国、行政任せ、人任せ…自分さえ良ければいいという今の自分たちの振る舞いや言葉が将来の子どもたちの姿になる
防災とコミュニティの関係性もしかり
以前は災害弱者ともいわれた要配慮者や高齢者の現在の姿は、将来の自分の行く先の姿
今、自分たちが要配慮者に気遣う姿は、その背中を見て育つ子どもたちに将来脈々と引き継がれる
コミュニティに防災を後付けするだけでは、防災の実効性はない
人は自ら被災することを積極的に想起しようとしない正常性バイアスという人の心理特性
なかなか自分ごととは思えない、とらえることができない、俯瞰的に未来の時間軸で考えることが苦手というのが、自分も含めた人の心理特性
「人に寄り添う防災」片田敏孝著、集英社新書より
住んでいるマンション自治会と小学校区のまちづくり協議会に参加するなかで、片田敏孝さんの書籍の内容が、幾度も頭の中をめぐった
内発的に自分から動けるように、少し後押しできるように働きかけないと、人は動かないようにできている
それはわたしも含めてみんな同じ
介護予防や疾病予防の難しさの構図と少し似通ったところがある
介護予防や疾病予防、健康づくりも、主体は市民にはなくて、お客さま感覚で医者任せ、病院任せ、行政任せのような人がまだ多いのかもしれない
これには、積極的に要介護化や健康被害のリスクをイメージしようとしない正常性バイアスの影響があるだろう
これでは防災と同じの行政任せとなってしまい、市民と行政もしくは医者のどちらが主体なのかを分けずに、一緒に取り組む主客未分という関係性にはならない
それは、自分も社会も俯瞰しつつ未来も見つつ考え動き続ける必要があるのに、会社任せになってしまうキャリア形成も同じなのかもしれない
防災と地域コミュニティづくりで、互いに思い合う関係性をつくり、人が動くには…
ルールや規範で縛るよりも、必要なのは対話を通したコミュニティづくりではないか
もし今のルールや規範でもダメだとなると、さらに強力なルールに加えて監視が必要になる
なぜダメなのか?
どんな理由や背景があるのか?
なぜやるのか?
などなど…
相手にも何かしらの事情や理由があるだろう
互いが見えている景色、一般常識、当たり前、価値観(ナラティブ)を互いに見に行かないと、ずーっと互いの価値観の押し付け合いになってしまうのでは
やはり対話が遠いようでいて一番の近道か
それにより、心の壁を越えて不信感や監視よりも、関心と寛容さが加わり、結果的に互いにとってもいい方向に進めるのではないか
防災と地域コミュニティづくりでも、ナラティブ・アプローチの視点には、無限の可能性を感じる
会社任せにせずに自らが自分の人生、仕事にオーナーシップを持って、自律的に取り組み続けるキャリア形成も同じこと
他人事にせずに
自分に問い続けること
キャリアのオーナーは自分
いかに自分ごとにできるか
ということで、まずはやってみよう
参考文献)