第32章 平成12年 リムジンバス羽田空港-大宮線とコンビニバイトの思い出 | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:リムジンバス羽田空港-大宮線】
 

 

比較的短距離かつ東京指向であった羽田空港や成田空港のリムジンバスにおいて、新境地を開いたのは、平成元年4月に開業した、成田空港と大宮駅を結ぶ「ONライナー」であったと言われている。

 

昭和53年の開港当初は東京都内を結ぶリムジンバスばかりだった成田空港に、平成元年に登場した大宮発着の「ONライナー」は好評を博し、関東各地へのリムジンバスが次々と開業するきっかけを作ったパイオニアである。

当時の成田空港は、敷地内への立ち入りは反対派の過激行為に備えた検問を要し、乗り入れる路線バスの車内にも警備員が乗り込んで来るような厳戒態勢を敷いていた。

航空機を利用せずバスだけに乗りたい、という、空港にしてみれば想定外の人間にとって、成田空港は大変に敷居が高く、「ONライナー」は現在に到るまで利用したことがない。

 

 

同じ年に登場した成田空港発宇都宮行き「エアポートライナーマロニエ」号に試乗した時は、成田空港に害を及ぼす意図もないし、法律違反を犯している訳でもないにも関わらず、検問の通過に冷や汗をかいたものだった。

飛行機に乗らない人間が空港に足を踏み入れる行為を、どのように説明すれば理解して貰えるのか、我ながら難題である。

海外旅行の際には是非とも利用してみたい、と思っても、その頃、僕が海外に出掛ける計画は全く立てていなかった。

 

 

大宮から羽田空港へのリムジンバスが開業したのは、「ONライナー」より12年も遅い平成12年7月である。

成田空港と違って、羽田空港の敷居は低い。

羽田からならば、面倒な検問がなく大宮に行ける、行ってみたい、と思った。

 

長距離高速バスで大宮を発着する路線は少なくない。

その嚆矢は、平成元年に開業した夜行高速バス大宮・浦和-大阪線「サテライト」号と、大宮・浦和-奈良線「やまと」号であった。

この2路線は後に統合されることになるのだが、その後の大宮発着路線の拡充ぶりは以下の通りである。

 

 

平成2年:池袋・大宮-水沢・花巻「イーハトーブ」

平成4年:赤羽・大宮-鶴岡・酒田線「庄内・日本海ハイウェイ夕陽」

同年:大宮・池袋-大津線「マリーン」

平成14年:池袋・大宮-青森・野辺地・六ケ所線「ブルースター」

同年:大宮・池袋-伊勢・鳥羽・志摩線(池袋発着路線の延伸)

同年:大宮・池袋-南紀勝浦線(同上)

平成15年:大宮-京都・大阪・神戸線「京阪神ドリームさいたま」

平成16年:大宮・所沢-名古屋線

平成17年:大宮・川越・所沢-河口湖・富士吉田線(季節運行・平成23年から通年運行)

平成18年:大宮-つくば・土浦線「さいたま・つくば」

平成20年:大宮・池袋・横浜-大津線「びわこドリーム」(平成27年に京都延伸)

同年:大宮・池袋-宇和島線「宇和島パールライナー」(季節運行)

平成23年:大宮・池袋・横浜-福岡線「Lions Express」

平成25年:新宿・池袋・大宮-長岡・新潟線

平成26年:新宿・大宮-八戸・三沢・むつ線「しもきた」

 

 

我が国で最長距離を誇った「Lions Express」や、季節運行の帰省バスで最長路線であった「宇和島パールライナー」を筆頭に、錚々たる顔ぶれである。

どの路線も、国際興業バスと西武バスが大宮側の事業者として参入し、両社の都内の拠点である池袋を経由する路線も多い。

 

大宮が東京発着路線の添え物のような観があるけれども、それは横浜、千葉といった他の衛星都市も似たようなものであり、大宮もしくは埼玉県内だけに停留所を設けている路線は平成20年代に大半が淘汰されて、残っているのが河口湖・富士吉田線くらいであるのも、他の衛星都市と同じ傾向である。

