【主な乗り物:東京-勝浦・御宿線、特急「わかしお」】
平成14年8月に開業した東京-勝浦・小湊・御宿間高速バスは、平成11年開業の東京-安房鴨川線「アクシー」号の好調な利用実績に触発された地元自治体が、バス事業者に開設を要望したと聞いた。
「アクシー」号には乗車体験がある。
海が主体の土地と思い込んでいた房総半島を内房から外房へ横断しながら、この半島はこれほど山深かったのか、と蒙を啓かれた記憶が、今でも鮮明である。
その後は内房を起終点とする高速バスばかりに乗っていたので、久々の外房に向けての高速路線の登場に心が逸った。
それでも、実際に乗る機会を得たのは平成16年の8月で、開業から2年が経由していた。
どうしてそれほど遅くなったのかは覚えていないけれども、もちろん小湊にも御宿にも用事がある訳がないから、他の高速バスを優先してしまったのか、それとも暇が作れなかった、といったところであろう。
この路線は、浜松町バスターミナルを始発として、東京駅八重洲口前を経由して勝浦に向かうのだが、その先で二股に分かれ、終点が勝浦の北に位置する御宿と南の小湊という、2つの系統が設けられている。
せっかく外房に行くのであれば、東京から小湊行きに乗り、JR外房線で5駅・18.9km離れた御宿発の便で戻るか、もしくは逆のコースで、2系統とも乗り潰してしまおうと考えた。
開業当初の小湊系統の下り便は、浜松町を7時25分、10時55分、17時00分、20時25分に発車し、上り便は安房小湊駅を5時10分、7時30分、12時30分、16時00分に発つ4往復で、所要は3時間あまりである。
御宿系統は、浜松町を6時25分、9時40分、15時10分、18時05分に発車し、下り便は御宿駅を6時15分、10時45分、13時45分、19時45分に発つ4往復、所要2時間50分~3時間と小湊系統よりやや短い。
往路で小湊系統を選択し、帰路を御宿系統とするならば、後者の上り便が運行されている時間に間に合う前者の下り便は朝の2本だけ、しかも御宿発の便が発車する10~20分前に小湊に着くので、小湊から御宿への移動時間を考慮すればとても間に合わず、次の御宿発の便まで2時間から3時間以上は待たねばならない。
御宿系統の朝の2本の下り便で東京を発っても似たような結果で、同じく長い待ち時間が生じる。
この路線を運行する京成バスも小湊鉄道も日東交通も、小湊もしくは御宿に出掛けて、もう一方の系統でとんぼ返りを企てる客など想定していないだろうから、この運行ダイヤで何の支障もないのだろう。
山国育ちの僕は海を眺めるのが好きなので、砂浜で時間を潰せるかも知れないけれど、1人で真夏の海水浴場に足を踏み入れるのは、さすがに躊躇われる。
僕は、小湊も御宿も訪れたことがなく、暇潰しと言えば喫茶店か書店の立ち読み程度しか思い浮かばない体たらくで、そのような店があるのかどうかも定かではない町で、時間を持て余すのは目に見えていた。
ああでもない、こうでもない、と時刻表を引っ繰り返していた僕は、遂に諦めて、片方の系統だけで旅を済ませ、帰路は外房線の東京行き特急列車「わかしお」で戻って来ることに決めてしまった。
もう片方の系統は、別の機会に回せば良い。
小湊町は、昭和30年に隣接する天津町と合併して天津小湊町になり、更に平成17年に鴨川市に含まれることになったが、字として小湊の名も残っている。
日蓮の生誕地として知られ、その生家を寺とした誕生寺の門前町として、また内浦湾に寄港する廻船の港町としても栄え、別名鯛の浦と呼ばれる同湾に生息する鯛の水揚げで有名な漁港がある。
小湊、と言えば、鉄道ファンの僕は小湊鉄道を思い出すが、同社は小湊に鉄道路線を持っていない。
房総半島を横断する五井-小湊間の鉄道建設を目的として、小湊鉄道を名乗った同社が、最初に五井-里見間を部分的に開通させたのは大正14年のことで、少しずつ延伸し、現行の五井-上総中野間を全通させたのは昭和3年である。
