青森に帰って、親友の葬式に弘前に行ったとき、そこでばったりと会ったのが、若いときに『吶喊』という同人誌の仲間であった、詩人とシンガーソングライターの五所川原で先生をしていた渋谷聡だった。彼は相変わらず若く男前で、すぐに判る。おい、どうしている? 久しぶりだなと、こっちは名乗らないと判らないだろう。もう定年退職したろうと、肩を叩いて、再会を喜ぶ。彼とは、葬式の仏さんの斎藤と、古川壬生と、だびよん劇場の牧良介さんらと同人で、わたしは小説を、彼は詩を書いてきた。昭和59年くらいのときだから、彼はまだ20代の大学卒業して、学校の先生になったばかりのころで、わたしも30代で親の菓子屋で働いていたときだ。そのとき、彼から、アングラフォークというのか、三上寛や古川壬生とは違うが、津軽の土俗の雰囲気の歌を収録したインディーズのカセットテープが市販されていたが、それをもらう。車の中でそれをいつも聴いて走っていた。その彼のアルバムの中に、『農からよ』という歌があり、津軽平野の故郷で就職して、青森と共にある彼の詩心と曲に惚れた。当時は、わたしは大館生まれで八戸で医者をした江戸時代の唯物論者の安藤昌益に傾倒していて、それがまさに農業立国の津軽を舞台にした彼の歌の中にあると、そこからインスピレーションを受けて、同名の短編小説を書いて、吶喊の同人誌に出した。その内容は、村おこしで、イベントをやろうと盛り上がる青年団に、否定的な主人公が、一過性のお祭りで村がよくなるかという批判が当たり、祭りはさんざんで失敗。そんなことに心血を注ぐよりは、農業に力を入れるべきだと、主人公は黙々と農作業を続ける。登場人物の名前はすべて、同人仲間のペンネームそのままにしてみんなを出したので、受けた。

 

 葬儀会場で、邂逅をあたためる暇もなかったが、名刺を差し上げた。彼と最後に会ったのは、10数年前か、青森県詩人連盟の総会の後に、彼のライブをホールでやったときだ。しばらくぶりで会って、どうしているということになる。そのころはまだ出稼ぎには行っていないで、古本屋にいたが、彼の詩集は送ってもらって、何冊か読んでいた。その彼がそれを機会に、詩人連盟に入ることになる。わたしは入れ替えに、連盟をやめて、東京に出た。

 そんな経緯で、それから彼と会うことはなかった。葬儀からまた平常の生活に戻ったら、彼から六冊の詩集がどっさりと送られてきた。いままで10冊できかない詩集も出していた。よくやるなと感心したが、わたしのほうが長く詩を書いてきて、ちゃんとした詩集一冊もいまだに出していないので、それは触発された。ネットでばかりで発信していて形が残らない。まあ、残すほどのものは書いていないが、彼を見習うことも大事だなと、考え方を変えた。

 その彼に手紙でお礼を書いた。

 

   前略、

 

 詩集五冊届きました。(後で一冊別送してきた)ありがとう。さっそく読みました。渋谷聡健在でした。思えば、君とは吶喊で昭和59年から一緒でしたね。あれから、牧良介さんが亡くなり、壬生も斎藤も亡くなり、横山良文も亡くなりました。いまはあのころの同人仲間の何人が残っているのか。

 詩はわたしのは理屈ですが、君のは音楽です。やはり壬生と同じで、音楽をやる人は違う。それにしても精力的に詩集を出してきて、わたしも見習わなくてはいけないと思いました。こっちも高校生のときから60何年か書いてきてもちゃんとした詩集は一冊も出していません。詩人連盟に属し、一時は詩人会議と同人にもなって、亜土では山田尚さんと泉谷明さんらと一緒でした。青森でも詩のサークルで「海峡」に属し、それから自ら立ち上げた「舞音」は17号まで続けたか。

 あれから、君らと会わないで、古本屋の親父でしたが、林語堂も息子の代になってから倒産しました。わたしは10年前に東京に出稼ぎで出てから、海外放浪し、千葉と平塚と引っ越して、いまは息子一家と同居して孫と遊んで、家政夫をしながら、ネットで詩を毎日投稿しています。それが下にあります。

 

http://blog.livedoor.jp/kitano_tabibito2667/archives/1058723629.html?ref=category00000_article_footer1_slider&id=5984518

表札のない部屋喜多村拓

 

https://kitanotabibito2667.blog.fc2.com/blog-entry-113.html?sp

 

針葉詩片

 

https://blog.goo.ne.jp/kitano_tabibito

 

終世紀

 

 君の詩集で、『おとうもな』では笑いました。随所で笑わせてくれて、懐かしい津軽弁も思い出しました。その中で『鎖』は最高です。表題作も傑作です。『切る』の散文詩もまたよく、そういうスタイルもあるのかと、からもいで(津軽弁で無理に体を動かす?)奮闘している君の姿に感服です。

 いままでも詩集をいただき読んできて、吶喊でも発表してきたのも懐かしく読み返し、まだまだ褪せることなく言葉がこぼれ出るのは壬生と同じです。枯れてこないところがすごい。

 わたしの毎日更新しているブログ『湘南つれづれ』で、この詩集を写真入りで、紹介していいよね。あまりに面白いので、みんなに教えたい。

 

 それにしても斎藤も、壬生もわたしの親友で、三人は昭和26年の6月7月生まれで同期でした。病気もあったが、あまりにも突然でまだ信じられない。斎藤と最後の電話では、壬生のことで、次はおれだと斎藤は話していた。おまえのような不摂生が長生きするんだよと話していた矢先に死んだ。前にもおまえの骨はおれが拾ってやるよと冗談で話していたが、それが本当になる。言霊って怖い。この半年で親友が同い年くらいで四人が死んだ。わたしはいのちほいど(命乞食:生に執着心の津軽弁)なので健康オタク。玄米と麦食べて、豆乳とすりごま、黄な粉、プロティインなどでスムージー、サプリでミネラルとビタミン摂って、太極拳で運動しています。斎藤の子どもらと話して、お父さんとは真逆だと言われた。長生きしてもいいことはないけど、旅行だけはしたい。来月は中国にまた行きます。老後の放浪を放老と呼んで、旅先で死にたい。

 それではまたどこかで会おう。若々しい君の姿、詩集、安心しました。

 

 2024年4月26日

 

    渋谷 聡 様

 

                            喜多村拝

 

 わたしのように、異郷で何もしていないで、ただ流されている者もいるだろうが、津軽の故郷で詩を書き続けている彼が素晴らしい。東京には何もなく、千葉にも神奈川でも、わたしは何をしていたのか。青森に残って、そこで書き続けている仲間たちと比べて、恥ずかしい気持ちにさせられた。それにしても、彼は壬生と同じで、詩人であって音楽(ピアノにギターもやる)もあり、多才で羨ましい。放浪もいいが、土着もいい。渋谷聡がそれを教えてくれた。