 

 

「ONライナー」は大宮発着路線の先駆けとなったが、羽田空港線が他方面のリムジンバスに比して遅かったのは、なぜだろうか。

羽田空港から横浜へのリムジンバスは、昭和43年から運行している老舗であるし、千葉への路線も昭和63年に開業して、それぞれ何度か利用して、都市景観を映す車窓を楽しんだ。

 

埼玉への路線はどうなっておるのだ、と僕が思ったのも、無理はない。

当時の大宮市の人口は約45万人、200万都市の横浜市や98万人を擁する千葉市より少なくても、平成13年に大宮市と浦和市、与野市が合併したさいたま市の人口は135万人であり、需要は少なくないはずである。

 

 

その理由は、首都高速埼玉大宮線の開通が、平成10年と遅かったためであろうか。

 

首都高速横羽線の羽田ランプと東神奈川ランプの間が開通したのが昭和43年、首都高速1号羽田線昭和島JCTからの連絡路と首都高速湾岸線が繋がったのが昭和58年、更に東京湾トンネルから東関東自動車道と接続する高谷JCTまでが開通して、羽田と千葉が湾岸線経由で結ばれたのは昭和59年である。

首都高速埼玉大宮線の開通前に開業した大宮発着の高速バスは、「ONライナー」を除けば、全て所要時間に余裕のある夜行高速バスであった。

僕が最初に大宮からバスに乗車した「サテライト」号は、浦和駅や川口駅などにも寄るために、中山道を延々と走った記憶があるし、東北からの「庄内・日本海ハイウェイ夕陽」号は、東北自動車道岩槻ICから大宮市に向かっていた。

この経路では、速達性と定時性を要求される空港リムジンバスに活躍の余地はない。

 

それだけに、千葉や神奈川方面だけに伸びていた首都高速道路が、初めて埼玉への門戸を開いたことが嬉しくて、当時バイクに乗っていた僕は、開通当初に何度も自分の運転で走ったものだった。

当時の僕には、繰り返し大宮に通う理由があったのである。

 
 

大学時代に、コンビニエンスストアでバイトしたことがある。

コンビニの店員とは、レジ打ちだけしていれば良い、と安直な印象を抱いていたので、実際に働いてみると、なかなかの重労働であることを思い知らされた。

売れた商品をすかさず倉庫から補充し、陳列棚の奥に引っ込んでいる商品を前出しし、冷蔵室に入って重い段ボールを次々と開けながら飲み物を棚に移す。

1日に何回か床を掃除して、ワックスを掛けなければならない。

配送トラックが搬入して来る商品を、伝票と照らし合わせ、勤務が終われば、最後にレジの清算を行う。

お店を維持することは、大変なことなのだ、と実感した。

 

それでも、様々なお客さんと話したり、些細な気配りで喜んで貰える仕事が楽しくもあった。

バイト代が、気晴らしのバス旅行の費用を賄ってくれたのだから、やりがいもあったし、僕の大学生活を支える掛け替えのない要素だったと思っている。

 

僕と別の曜日に夜勤に就いていたKさんは、僕より10歳ほど年上で、演劇の脚本を書き、女優志望の素敵な奥様がいた。

仕事上がりによく、店の近所にある自宅にお邪魔して、コーヒーを御馳走になった。

それまで紅茶派だった僕がコーヒー党になったのは、Kさんの影響である。

Kさんが脚本を書いた演劇のビデオを見せて貰ったこともある。

 

Kさんが勤務していた夜のこと、何かとクレームをつける酔客が出現した。

僕も客として店内にいたのだが、あの商品がない、この品が高いなどと、何かとKさんにカラんでいる。

その客は女性の格好をしたLGBTであったので、Kさんがタイプであったのかもしれない。

最初は、紳士的に応対していたKさんも、あまりに無茶な言い草が続くために、仕舞いにはキレて声を荒げた。

 