ところが、上総中野-小湊間は地形が峻険で技術的に建設が難しく、資金が尽きてしまったことと、昭和9年に大原-上総中野間に開通した国鉄木原線に乗り換えれば房総半島横断が可能になったことから、延伸を断念して、昭和11年に上総中野-安房小湊間の鉄道敷設免許を取り下げている。
木原線も、木更津と大原を結ぶ計画から命名されたのだが、奇しくも上総中野で接続した2つの線名が、未成の計画を反映した形になっている。
紀行作家宮脇俊三氏は、「時刻表おくの細道」の小湊鉄道の章で、以下のように著した。
『いわば、五井から小湊へ嫁を迎えに行く途中、上総中野で旅費を使い果たした旅人と、大原から木更津へ嫁入りしようとして、これまた上総中野から先へ進めなくなった娘とが一緒になってしまった、というような関係なのである』
このような逸話を耳にすると、房総半島の懐は深いのだ、と思う。
もし小湊鉄道が社名の通りに外房線の安房小湊駅まで乗り入れていれば、僕は迷わず小湊系統の高速バスを選び、帰路に小湊鉄道を乗り通したことであろう。
一方の御宿町は、美しいリアス式海岸に面し、童謡「月の沙漠」と縁が深いことで知られている。
三重県の志摩と石川県の舳倉島と並ぶ日本の三大海女地帯の1つであると聞いたことがあり、そのような三大地帯があるのかと顔がほころんでしまうけれども、ある文献には、
『日に焼けた顔、逞しく健康美にあふれた体に、紺がすり、磯パンツ、ウケ樽など七つ道具を身につけた海女たちは、5月中旬から9月中旬までの4か月間黒潮に潜り、アワビ、サザエ、ワカメなどを採る。
1回の作業(2時間)は“いっぽん”といわれ、このいっぽんを繰り返すのが“ひとっぺり”で、平均で一日にみっぺり(約6時間)ほど働いている』
と、なかなか艶やかな表現で説明している。
関ヶ原の合戦から6年後の慶長14年9月3日、フィリピン総督ロドリゴ・デ・ビベロがメキシコのヌエバ・エスパーニャへ帰還する途中、乗船の「サン・フランシスコ」号が御宿の沖で沈没、死者・行方不明者56人を出したものの、海女をはじめとする地元住民が317人を救助、総督と船員は江戸幕府が造らせた船で無事に帰国したという。
その御礼として昭和53年に時のメキシコ大統領ホセ・ロペス・ポルティーヨ氏が御宿町を訪問し、町内にはそれを記念する「ロペス通り」が存在する。
前掲の文献は、
『御宿の海女たちは、遭難したスペイン人たちを助けた人情味溢れる心意気を忘れず今に伝えている』
と結んでいる。
御宿の土地の名は、鎌倉時代に北条時頼が諸国行脚で当地を訪れた折りに、風光明媚な景色を目にして、
御宿せし そのときよりと人とはゞ 網代の海に夕影の松
と詠んだ歌が由来であるという。
この和歌での読みは「みやど」であるが、現在の町名は「おんじゅく」であり、知っていなければ読めない難読地名の部類である。
僕は、御宿の名に聞き覚えがあった。
大学生時代のアルバイト先の同僚が、毎年夏になると御宿へ海水浴に出掛け、その都度「おんじゅく」を連発する土産話を聞かされたものだった。
その印象が強く心に刻まれていたためなのか、僕は、今回の旅で御宿系統に乗ることに決めた。
浜松町バスターミナルを9時40分に発車する下り便に乗るべく、僕は真夏の日曜日の朝に自宅を出た。
京浜東北線を浜松町駅で下車し、行き交う人々でごった返すホームや改札口から、歩を進める程に人影が少なくなるバスターミナルへの連絡通路に向かう。
高速バスに乗るために、ここを何度歩いたことだろう、と思う。
初めて浜松町バスターミナルを利用したのは、昭和60年の冬に乗車した東北急行バス山形系統の夜行便だった。
その時から20年近くが経っているのか、と驚いてしまうけれども、僕にとっては東京と京都を結ぶ「ドリーム」号に次ぐ2度目の夜行高速バス体験であったから、期待半分、不安半分といった心持ちでバスターミナルに向かったのだろう。
