NHKのBSプレミアムで8月3日と10日、前編・後編の2週に分けて、零戦の元搭乗員たちの戦前、戦中や戦後の生き様を通して、零戦・特攻を見つめなおす番組が放映されました。
ご覧になった方も多いことでしょう。
まず、零戦の開発の経緯が紹介されます。
零戦の設計者は、当時、三菱重工業の航空技術者であった堀越二郎氏。
最新のジブリ作品で有名になった方と言えば、お分かりでしょう。
最高速度500km/h以上、航続距離2000km以上、それに最高の操縦性能、上昇力を誇る零戦。
正式には、零式艦上戦闘機という当時、世界では、これに優る戦闘機は無かったと言います。
だから、「当時、負ける気はしなかった」と搭乗員の方のインタビューがありました。
ただ、後々、目標達成のための軽量化が裏目に出ることになります。
最初の特攻隊員である大黒繁男(おおぐろしげお)氏のことが再現ドラマで紹介されます。
愛媛県出身、大変優秀な方だったそうで、海軍に志願し、予科練に合格。
最初の特攻で出撃、敵空母に多大な被害を与え、帰らぬ人となりました。
谷暢夫(たにのんぷ)氏も、大黒氏と同じ隊で出撃し、帰らぬ人となったことも紹介されます。
この最初の神風特別攻撃隊は、敷島隊と呼ばれ、5機編成。
1944年10月25日に散華。
後に、五軍神と呼ばれています。
第一番機 関行夫中佐(愛媛県西条市出身 行年23才)
第二番機 中野磐雄少尉(福島県原町市出身 行年19才)
第三番機 谷暢夫少尉(京都府舞鶴市出身* 行年20才)
*実際は、岐阜県揖斐郡大野町出身のようです。
第四番機 永峰肇飛行兵曹長(宮崎県宮崎市出身 行年19才)
第五番機 大黒繁男飛行兵曹長(愛媛県新居浜市出身 行年20才)
実際は、このほかに、西沢広義中尉というパイロットが直掩(ちょくえん)を務め、戦果を見届けています。
西沢中尉と同様に、角田和男中尉という直掩パイロットがおられました。
実は、この方は、今年2月14日に逝去されましたが、NHKにインタビューが残されています。
戦後は、茨城県の開拓地に入植され、落ち着いた頃には、見送った戦友の遺族を訪ねて歩かれたそうです。
横山岳夫中尉は、当時、大黒繁男飛行兵曹長に特攻を命じた上官でした。
氏は、山口県出身、大正6年7月生まれで、今もご健在。
NHKのインタビューが残されています。
玉井浅一大佐は、関氏、大黒氏と同様、愛媛県出身で、当時、横山氏の上官でした。
終戦後は、いわゆるバッシングを受け、仏門に。
その後、1964年12月10日、日々、行っていた水垢離(みずごり)の最中、心臓発作で亡くなられます。
今年、戦後68年、ふと思うのです。
小生が生まれた昭和35年は、戦後、僅か15年しか経っていない時期。
今から15年前といえば、平成10年。
本当に、つい最近のことです。
そんな「最早、戦後ではない」と言われながらも、15年前の終戦のことを深く記憶している人たちが大勢おり、まだ、元気だった頃に、小生、生まれたんだなぁと感慨深いわけです。
実は、小生の伯父(父の兄)も、19歳で戦死しています。
海軍上等兵曹で、通信兵であったと聞いています。
昭和19年、フィリピン沖で、乗っていた飛行機が、撃墜されたとのことです。
当家の長男であった伯父の戦死が、当時どれほどの衝撃を持って、家族にもたらされたかは、想像に難くないところです。
伯父の小さい頃の写真を見るに付け、最近、思うのです。
伯父は、小さい頃、牧場で働き、その後、志願して海軍へ。
その後、横須賀で訓練を受けています。
小生も、横須賀にある防衛大学校に入校し、海上自衛隊を選びました。
しかも、今は、牛飼いです。
容姿も、小生と伯父は、相方に言わせると、瓜二つだと。
ひょっとして、生まれ変わり?
そういえば、小生、飛行機が大嫌いであることは、前世の嫌な記憶がそうさせているのかも知れません。