「もういいから、出ていきなさい!他のお客さんの迷惑だ!」

 

苦みばしったKさんが怒ると、ただならぬ迫力があることを初めて知った。

 

「何よ!今度、町中のオカマ連れて、オトシマエつけに来るからね!」

 

形勢不利を悟り、その御仁は、捨て台詞を投げつけながら逃げていった。

そうなのか、男性のLGBTは、自分たちのことをオカマと呼ぶのか、と呆気にとられながらも妙な点に感心している僕を見て、Kさんは、苦笑した。

しょうがない奴だったよなあ、という意味合いだけではなく、僕に同情するような憐憫を感じ取って、嫌な予感がした。

 

その意味が分かったのは、翌日、僕が勤務の夜のことである。

 

「あーら、あの子いないのぉ?」

 

と、甲高い声を上げて、颯爽と現れた女装のLGBD氏。

あの子って、Kさんは30歳を遥かに超えてるんですけど、という言葉が喉まで出かかったが、LGBD氏に比べれば子供同然の年齢である可能性があった。

店内を物色しながら我が物顔に闊歩する自称オカマ軍団は、僅か2人に過ぎず、町中のオカマってそれだけかい、と笑いを噛み殺す方が、よほど難しかった。

 

 

大学の講義や実習が忙しくなって、いったんバイトを中断したあと、別のコンビニで働くことになった。

僕より年下の大学生や高校生、バイク好きのフリーターなど、仕事仲間と大いに意気投合し、社会人になってからも一緒に旅やツーリングに出掛ける間柄になった。

オーナーが大変な熱血漢で、やる気がある店員には、とことん任せてくれたので、それを意気に感じて、仲間と協力してポテトの売上新記録を更新したこともあった。

 

最初に働いたコンビニは閑静な住宅地の中だったが、次の店は旧街道沿いの商店街にあり、近隣に大型店舗があるために、シャッター商店街になりつつあった。

コンビニと居酒屋だけに活気がある、という商店街は、後に、地方でもよく見受けられるようになる。

 

至近距離に大井競馬場や平和島競艇場がある立地であったため、競馬新聞や競艇ニュースの売り上げが多く、お客さんの悲喜こもごもを目にすることになった。

勝ったおじさんが、店員に飲み物を奢ってくれたり、

 

「全然ダメだったから、今日のおでんは大根だけだ」

 

などと悔しそうなお客さんもいた。

 

そのような場所柄だったので、常連客の中には、迫力のある職業の方々も少なくなかった。

それが理由のトラブルは特になく、それどころか、

 

「この店は、いつ来ても元気があっていいなあ!学生かい?頑張れや!」

 

と気に入ってくれて、憎めない方々だった印象がある。

 

ある深夜のこと、若い男性客が酔っ払って僕にからんできたことがあった。

いつも購入している商品が売り切れている、というきっかけだったように記憶している。

申し訳ありません、とひたすら謝罪するより仕方がないのだが、

 

「俺がいつも買ってるの、知ってんだろ?」

 

僕は初めて見る客だったが、酔いも手伝って、男性客はますます居丈高になる一方だった。

店頭に赤色灯が点き、サイレンが鳴る、と教えられていたレジ下の非常ボタンを押した方がいいのかな、などと迷い始めた頃、たまたま店内にいた、顔馴染みの迫力あるおじさんがつかつかと近寄ってきて、

 

「おう!てめえ、いい加減にしろよ、ちょっと顔かせ」

 

と、その男性客の首根っこをぐいっとつかんで、店の外へ連れ出してしまった。

しばらくして戻ってきたおじさんは、手に怪我をしていた。

慌てて、ハンカチを差し出す僕の手を押し止めて、

 

「御苦労さんだな。もし警察が何か言ってきたら、うまく言ってくれよ」

 

とウィンクした。

 

もちろんですとも!──明日の朝刊に殺人事件として載らなければですが、と内心若干の不安を覚えながらも、僕は最敬礼した。

 