連絡通路もバスターミナルも、その頃と雰囲気は全く変わっておらず、若かりし頃にタイムスリップしたような感覚が込み上げてくる。
東北急行バスが運行する仙台、新庄線のみならず、京浜急行バスの弘前、宮古、伊賀上野・名張、大津、京都・大阪、岡山・倉敷、鳥取、米子、山口・萩、徳島、今治線、そして相模鉄道の横手・田沢湖線といった夜行高速バスが立ち寄り、京成バスの銚子、木更津、君津、安房鴨川への昼行高速バスの起終点となった浜松町バスターミナルには、それこそ数え切れないほどの思い出が詰まっている。
特に、東京湾アクアラインを使う高速バスと浜松町バスターミナルは、切っても切れない縁があるように感じている。
昭和45年3月の浜松町バスターミナルの開設と同時に、今では新宿発着だけになってしまった「中央高速バス」富士五湖線が、一部の便を延伸して、平成8年10月まで乗り入れていたことも忘れてはなるまい。
時は移ろいゆき、世界貿易センタービルの建て替えを目玉とする浜松町の再開発計画が持ち上がって、浜松町バスターミナルは令和2年9月30日をもって営業を終了した。
霞ヶ関ビルに次いで、昭和45年に我が国で2番目に建設された地上152m・40階建ての超高層ビルをどのように取り壊すのか、興味津々であるけれども、高層ビルの建て替えが必要になるような歳月が流れたのだな、と思う。
それに伴い、東北急行バスの仙台、山形、新庄線や、相鉄バスの横手・田沢湖線、京急バスの仙台、岡山・倉敷、山口・萩線、そして京成バスの銚子、木更津、君津、安房鴨川線は東京駅だけの発着になり、京急バスの弘前線はバスタ新宿、宮古線と徳島線は品川バスターミナル、伊賀上野・名張線は池袋駅、今治線は渋谷駅に都内の乗降場所を変更し、大津、京都・大阪、舞鶴、鳥取、米子線は廃止された。
僕が、浜松町バスターミナルを最後に利用したのは、御宿への旅の1年後、平成17年8月に今治行き夜行高速バス「パイレーツ」号に乗車した時だった。
世の中の趨勢は如何ともし難いけれど、思い出の地が消えるのは、心にぽっかり穴が開いたような気分にさせられる。
浜松町の開発はA~C街区に分けられ、A街区に地上39階の世界貿易センタービルとバスターミナル、東京モノレール浜松町駅、B街区に地上46階の日本生命浜松町クレアタワー、C地区に地上46階の複合施設が整備される予定である。
クレアタワーは平成18年に完成済みで、令和9年に予定されているA街区と、その前年のC街区の落成も楽しみであるけれど、僕の最大の関心事は、A街区に再建されるバスターミナルである。
元来、どの路線も浜松町での乗降は決して多いとは言えず、東北急行バスと京成バスは東京駅、京急バスは品川バスターミナル、相鉄バスは横浜駅など、他のターミナルを併せて経由する路線ばかりだった。
京急バスの夜行高速路線だけが、起終点の品川バスターミナルより乗り換えが便利という理由で、浜松町の利用が多い傾向が見られたものの、同社は、令和3年に全ての夜行高速路線から撤退している。
代替になったターミナルの立地条件が良く、浜松町にバスターミナルが再建されても、果たして寄港する高速バス路線が戻って来るのか、僕は密かに危ぶんでいる。
浜松町バスターミナルがなくなる、という未来のことなど知る由もなく、僕は、僅かな乗客とともに「御宿」と行先表示を掲げたハイデッカーに乗り込んだ。
定刻に発車してバスターミナルの暗がりから抜け出すと、強烈な夏の陽射しが車内に射し込み、何人かの乗客が窓のカーテンを閉めた。
今日も暑くなりそうだな、と思う。
バスは、首都高速1号羽田線の高架が重なっている海岸通りに潜り込み、そのまま内堀通りに入って東京駅八重洲口を左手に眺めながら八重洲通りに右折する。
京成バスが設置した東京駅八重洲口前停留所を初めて使用した高速バスは、平成3年に開業した東京-銚子線「犬吠」号である。
