昨日、愛と祝福に満ちた
素晴らしいサプライズ結婚パーティに
参加させていただきました。

知らなかったのは、
新婦さんだけ。
両家のご両親も、
集まった60名の友人も、
全員が仕掛け人。

発案・準備の段階から
関わらせていただきましたが、
皆さんの無償の愛と献身が
本当に素晴らしく、
そこには新郎新婦のお人柄が
よく表れていると思いました。

会場の装飾・ステージのセッティング・




お祝いのお菓子・心のこもった音楽・
両家のご両親の素晴らしいスピーチ・


新婦さんの着付けとお色直し・



綿密な打ち合わせと練習を重ねたショー・
インド式の儀式・プージャ、、、



その場をたくさんの人と共有できたことが
本当にありがたく思えました。
あの時そこにいた誰もが、
感極まって涙することを
恥ずかしいとは思わなかったはず。


私がここに書き留めておこうと思ったのは、
これまでとても深い愛情をもって
子育てをし、ご家族との時間を過ごされ、
今は癌とともに生き、
立っているのも辛いくらいの
体調のところを、
遠方から駆けつけてくださった
新婦さんのお父様からのメッセージ。
そこから私が受け取ったこと。

『生死一如』(しょうじいちにょ)
生きることと死ぬことは表裏一体である、
という仏教の教えだそうです。

このお話をされた時、
お父様がおっしゃっていたのは、

「皆さんぜひ、
死を瞑想してみてください」
ということでした。

「それは決して真っ暗闇の
洞穴をのぞくようなものではない」

「死はネガティブで、
生はポジティブなものだという
イメージがあるかも知れないけれど、
生と死は切り離せないもの」

お父様ご自身が
「本気で死と向き合った時、
目前で生がいきいきと輝きはじめた」

そうです。

この言葉が私の心に響きました。

本気で死と向き合う、
死を受け入れることは、
とても静かで、優しいけれど、
少し力がなくなっていくような、
やはりどこかでネガティブなものだと
いう思いがありました。

けれども、
お父様のこの言葉を聞いて、
わかりました。

誰にでもいつかくる死。
常に生と隣り合わせにある死。
それを本当に直視した時、
生の素晴らしさが
立ち現れるものなんだと。

また、同時に確信したのは、
自分自身と、家族と、友人と、
全ての人としっかりと向き合い、
愛情をもって接しながら
生きてこられたからこそ、
死と直面した時、
そのような境地に到達できるのだろう
ということでした。

『死』とは『生』と切り離された
『点』ではなく、
『生』の延長線上にあるただ通過点に
すぎないのかも知れない。

私たち個人としては
命がなくなるわけですから、
その一点が終わりにも感じられますが、

一人の人が生きたことは、
例えば、
人の記憶であったり、
その人が伝えた何かであったり、
与えた何かであったり、
成した何かであったり、
作った何かであったり、
残した何かであったり、


視野を広げてみると、
様々な形で波紋のように広がり、
網目のようにつながっていくもの
だなぁと思いました。

いかに死ぬかということは、
いかに生きるかということ、
なのかも知れません。


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Yogini Ai
ヨガスタジオFIVE ELEMENTS
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