 

店の近くに女子寮があるらしく、仕事帰りに少しばかり聞し召した若い女性常連客が多いのも、夜勤帯を華やかに感じさせた。

僕の好みの女性もいて、レジで短い会話を交わすだけで心がときめいたものだったが、どのような会社の寮なのだろう、と思いながらも、恥ずかしくて聞くことが出来なかった。

 

取り澄ましてよそよそしい雰囲気が多いコンビニの中で、その店は家庭的で、地元の老人が買物に来ては、世間話をしていくコミュニティの場にもなっていた。

 

「あんた、今日も受診かい」

「ああ、◯◯病院は優しくて、よう診てくれて、ホントありがたいでなあ」

 

などと、おじいさんやおばあさんがいつまでも話し込んでいるような店だった。

その病院に大学の部活の先輩がいて、僕に入職するよう誘ってくれた。

大学病院の医局にも未練があったけれど、地元の生の声を聞いていたので、そこで働くことに決めた。

僕の進路を決めた店なのである。

 

数年後の4月1日、病院で晴れの入職式に出席し、研修医として紹介されて、居並ぶ職員の前で挨拶しようとした時のこと、看護師の間にざわめきが起きた。

 

「えっ?ウソ!」

「どうして、あの店の店員がここにいるの?」

 

コンビニの裏手の女子寮は、その病院の看護師寮だったのである。

 

 

店の隣りに、雑誌に取り上げられたこともあるチャンコ屋があって、恰幅のいいオーナーのおばさんが、

 

「醤油、醤油、醤油切らしちゃったよ!ねえ、醤油ってどこにあんの?」

 

と、けたたましく駆け込んで来ることが少なくなかった。

僕がチャンコを初めて味わった店であり、それほど高くなく、とても美味しかったので、時々バイト仲間と連れ立って食べに行ったものである。

 

「あんた、Cちゃんとうまくやってんの?」

 

と、チャンコ屋のおばさんに言われて、虚を突かれたことがある。

Cちゃんは、専門学校に通いながら同じ店で働く女の子だった。

最初は店の近くに住んでいたが、父親の転勤で、はるばる大宮から通っていた。

どうして自宅の近くでバイトしないのかねえ、と皆が心配していたのである。

 

「うまくやってるって、どういう意味ですか?」

「あらあ、あの娘、まだ告白してないのね?Cちゃん、あんたのこと、好きなんだってさ」

「えっ?」

「だから、遠くから通ってんじゃないの。いい娘じゃん、優しくて気が利くし、グラマーだし」

「グ……」

 

僕は真っ赤になりながら、慌てて言葉を飲み込んだ。

確かに少しばかりふくよかな女の子だったが、働き者で、整った顔立ちと気の効いた受け答えで客にも人気があった。

いい娘だな、と思っていたものの、鈍感な僕は、彼女の気持ちに全く気づいていなかった。

それまでも、店の帰りにラーメンを奢ったり、バイクで店の最寄り駅まで送ったりしていたが、チャンコ屋のおばさんに言われたその日を境に、妙に意識するようになった。

 

 

初めてデートしたのは、大学を卒業して社会人になってからだったので、かなり後のことである。

父親が厳格で、学校とバイト以外の外出を許して貰えなかったらしく、僕は彼女の帰り道に、一緒に大宮まで電車に送って行くことにした。

大宮駅前の喫茶店で1時間程お茶をしてから、僕だけが終電近い京浜東北線上り電車で折り返す。

バイト先に近い大森駅や、僕が住んでいた大井町駅と大宮駅の間は1時間近くを要するが、この時の京浜東北線の車中が冗長とは、これっぽっちも思わなかった。

 

バイクの後部座席に乗せて、大宮の家の近くまで送っていったこともあった。

高速道路におけるバイクの2人乗りが解禁されておらず、延々と下道で行く大宮は遠かったけれども、Cちゃんは、僕が初めてタンデムを経験した女性だった。

 