当時はポールが1本立っているだけという質素な乗り場であったが、今では、東関東自動車道や東京湾アクアライン方面への高速バスが引っ切りなしに出入りして、雨除けの屋根が設けられている。
東京駅からの乗車は多く、車内では20人ほどの乗客が思い思いに席を占めた。
京成バスの乗り場から100mほど東に進むと、東北急行バスの東京駅八重洲通り停留所があり、こちらも同社の高速バスで幾度か通ったことがある。
東京駅のホームから地下街を延々と歩かねばならない停留所よりも、浜松町バスターミナルの方が便利なように思えるし、また浜松町から東京駅への行程は、高速バス旅の序曲として欠かせない、という拘りもある。
ところが、浜松町よりも東京駅の方が乗降客が多いのは、どの路線にも共通の傾向で、停留所の立地は重要なのだな、と改めて思う。
東京駅を背にした御宿行き高速バスは、昭和通りに右折し、続け様に銀座桜通りへと右折する。
高速バスが乗り入れるにはそぐわない狭隘な道路であるけれど、首都高速都心環状線の京橋ランプがこの通りに設けられているので、通らない訳にはいかない。
初めてここを通ったのは、東京-館山・安房白浜線「房総なのはな」号に乗車した時だったが、このような裏通りに高速道路の出入口を作ったのか、と驚愕したものだった。
料金所をくぐって本線への流入路を下り、追い越し車線へ合流する際には、後方から猛スピードで突っ込んで来る車がいないか、手に汗を握る。
運転手の巧みなハンドルさばきにより、無事に合流を果たしたバスは、林立する橋脚の合間を障害物競走のように縫いながら南へ進む。
汐留トンネルの上り坂を駆け登り、浜離宮公園の手前で高架に飛び出せば、視界が一気に開け、きついカーブを左へぐいぐい曲がると、レインボーブリッジの全貌が姿を現す。
月島や台場の高層マンションや商業施設群を見下ろしたのも束の間、バスは有明JCTで首都高速湾岸線に合流し、東京港トンネルで海底をくぐり抜けて城南島と京浜島を渡っていく。
空港北トンネルの先で羽田空港をかすめ、浮島に渡る多摩川トンネルの中で速度を緩めたバスは、東京湾アクアラインへの分岐路に舵を切った。
がたがたと車体が揺さぶられるカーブと上り勾配を走りながら、開通から7年たらずにしては、えらく舗装が荒れたものだな、と思う。
東京駅から東京湾アクアラインまで、江戸時代に掘られた運河を走り、高架から街並みを見下ろし、巨大な吊り橋で東京湾を飛び越え、更に海底トンネルに潜り込んでいく車窓の、何と目まぐるしいことか。
音楽に例えるならば、ヨハーネス・ブラームス作曲の「ハンガリー舞曲」冒頭のアレグロ・モルト、といったところであろうか。
僕は、あの激しい曲調を聴くと、衣の裾を振り乱してくるくると踊り続ける女性の姿を思い浮かべるのだが、御宿行き高速バスの出だしの走りっぷりは、まさに都市の中を乱舞しているように感じられる。
東京から四方に出て行く高速バス路線は多々あれども、その成り立ちを端的に知るには、房総へ行く高速バスに乗り、導入部で眼を凝らしてみればいいと思う。
この乱雑とも無秩序とも感じられる東京の佇まいは、その急激な成長と拡大の歴史と、現在も衰えを知らない活力を如実に現している。
東京について記した一文として、僕は、SF作家小松左京の代表作「日本沈没」に描かれた次の一節をいつも思い浮かべる。
『この街は、上へ上へとのびている。
地上を行く人々は、次第に日もささない谷底や地下に取り残され、じめじめした物かげで、何かがくさってゆく。
古いもの、取り残されたもの、押し流されてたまってゆくもの、捨てられたもの、落ち込んで二度と這い上がれないもの……なま暖かい腐敗熱と、悪臭のガスを発散しながら、静かに無機質への崩壊過程をたどりつつあるものの上にはえる、青白い、奇形のいのち……。
(この街は、いつまで変わり続けるのだろう?)
