行した。

運賃はJRの通常運賃と同額である。
列車代行バスを運転する場合は、停留所の位置や運行本数などを鉄道会社が決めて、バス会社に発注する。
運行経費は鉄道会社が負担する。
列車の運転が再開したと見なされるから、鉄道と同じ乗車券が必要なのである。

「切符も通常通りJR各駅で購入できます。他区間からの通しのきっぷも購入できます」

とされているにもかかわらず、僕が前日に駅の自動券売機で「ひたち」の指定席特急券とともに乗車券を購入しようとした時には、降車駅の一覧に竜田駅は表示されたものの、その先の原ノ町や相馬、仙台の駅名は表示されなかった。
窓口ならば買えたのかもしれない。

それだけに、駅員さんから「竜田-仙台」と印字された乗車券を渡された時には、感無量になった。
曲がりなりにも常磐線が全通したのだ、という実感がこみ上げてくる。



平屋建ての駅舎の脇に停車しているバスは、白地に青いラインが入った浜通り交通の50人乗りハイデッカー車両だった。

「原ノ町行きです。乗車券はお持ちですか?」

と聞く女性添乗員さんに乗車券を提示しながら車内に入れば、多少年季が入っているものの、各座席には番号が振られて降車ボタンが取り付けられ、最後部にはトイレもある長距離バス仕様だった。
JRバス関東から車両を譲渡されたのだという。

浜通り交通は、楢葉町に本社がある貸切バス会社である。
本社は未だに閉鎖中で、いわき市内に事務所を設置していると聞く。
原発事故の影響を少なからず被っている事業者は、これから向かう地域に無数にあるのだろうと思う。
JRから委託を受けた鉄道代行の仕事は、浜通り交通にとって貴重な収入源であろう。




発車時刻になると、添乗員さんがステップに立って客席に向き直った。

「このバスは常磐線の代行バスで、原ノ町駅まで参ります。
途中駅には停車致しません。
原ノ町までの所要時間は1時間15分を予定しておりますが、道路事情により、遅れが出る場合がございます。
列車には接続しておりませんので、御了承下さい。
なお、これから先は帰宅困難地域を通っていくことになりますので、車内の空調を内気循環に致します。
窓を開けることは禁じられておりますので、よろしくお願い申し上げます。
途中でバスを降りることもできません。
御用の際は乗務員までお申し出下さい」

吶々とした抑揚のないアナウンスであるが、内容はずしりと重く、聞いているだけで気が引き締まる。
車内に散らばる乗客は、うつむいて押し黙ったままだった。

「よし、行こうか」

と運転席に乗り込んで来た運転手さんに、

「15人です」

と添乗員さんが乗客数を報告して最前列席に腰を下ろすと、エンジンがかかり、代行バスは定刻に竜田駅前を発車した。



周辺の集落は小さく、駅前の交差点に「入居者募集」の看板を掲げた民家がひっそりと建っている。
雑木林と田畑が入り混じる起伏の激しい丘を上り下りしながら狭い道路を西へ進み、代行バスは国道6号線・陸前浜街道に舵を切った。

しばらく平地を走ってから、国道6号線は山越えに差し掛かる。
このあたりは阿武隈山地が山裾を海ぎわまで延ばし、平行する常磐線では、同線で最長の金山トンネルを穿って越えていく区間である。
広々とした切り通しの道路を走っていれば、緩やかなカーブが連続して多少カーブがきつくなったかと感じるくらいで、それほど険しい地形には思えない。



この山地の沿岸部に、福島第二原子力発電所がある。

東日本大震災では、福島第二原発への3本の送電系統のうち2本を喪失、その後に襲った津波の高さは9mにも及び、原子炉冷却用海水ポンプ4基のうち3基と電源が水没して原子炉の冷却機能が失われ、危険な状態に陥ることになる。
午後6時33分に事故発生が政府や自治体に通報され、翌日の午前5時22分、S/C温度が100℃を超えたため、原子力災害対策特別措置法に基づく緊急通報が行なわれて、原子力緊急事態宣言が発令された。
幸いなことに、外部からの高圧電源が1回線だけ生きており、原子炉の温度や圧力、水位などの把握が可能で、当日は約2000人が所内で働いていたため、総延長9kmにも及ぶケーブルを人力でつなぎ合わせて仮設電源を確保、事故の4日後には冷温停止に持って行くことができたのである。

当時の所長は、

「福島第一原子力発電所事故の炉心溶融と同様の事態になるまでに紙一重のところだった」

と述懐したという。

僅か十数キロしか離れていない2つの原発が、共に重大事故を起こしていたとしたら、周辺地域は、いや、僕らの国はいったいどうなってしまったことだろうかと、背筋が寒くなる。

事故後4年が経過した平成27年3月には、福島第二原発の4つの原子炉内にあった燃料を使用済み燃料プールへ移送する作業が完了し、現在、全ての原子炉内燃料が空になっている。




ひと山抜ければ富岡町である。

富岡駅は竜田駅の北隣りに位置し、その周辺は福島第一原発事故に伴う避難指示解除準備区域となっている。
次の夜ノ森駅からは、帰還困難区域に指定されている。

平成26年6月に広野と竜田の間で電車の運行が再開された時点では、竜田駅を含む楢葉町全域が避難指示解除準備区域であった。
避難区域内の鉄道として、初めての運行だったのである。
楢葉町の避難指示が解除されたのは、平成27年9月5日のことであった。