彼女がシフトに入っていない日は、僕の仕事が終わり次第、バイクに飛び乗って大宮へ走った。

当時は、首都高速5号池袋線で美女木ランプまで行き、新大宮バイパスを使う道筋で、案外に時間を費やしたから、平成10年に首都高速埼玉大宮線が美女木-与野間で延伸された時には、本当に嬉しかった。

早く大宮に着けば、それだけ彼女と過ごす時間が長くなる。

 

ところが、父親の仕事の都合で、Cちゃんは更に遠方に引っ越すことが決まった。

最後に会ったのは引っ越しの前日である。

遠距離でも構わないではないか、と僕は言ったが、まだ携帯電話が普及していない時代だったので、父親がチェックするから、家の電話や手紙で連絡を取り合うのは無理だ、と泣きながら彼女は言った。

公衆電話でいいから必ず電話くれよ、と別れ際にテレフォンカードを何枚も渡したが、2度と会うことはなかったのである。

 

なぜ、あの時の僕は、家を出て一緒に暮らそう、と彼女に言えなかったのか。

 

 

当時住んでいた大井町からリムジンバスに乗り、羽田空港に向かったのは、平成12年4月のリムジンバス羽田-大宮線の開業直後で、Cちゃんが遠くに引っ越してから2年近くが経由していた。

 

まだ第2旅客ターミナルが完成しておらず、平成5年に完成した旅客ターミナル「ビッグバード」の2階に設けられたリムジンバス乗り場は、840mもあるターミナルビルとほぼ同じ長さを持ち、直線状に17ヶ所の乗り場が設けられている。

羽田空港発のリムジンバスは、基本的に座席定員制の便が多く、前もって乗車券購入を要し、満席の場合は乗れなくなるが、空席があれば、何処に座っても良い。

平成16年に第2旅客ターミナルビルが完成すると、リムジンバスは全て第2、第1ターミナルの順で停車するようになり、少しでも良い席を獲得したい僕は、第2ターミナルから乗る頻度が増えたけれども、それは後の話である。

 

羽田空港のHPによれば、リムジンバス乗り場は京浜急行バスと東京空港交通バスに二分されているようだが、大宮線のように両社とも参入している路線もあり、その区分はどうなっているのだろう、と思う。

大宮行きのバスが発車するのは7番乗り場で、成田空港、東京シティエアターミナル(TCAT)、臨海副都心、錦糸町、品川・芝、池袋、川越、高崎・前橋、館林・太田・桐生方面の路線が発着している。

そこに大宮線が加わったのだが、案外、乗り場の行き先に脈絡がないのだな、と思う。

平成10年に開業したリムジンバス羽田-高崎・前橋線は、東京都内と群馬県を結ぶ初めての高速バスでもあったので、喜び勇んで乗りに行ったのが懐かしく思い出されるけれども、大宮を群馬より後回しにしたのか、と思う。

 

 

僕が乗車したのは休日の昼下がりで、朝夕に比べればバス乗り場の人影は若干少ないようにも見受けられたが、ひっきりなしに出入りしている各方面へのリムジンバスを眺めているだけでも飽きが来ない。

ほう、あんな街にも羽田から行けるようになったのか、あそこにもリムジンバスが走り始めたか、などと感心しているうちに、旅心がふつふつと湧き上がってくる。

 

どのバスにも乗ってみたい、と思うのだが、今や羽田空港を発着するリムジンバスは数十路線を数え、端から乗り潰しは諦めているものの、乗りたくない訳ではない。

 

 

TCAT行き、成田空港行きが続け様に発車した後に、「大宮」とシンプルな行先表示を掲げて姿を現したのは、ライオンズマークをつけた西武バスだった。

 