小野寺はふと思った。
ずっと昔、まだ彼が子供の頃から、東京は変わり続けていた。
古いものを壊し、道をつくり、丘や森を切り開いてビルを建て──十代の時オリンピックがあり、街は、ほとんど一変したと言っていいくらい変わった。
しかし、その後もさらに工事は続けられ、道路は掘り返され、ダンプが走りまわり、赤錆の鉄骨や、巨大なクレーンがこの街の上に舞い続けた。
この街が──いつか、1つの美しい安定に到達することがあるのだろうか?』
昭和48年に出版され、大きな話題を呼んだこの小説は、昭和60年前後の近未来を想定しているらしい。
平成を迎えて10年以上が過ぎた今でも、この描写が古びることはない。
それどころか、東京は、今や上ばかりでなく横や地下にも拡大を続けている。
アクアトンネルに入ってしまえば、真っ暗な壁面を流れ去る照明以外に何も見えなくなるので、車窓が少しばかり落ち着きを取り戻す。
行けども行けども暗闇が続く10km近い海底トンネルをひたすら走り続けると、やがて前方に一点の光明が現れて、みるみる大きさを増していく。
海ほたるの下を抜けてアクアブリッジに飛び出していく瞬間の解放感は、格別である。
ジャン・シベリウスが故国フィンランドの独立を謳い上げた交響曲「フィンランディア」のメロディーが思い浮かぶ。
序奏における重苦しいアンダンテ・ソステヌートから、アレグロ・モデラートを経て、一気に快活なアレグロへと盛り上がっていく曲調は、東京湾アクアラインによく当てはまるのではないだろうか。
猛烈な勢いを保ったままアクア連絡自動車道を一気呵成に走り抜けたバスは、木更津JCTから館山自動車道に入り、いったん針路を北に向けた後に、木更津北ICで1時間たらずの高速走行を終えた。
この高速バス路線が開業するきっかけとなった東京-安房鴨川線「アクシー」号は、外房に向かう路線でありながら、内房の木更津・君津市内でも降車停留所を設けている。
東京-勝浦・小湊・御宿線も、国道409号線・房総横断道路を東へ進みながら、袖ケ浦市内の横田、東横田、高谷に停車する。
道路の両側をぎっしりと民家や商店が埋め、片側1車線はきちんと確保されているものの、バスで通れば、軒先をかすめたり、対向車との離合に肝を冷やすような狭さに感じられる。
家々が建て込んでいるのは、JR内房線の木更津駅を起点とする通勤路線であるJR久留里線に沿っているからであろうか。
横田と東横田は、久留里線の駅も置かれている集落である。
東横田駅の脇にある踏切で、久留里線が車窓の左手から右手に移ると、馬来田、久留里方面へ南進する線路と袂を分かち、国道409号線は、まっすぐに東の房総丘陵に足を踏み入れていく。
以前に房総半島を横断する「アクシー」号に乗車したのは冬のことで、草木は色褪せ、田圃も土が剥き出しで、寒々とした車窓だったが、今回は、山々を覆う木々も、野原の草も、田畑の作物も、ぎらぎらした陽光を照り返しながら、競うように生い繁っている。
日本の夏だな、と思う。
丘陵を越えれば、今度は五井から伸びてきた小湊鉄道の沿線に出る。
上総牛久駅に近い路上の停留所で幾許かの客を降ろしたバスは、国道297号線・大多喜街道に右折した。
右側を単線の線路が寄り添い、長閑な田園の中を貫く1本道だった。
前方にこんもりと木々が繁る小高い丘が現れると、国道は切り通しで真っ直ぐ進むけれども、線路はそっと道路から離れて迂回する。
