(前回の続きです)
Iくんが入塾してきてから4ヶ月経ったある日のことです
夕方、近所のパチンコ店の前でI君のお母さんを見かけました。
高そうなスーツ。ブランドのバッグ。そしてくわえ煙草。
彼女は、一緒にいた男性と親しげに腕を組んでパチンコ店に入って行きました。
その1週間後、そのお母さんがIくんと一緒に塾に現われました。
そしてこう言い放ったのです。
「塾代ってまけてもらえない?…ふ~ん。じゃあ今日でやめさせるわ」
あとで塾長に聞いたところによると、Iくんの母親は4ヶ月間授業料を滞納していたそうです。
最後のその日、Iくんは教材を50ページ近く解きました。
夕方17時に塾に来て、23時までただひたすら問題を解きました。
何かに取り憑かれたかのように黙々と鉛筆を動かすI君には、鬼気迫るものを感じました。
あまりにIくんの帰りが遅いのを不審に思った母親が、彼を迎えに塾にやって来ました。
「あんた、こんな遅くまでまだやってんの~?!いいかげんもう帰るよ!」
そう言ってIくんを連れて帰ろうとしました。
「いやだ!!」
Iくんが悲鳴にも似た声で叫びました。
温厚でいつもニコニコしているIくんからは想像できない大きな声でした。
「いやだ!僕はまだ勉強がしたいんだ!!」
そう搾り出すような声で言うと、Iくんはまた問題を解き始めました。
涙をいっぱいに溜めながら必死で問題を解く彼の姿を見ていると、
私は胸が押しつぶされそうに苦しくなりました。
そして仕事中にも関わらず、涙が次から次へと溢れてきました。
…塾代が払えない?
高そうなスーツを買うお金があるのに?
それ、この間着ていたのと違う服だよね?
バッグもそれブランド物だよね?
タバコは買うお金あるんでしょ?
パチンコで遊ぶお金はあるんでしょ?
Iくんが弟たちの面倒を見ている間、あんたは仕事もせずにふらふら何やってんの?
Iくんは勉強が大好きなんだよ?
どうしてIくんのたった1つの願いも聞いてあげられないの?
お母さん大好き。そう言ってたIくんのこと、どうしてわかってあげないの?
あんた、それでも母親なの?
それら罵りの言葉たちが口から衝いて出ないように、必死で自分を制していました。
Iくんが塾を去ったその日の深夜のことです。
Iくんのアパートが火事になりました。
出火元はIくんの住んでいた部屋の居間でした。
タバコの火がカーテンに燃え移ったそうです。
幸い、その火事で負傷者はいませんでした。
「Iが遊んでいて火をつけた」
Iくんのいたずらが出火原因だと、母親は警察に主張したとのことです。
本当にIくんが火をつけたのか、それとも母親の苦しい言い逃れなのか、真相は誰にもわかりません。
Iくんのアパートの消火活動は明け方まで続いたそうです。
近所で火事を見ていた塾生の母親が後日教えてくれました。
「消火活動の時、Iくん、アパートじゃなくて隣の庭の桜の木をずっと見上げてたんだよ、ぼーっと…。よっぽどショックだったんだね。」
私はその光景を見ていません。
でもその時のIくんの姿がまざまざと目に浮かびます。
鮮やかな桜の花。
消防車と外灯の明かりに照らされてきっと幻想的な美しさだったのでしょう。
Iくんのことです。
ショックを受けていたのではなく、純粋に、その桜の美しさに魅入られていたのだと思います。
単なる想像ですが、私はそう確信しています。
1週間後、Iくん一家は本州の親戚の家に引っ越して行きました。
Iくんとの出会いは本当に衝撃的なものでした。
私の人生に大きく影響を与えてくれた少年でした。
親愛なるIくん。
お元気ですか?
新しい問題を解くとき、今でもドキドキしますか?
警察官になる夢はまだ変わっていませんか?
Iくんのような、好奇心や夢がいっぱいの子供が世の中にあふれるように。
そして、それを大人や環境がじゃましないですむように。
坂本先生も頑張るよ。
毎年、桜の咲く季節に思い出す少年へ。
胸の痛みと、「忘れてはならない決意」を添えて…。
(2008年5月3日)
…Iくんと別れてから約9年。
彼はその後、どんな道を歩んだのでしょうか?
今、どんな人生を送っているのでしょうか?
皆さんはどう思われますか?
次回、Iくんの現状を記させていただきます。
その時までに皆さんもどうか彼の現在を想像してみて下さい。
(次回へ続きます)