あの日の 母と 同じ年齢 | なのなのははは

なのなのははは

なのなのははは・・・意味はね・・
 あのね・・・
   「ななか」と「ののか」と「はは」
   ななのなかにも、ははのなかにも
   光になった ののかは 一緒にいるんだよ!

  みんなにも 気づいてほしいね。。。光の想い
   

あの日…から
24年も たつんだなぁ〰💦


私は、母の事が 好きで嫌い
大嫌いで、大好きです。。( ̄▽ ̄;)

父の変わりに
小さな町工場を 動かしていた
バリバリに 気の強い人
小姑からの 風当たりも強かった
外で笑って、負けるものかと
乗り越えて来た人です。。


お腹にあるものは
怒りに任せて
吐き出してしまうことも
よくあります。。
(それで、何度も傷つきました。)


お世辞を言うとか
褒めるとかは
ほとんど、ありません。。
性格なのか
そうやって
育ったからなのか

足りない部分
出来てない所を
指摘してきます。(*ToT)
後、こうだったら 良かったのに。って


同居しているので
今も 変わらず。。です


一度 バグをしようとして
止めてよ❗と 言われて
それからは 試みていません。


子育ての事、旦那さんの事、
いろいろと 考え方も違い
よく、ぶつかります。。


そんな母が
私の、私たちのために
命懸けで 動いてくれた。。時が、
24年前。。10月
その時の 母と同じ年に なった。。


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初孫を 心待ちにしていた。。
突然の 緊急事態
お腹の子供の異常が見つかり
検査入院。。。
退院の日、だったのに
突然の東京女子医大への
緊急搬送。。。
実家のある小岩から
立川まで 約二時間
飛んできて、家の事や
入院の用意。。。

その頃の 母は
脳梗塞で手足と
言語に麻痺が残る父と
父の代わりに

代表としての仕事を 抱え
ヘルパーさんに
来てもらっているものの
犬の散歩から
父のリハビリ等々
とても 忙がしく過ごしてたなぁ~

父を ホームへ預かってもらい
仕事を 伯父や叔母たちに頼み
来てくれたんだね。。


救急車の中で
何度も もどす私に付き添い


部屋もないまま
入院の手続き
旦那さんと合流して
診察後の 担当医からの説明は
どうやら
『子供は もちろん諦めて下さい。
   母親も 良くて寝たきり状態を
   覚悟して下さい。』
という 話だったそうです。

翌日、母は
そのままを 私に伝え
『今、出来ることをする』と、
当時、真如苑にいたので
導き親、経親さんに連絡。相談。
何度も 真如苑に足を運び
宗教を嫌っていた旦那さんや
妹を 連れて お参りに行ってくれた。

『今、自分が出来ることをする。』
忙しいなか、
走り回ってくれたおかげで

取り出すと云われた子供は
自分で陣痛を起こし
1日かけて 出て来てくれた。。

21日、出産
前日からの陣痛。
夕方から
産婦人科と小児科の先生や
看護師、学生さんが集まり
出産。。。
処置が終わって 部屋に戻ったのは
夜も 遅かったかな…

子供は 未熟児のお部屋の
その中の 保育器にいた
両親の入室しか 許されない

まだ、旦那さんしか
会っていない。。。
『とりあえず、生きてる。』
その言葉だけ…
繰り返す。。

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生まれて 安心したのも

束の間

一日おいての23日

昼までの命・・・と

 

朝から 妹と来てくれた。

 

命のあるうちに一度

会わせてもらい。

亡くなってすぐに

抱かせてもらう。

 

号泣する私に代わって

いろいろな対応をしてくれ

 

お葬式の用意のため

妹と・・・

小岩の家に帰り

ベビー布団やベビー服

父の ホームお泊りの手続き

自分の着替え等々もって

新宿女子医大へもどり

旦那さんの車に乗り換え

野乃花を抱いて

立川の部屋へむかった

10時過ぎてた。。。

 

お葬式までの 数日

野乃花のこと

旦那さんのこと

部屋の掃除も してくれて

 

部屋での

お通夜、お葬式を

取り仕切ってくれた。

 

きっと

あまり寝ていなかったんだろう…なぁ

 

向き合うと ケンカごしになって

言えないでいるけど

 

いつも いつも

とっても 感謝しています。

今までも、これからも

とっても とっても 大好きです。

 

お母さん

あなたが 幸せであるように

あなたの幸せを

心から 祈ります。。。