地図を見ると、小湊鉄道は、国道297号線に比べてどうしてこれほど曲がりくねって敷かれているのか、と首を傾げたくなるけれども、現地に来てみれば、その理由が判然とする。
つまるところ、大正から昭和初期にかけての鉄道建設技術や列車の走行性能とは、僅かな起伏でも避けなければならない程度であったのだろう。
上総牛久駅から2駅離れた上総鶴舞駅から先の小湊鉄道線は、大多喜方面へまっすぐ伸びている国道297号線と離れて、大きく西から南へ膨らみながら、養老渓谷に向かう。
養老渓谷の先が終点の上総中野駅なのだが、このような南への迂回は、同線が計画段階で小湊を目指していた名残りであろうか。
昭和63年に第3セクターいすみ鉄道となった国鉄木原線は、小湊鉄道と接する上総中野駅から、大多喜駅までいったん北上した上で、東の大原方面に向きを変えている。
久留里線の終点である上総亀山駅と繋がる構想を反映し、南へ膨らんだ線形なのである。
一方、脇目も振らずに山の中を突っ切って、大多喜町まで真っ直ぐ進んできた国道297号線は、大多喜駅の隣りの城見ヶ丘駅の近くでいすみ鉄道と交差する。
大多喜町の手前で、急斜面を巻いて下りていくヘアピンカーブがあり、高低差が激しい。
上総鶴舞駅から城見ヶ丘駅まで、国道ならば14kmに過ぎない区間を、鉄道は31.2kmもの大回りをしている。
地図を見れば、大多喜から久留里まで、東西に直線的に短絡すれば良いではないか、と、どうしても思ってしまう。
国道297号線と比較するから鉄道の敷き方が奇妙に見えてしまうのだが、前述した歴史的な背景ばかりでなく、小湊鉄道は養老川、国鉄木原線は夷隅川に沿って敷かれていることに気づけば、なるほど、と納得させられる。
川は鉄道や道路の母、と喝破したのは宮脇俊三氏であるが、小さな丘1つすら避けなければならない技術しか持ち得なかった時代に、峻険な房総の山奥に鉄道を敷設するには、地形をならす河川を利用せざるを得なかったのだろう。
養老川は、清澄山系北麓にあたる大多喜町の麻綿原高原に源を発し、養老渓谷を刻んでから市原市の高滝湖に注ぎ、五井の海岸で東京湾に注ぐ。
夷隅川は千葉県で最大の流域面積を持ち、勝浦市の背後に聳える清澄山系の南麓を水源として、房総丘陵の内部を北へ流れた後に、大多喜町で東に折れ、九十九里浜の南端であるいすみ市岬町で太平洋に注ぐという、複雑な蛇行を繰り返している。
上総中野駅から、国鉄木原線が目指した久留里線上総亀山駅までの間にめぼしい河川は存在せず、また、小湊鉄道が目指した小湊方向も、養老川が遥か手前で尽きてしまうので、それぞれが未成線で終わったのもむべなるかな、と言ったところであろう。
上総中野駅は、夷隅川の支流である平沢川のほとりにある。
小湊鉄道は、養老渓谷駅から養老川から離れ、上総中野駅まで別の川の流域に線路を伸ばした訳である。
小さな丘すら越えられなかった鉄道が、よくぞ頑張って2つの川を隔てる山嶺を越えたものだ、と褒め称えたくなる。
僕は、小湊鉄道も久留里線も乗ったことがないけれど、いつか乗りに来たいと思う。
小湊鉄道の意思を継ぐかのように、養老渓谷から小湊まで、県道178号線と県道275号線が通じている。
僕は、職場旅行で養老渓谷に宿泊してから、鴨川シーワールドに向けて、この県道に車を走らせたことがある。
九十九折りの狭隘な道路に鬱蒼と木々が覆い被さり、カーブの先から対向車が現れたらどうしよう、と不安になるような道行きで、同乗者を車酔いさせてしまった。
このような土地に鉄道を建設するのは、確かに至難の技だろう、と思う。