十数人の乗客が次々とバスに乗り込み、前もって定位置に置かれていた荷物を、係員が次々とトランクに積み始める。

他の高速バスでは、積み込みが運転手の仕事になっている場合が多く、傍から見ていて重労働だな、と同情したくなるのだが、空港は役割分担が出来ているので安心である。

それにしても、国内線の搭乗客であってもこれほどの荷物を持ち歩くのか、と感心した。

リュックを背負っているだけという軽装の僕が、恥ずかしくなるくらいである。

昔は、キャスター付きのトランクなど、海外旅行者くらいしか使っていなかった印象があるのだが、空港でも街でも、ゴロゴロとトランクを引っ張る姿が目立ち始めたのは、この頃だったのかも知れない。


 

空港敷地の連絡路をひと回りして、空港中央ランプから首都高速湾岸線に入った大宮行きリムジンバスは、空港北トンネルで京浜島に渡り、その先の城南島の北端にある大井JCTから八潮連絡路を駆け登って首都高速1号羽田線に向かう。

 

レインボーブリッジを渡らないのか、とちょっぴりがっかりしたけれども、浜崎橋JCTで都心環状線内回りに合流し、楓川と築地川を干して建設したという京橋、銀座付近の曲がりくねった堀割の隘路を走れば、経路のことなどどうでも良くなってくる。

汐留トンネルを抜けてから、次々と頭上を過ぎて行く橋梁は、新尾張橋、千代橋、釆女橋、万年橋、祝橋、亀井橋、三吉橋、新宮橋、弾正橋、松幡橋、久安橋、新場橋と、江戸時代にここが川であった時代から架かっているのだろうな、と思わせる由緒ありげな名前が少なくない。

これらの橋も、自分の下を、水ではなく、轟々と車が流れることになろうとは、思ってもいなかったに違いない。

 

 

新場橋の先に、東京駅を発車する高速バスが利用する宝町ランプがあり、首都高速都心環状線はそこから高架になる。

相変わらず曲線も上り下りもきついけれども、掘割のような閉塞感がないだけマシであった。

首都高速中央環状線山手トンネルが建設中の時代であるから、都心環状線に全ての車が集中し、浜崎橋の手前から、首都高速5号池袋線を分岐する竹橋JCTまで、ノロノロ運転が続いた。

 

竹橋JCTから先の首都高速5号池袋線は、放射状に車が拡散していくためであるのか、流れが比較的滑らかになった。

池袋線もきつい曲線が多く、3~4%の登り坂になっている飯田橋や護国寺付近など、起伏も激しい。

バイクで走っていても、カーブの曲がり具合を読み切れずに高速で進入し、ハッと息を詰めてブレーキをかけた経験があったが、運転手は、巨大な車体を鮮やかなハンドル捌きで導いていくので、見事なものだ、と拍手したくなる。

 

 

左手に緑地の多い高島平団地が見えてくれば、埼玉県との境を成す荒川も近い。

 

緑豊かな河川敷が広大で、心が伸びやかになる笹目橋を渡れば、十数年前に、高島平と南浦和駅を結ぶ路線バス「南浦05」系統で、この橋を渡ったことを思い出す。

あの時、僕は予備校生で、首都高速は高島平止まりだった。

勉強の気晴らしに出掛けただけであったが、その後に高速バスのファンになり、東京から46道府県全てにバスだけで行く、という趣味の目標を定めた際に、浦和市は路線バスで足跡を記したものと勘定できたのは、儲けものだった。

 

東京外郭環状自動車道と交差する美女木ICを過ぎると、真新しい首都高速埼玉大宮線は殆んど隙間なく防音壁に囲まれて、見通しが効かない。

行き交う車の量も目立って減少したが、開通直後にバイクで走った頃よりは多いようにも思える。

以前に外環道を使った時も、みっちりと続く防音壁に仰天し、人口稠密な都市部に高速道路を建設する難儀に思いを馳せたものだったが、首都高速埼玉大宮線も同様の難問を抱え、それ故に開通が遅れたのかもしれない。

「南浦05」系統に乗車しながら、案外にごちゃごちゃとしているのだな、と新旧の住宅がひしめく浦和市内を眺めたことを思い出した。

 

 