福島第一原発から竜田駅までは直線距離にしておよそ15km、富岡駅まではおよそ10kmである。
緊張感が嫌でも増してくるが、国道6号線は、原発事故などとはまるで無関係であるかのように、平穏で鄙びた風景の中を坦々と伸びている。




田畑は色褪せた雑草に覆い尽くされている。
水が溜まっている田もあるが、何も植えられることなく、澱んだ水たまりと化している。
広野までに見かけた、水がいっぱいに張られて、植えられたばかりの苗が綺麗に生え揃っていた水田とは比ぶべくもない。

国道を行き交う車は少なくないが、乗用車はほとんど見かけず、ワゴン車やトラックなど事業用の車ばかりが目立つ。

平成23年4月から平成26年9月まで、福島県双葉郡富岡町本岡字新夜ノ森の富岡消防署北交差点と、浪江町高瀬字小高瀬の双葉町との町境付近の間、およそ30kmが通行止めとされていた。
この区間は全域が帰還困難区域であり、中に立ち入るだけで違法行為だったのである。

平成24年12月から、避難地域の市町村職員や復旧工事などに携わる業者などが事前に申請すれば、帰還困難区域を通り抜けできるようになった。
平成25年6月からは、避難区域の一般住民でも、通勤や通院などの目的に限って、市町村発行の通行証を持参することで、日中の午前9時から午後7時までの通行が許可された。
震災発生から3年半が経過した平成26年9月に、帰還困難区域内での除染や道路補修などが終了したとして一時帰宅が可能となり、自動車利用ならば自由通行が可能とされたのである。
ただし、歩行者・軽車両・原付・自動二輪は引き続き通行不可、自動車でも、帰還困難区域内での駐停車や、国道を外れた道路や施設への立ち入りは禁止されたままで、通行車両は窓を閉めてエアコンを内気循環にすることが推奨されている。

国道6号線避難指示区域における平均空間放射線量は3.8μSv/時、最大値は大熊町内の毎時17.3μSv/時と発表されている。
JR東日本の調査では、代替バスを1回運行することでの乗務員の被曝線量は、0.8~1.0μSv/時だという。

よく引き合いに出される例であるが、東京とニューヨークの間を航空機で往復すると、総計200μSvを被曝するという。
僕がニューヨークの往復で利用した時は往路が12時間、復路で14時間ほどの所要時間であったから、単純計算で7~8μSv/時ということになる。

旅行者が通過して一時的に被曝するだけならば大したことではないのかも知れないが、住むとなれば無視できない数字なのだろう。










富岡町に入ってから、沿道に、民家や商店が目立ち始めた。

どの家屋も外観は保たれているものの、目を凝らせば、雨戸や障子やカーテンを閉め切り、壁は汚れ、瓦が落ち、庭には不揃いの雑草が生えて、人の気配は皆無である。
駐車場に置かれた車は埃まみれで、ナンバープレートが外されている。
中には、無残に倒壊した家も見受けられた。

中古車販売店やガソリンスタンド、飲食店、パチンコ屋、スーパー、公民館なども固く扉を閉ざし、ガラスや壁が割れて板が打ちつけられていたり、軒が傾いたり、看板が外されていたり、荒れ果てたまま放置されている。
高く伸びた雑草に隠れてしまいそうな建物も少なくない。
見慣れた外観の全国チェーンの店も目立つから、尚更、身につまされる。

道路に面した建物の入口はもとより、集落に入って行く路地までが、鉄柵やガードレールで固く閉ざされているのを目の当たりにすると、国道を外れることが許されていない地域であることは承知していても、粛然とする。
この町は、人間が訪れることを拒み続けているのだ。

















人の手を離れた建築物とは、これほど不気味に変わり果ててしまうものなのかと思う。

数台の赤錆びた車が放置されている駐車場を備えた、コンビニエンスストアの廃墟を目にした時には、思わず身を乗り出した。
見覚えのあるその光景に、涙がこぼれそうになった。

震災の何年か前に、職場の仲間と誘い合って、陸前浜街道のバイク・ツーリングに出かけて来たことがあった。
不意の驟雨に降りこめられ、大慌てで避難したのが、このコンビニだった。
駐車場の片隅にバイクを止めて雨具を身につけたことや、朗らかに接してくれた若い店員のことが、鮮烈に脳裏に蘇る。

懐かしいあの人たちは、今頃どうしているのだろうか。

あの時のコンビニは、雨に濡れて鮮やかさを増した緑一色の田畑の中にあった。
24時間消えることのなかった明かりが消え、無人の暗い廃屋を、無造作に伸びた雑草だらけの田畑とひび割れた駐車場だけが取り囲んでいる今の有様は、無残としか言いようがない。

震災と原発事故から5年。

この地域の時間は止まったままである。
住み慣れた故郷を追われた人々は、今もなお、戻ることができない。

僕らの国は、見る影もなく荒廃した遺跡を、国土の真ん中に生み出してしまったのである。



「原発事故に揺れる街へ~帰還困難区域を走る竜田-原ノ町鉄道代行バスに乗って常磐線を行く~後編」に続きます)

 

 

 

 

 

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