もちろん、高速バスもそのような道路を選ぶはずがなく、大多喜の集落を通り抜けてから尚も国道297号線を走り続ける。
決して平地は多くないけれども、夷隅川の上流に沿っているためなのか、「アクシー」号が利用する県道24号線・房総スカイラインに比べると、カーブやアップダウンが少ないように見受けられた。
幾重にも折り重なった山裾の合間に、緑濃い杉林や竹藪が代わる代わる現れ、点在する家々が尽きることもない。
職場旅行でこちらを通れば良かったな、と、車酔いした同僚に申し訳ない気持ちになる。
夷隅川流域の大半は山地であるけれど、古くから夷隅川の水を利用した水田をはじめとする農耕が盛んで、東京-勝浦・小湊・御宿間高速バスは房総半島でも有数の実り豊かな土地を結んでいる。
総野の集落で夷隅川が尽きても、穏やかな地形が大きく変わることはなく、バスは勝浦の町に下りていく。
海岸に向けて山々が少しずつ開けていく様は、ファーディ・グローフェが作曲した組曲「大峡谷」の、アンダンティーノ・モデラートからアレグレット・ポコ・モッソでゆったりと演奏される第3曲を思わせる。
冒頭のソロ・バイオリンによるカデンツァに続いて、ロバの背中に揺られて進む山道を表現する曲調の中でも、ロバの足音の描写が巧みであった。
勝浦の市街地の背後には、間際まで山裾が押し寄せている。
右に左に小刻みなカーブを繰り返しながら坂道を駆け下って行くバスの行く手に、密集した市街地と、その向こうに煌めく太平洋が、山裾の切れ目にいきなり姿を現す展開は、なかなか劇的だった。
はるばる外房まで来たのだな、と思う。
勝浦市は、日本一にもなったことがある鰹の水揚げで有名な漁港を抱える古くからの漁師町であり、我が国でも有数の透明度を誇る守谷海水浴場を持つ観光都市でもある。
市街地に入ると、のんびりしたそれまでの道行きと異なり、狭隘な街路にリゾートマンションや商店がぎっしりと居並び、房総半島の奥にこのように殷賑な桃源郷が突如出現したことに、眼がぱちぱちする。
勝浦駅から少し離れた路上の停留所で殆どの乗客を降ろし、閑散としたバスは、入り組んだリアス式の外房海岸に沿う国道128号線で北に向かう。
勝浦から御宿までは15分ほどであるが、砂浜と海を見渡す波打ち際の区間と、山裾が海岸まで押し寄せるトンネル部分が交互に現れる。
御宿行きの高速バスに乗車して良かった、と嬉しくなるけれども、勝浦から南の小湊へ向かえば、もう少し距離が長く、所要時間も20分に増えるので、小湊系統を選べば良かったかな、と少しばかり後悔する。
御宿町の中心部に入ると、勝浦と同じくリゾートホテルやマンションなどが建ち並ぶ雑然とした佇まいだった。
バイト先の同僚の話からは、もう少し閑静な漁村を思い描いていたので、呆気にとられた。
道路が狭いので、町並みの建て込み具合が一層引き立っている。
対向車線に大型車が現れれば、速度を落とし、対向車と軒先のどちらにも気を配りながら慎重にすれ違わざるを得ないから、多少もどかしく感じる。
しかも、いつの間にか国道128号線は海から離れてしまい、童謡「月の沙漠」の記念像があるという砂浜すら見ることが出来ない。
「月の沙漠」を作詞した加藤まさを氏は、大正年間に、結核の療養のために毎年御宿海岸を訪れたことがあったという。
昭和40年に御宿町の商工会長が、子供の頃に加藤氏に撮って貰った写真をきっかけに文通が始まり、加藤氏は、