県都である浦和市は、未だにリムジンバスが走っていない。

以前に、東北本線や高崎線の列車が浦和駅に停まらず、大宮駅まで通過してしまうことが埼玉県に問題視されたと耳にしたことがあるけれども、リムジンバスも同じ轍なのであろうか。

 

そうか、僕はまだ、埼玉の県都に高速バスで東京から直行したことはなく、路線バスで訪れただけなのか、と思う。

別に、高速バスに限定した目標ではないので、困りはしないのだが。

 

 

空しか見えない単調な道行きであったが、やがて右手に高層ビル群が見えてきたのは、さいたま新都心であろうか、大宮駅であろうか。

バイクや車では防音壁に遮られて見えなかったので、車高が高いバスならではの眺めであろう。

与野ランプの手前で、くどいほど「終点」の標識が繰り返し現れ、車線も1本に狭められて、左へ大きく螺旋状に弧を描きながら地上に降りていく構造だった。

新都心、見沼方面の首都高速が未完だった時代である。

 

高速道路の起終点が他の高速道路にそのまま繋がっている場合も多く、先に進めない文字通りの終点は、珍しく感じる。

僕が高速バスで体験したのは、札樽自動車道の小樽ICや、東北道の青森IC、東関東道潮来IC、北陸自動車道黒崎IC、九州道鹿児島IC、宮崎自動車道宮崎ICくらいしか思い浮かばず、久しぶりに高速道路の終点を見たな、と何やら物凄く遠くまで来た気分になった。

 

与野ランプの出口から、いきなりバスの行き足が鈍り始めた。

交差点の信号待ちや路地の曲線が多く、速度を上げられる訳がないのは理解するけれども、都市は何処も同じだな、とうんざりする。

東北新幹線を跨線橋で跨ぐと、ビルの1階に設けられたさいたま新都心駅バスターミナルである。

屋内で薄暗いターミナルに降りたのは2~3人だった。

さいたま新都心駅は、平成12年4月に開業したばかりで、休日に利用が少ないのは、周辺が再開発のオフィス街だからであろうか。

 

ここに来るのは初めてだったが、後に、群馬県前橋市に本社を置く日本中央バスが、東京-富山・金沢線や埼玉-仙台線などの高速バスを乗り入れて、僕も利用することになる。

ここも大宮市内であり、大宮を発着する高速バス路線が、仙台や富山・金沢にも達しているのである。

 

 

バスは、再び跨線橋を渡って線路の西側に戻り、道にひしめく車の波に揉まれるように、大宮市街へ向かった。

大宮駅の停留所は、西口から少し離れた路上に置かれていた。

 

運転手に礼を言ってバスを降り、周囲の街並みを見回すと、いきなり2年前に引き戻されたような心持ちになった。

Cちゃんと散策したり店に入ったのは、殷賑な大宮駅東口が多かったが、時々は、昭和58年に竣工したJACK大宮や、昭和63年に完成した大宮ソニックシティなどが聳える西口の高層ビル街に足を運んだことを、懐かしく、またほろ苦く思い浮かべた。

リムジンバス羽田空港-大宮線が開通し、こうして大宮を訪ねてきても、彼女はもうこの街にいないのだ、と自分に言い聞かせながら、僕は、しばらくその場に佇立した。

 

 

後の話になるけれども、この旅の翌年である平成13年に、大宮市と浦和市、与野市が合併してさいたま市が誕生した。

羽田空港と武蔵浦和駅・浦和駅を結ぶリムジンバスが開業したのは、大宮線よりも更に13年も遅い平成25年であり、僕は未だに乗る機会を得ていない。

所用で武蔵浦和駅を車で訪れた際に、リムジンバスを見掛けたけれども、その後も食指は大して動かなかった。

 

合併により、大宮駅も県庁所在地の駅となった訳で、僕は、平成12年にリムジンバスで埼玉の県都を訪問済みであったという解釈も成り立つのだが、このようなケースは珍しく、棘のように心に引っ掛かって、少しばかり始末に困っている。

 

 

 

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