『幾夏も、あの砂丘をながめて暮らしたことを想い出します。したがって「月の沙漠」の幻想の中には、御宿の砂丘が潜在していたものに違いないものと思います』
と、書き記している。
「月の沙漠」記念像を建てる計画が持ち上がった時に、観光宣伝なら真っ平だと加藤氏は躊躇したらしいが、御宿町は青少年の情操教育が目的と説得し、昭和44年に王子と王女が2頭のラクダで沙漠を旅している銅像が建立されたのである。
一方、加藤氏の出生地に近い静岡県焼津市の吉永海岸についても、同氏の長男が、
「生まれ故郷は静岡県の藤枝市。海にも近く、よく浜辺に行って泳いだそうです。その記憶がヒントになったと親類に話しており、私もそう信じているんです」
と証言している。
御宿町が「月の沙漠」発祥の地と主張したことに対して、藤枝市が反発したものの、加藤氏は、
「せっかく観光の目玉にしてくれているのに反対するほどのこともないでしょ」
と、笑っていたという。
月の沙漠を はるばると
旅の駱駝が行きました
金と銀との鞍置いて
2つ並んで行きました
金の鞍には銀の甕
銀の鞍には金の甕
2つの甕は それぞれに
紐で結んでありました
先の鞍には王子様
後の鞍にはお姫様
乗った2人は おそろいの
白い上着を着てました
曠い沙漠をひとすじに
2人はどこへ行くのでしょう
朧にけぶる月の夜を
対の駱駝はとぼとぼと
砂丘を越えて行きました
黙って越えて行きました
昭和52年に公開された映画「八甲田山」は、小学校6年生の時に授業の一環としてクラス全員で観賞し、僕が虜になってしまった映画である。
テーマ音楽を作曲した芥川也寸志氏は、「月の沙漠」からモチーフを得た、と語っていたらしい。
同級生同士で口ずさんでいたテーマ曲を、何処かで聞いたことがある旋律だと時々首を傾げていたのだが、この逸話を耳にして、そうか「月の沙漠」だったのか、と膝を叩いたものだった。
ある評論家は、
『「月の沙漠」の歌は、当時の日本人の心の奥底にあった夢を、美しく、具象的に表現したのである。だからこそ、この歌はいつまでも人気があるのだ。私たちは、現実の沙漠を知ったあとでも、やはり「月の沙漠」の歌に心がひかれるだろう』
と記しているが、歌詞もメロディも、僕らの心に滲み込んでくるような不思議な魅力がある。
僕は、この旅の十数年後に、縁があって何度か御宿の海水浴場を訪ねることになるのだが、そこで初めて「月の沙漠」記念像を眼にすることになる。
東京から御宿へのバス旅を懐かしく思い出しながら、海沿いの道を行く走りっぷりが、「月の沙漠」の旋律そのままではなかったか、と思ったものだった。
御宿駅前に到着したのは、定刻12時30分である。
バスのステップを降りると、潮気と湿気をたっぷりと含んだ熱気が身体にべったりとまとわりつき、僕は思わず溜息をついた。
Tシャツに短パン姿の真っ黒に日焼けした女性が、バスを眩しそうに見上げながら歩いて行く。
東京行き特急列車「わかしお」16号の御宿発は14時14分、忙しくもなく、暇潰しにもそれほど困らない程よい接続と言えるだろう。
バスの窓から太平洋を眺めているうちに、帰路を16時ちょうどに出発する小湊系統に変更して、海で泳ぎたくなったけれども、水着もタオルも用意していないので、後の祭りだった。
この旅から20年が経過し、今でも東京と勝浦・小湊・御宿を結ぶ高速バスは健在である。
ただし、現在に至るまで、小湊系統への乗車は実現していない。
↑よろしければclickをお願いします<(_ _)>