あれからちょうど20年経ったよ。 | (株)ドS商会 うらわー本店 営業日誌

あれからちょうど20年経ったよ。

* 申し訳ないですが、無意味に長いです。読みたい人だけ読んでください。
読みたい人も暇な時に読むことをオススメします。本当に無意味に長いです。

平成9(1997)年3月22日早朝。私は秋田駅にいた。
当時、秋田市内に住んでいた私は前日夜に仕事を終えた後、一旦自宅に戻りシャワーを浴びて着替えてから、30分歩いて秋田駅に向かった。
翌22日に開業する秋田新幹線上り1番電車「こまち10号」の自由席に乗るためである。

深夜0時くらいから秋田駅改札前の自由通路に座って並んだ。私の前には40人から50人程度は並んでいたと思う。
屋根も壁もあるとは言えども所詮は駅の通路だ。3月の秋田の深夜・早朝の寒さは身に染みた。
通路からは見えなかったが、恐らくは駅ホームに留置されているのだろうか、男鹿線のディーゼル車と思われるエンジン音が早朝までずっと鳴っていたのを記憶している。

5時近くになり駅が騒々しくなってきた。駅員・秋田支社員やマスコミが集まりはじめてきた。駅員もハンドスピーカーで乗車案内を始めた。
5時50分頃に入場開始。私は無事に自由席の窓側席をゲット。
次の大曲駅でスイッチバックをする関係で、秋田駅出発時点では座席は後向きにして出発するという話を事前に聞いていたが、開業初列車だけ座席は進行方向向きだった。
空も東側は明るくなっていた。開業を祝うかの様な快晴だ。

窓外にいるABS秋田放送(日本テレビ系)のクルーが「カメラに手を振ってください」と書いたフリップを持っていた。どうやら全国放送「ズームインサタデー」の番組で映るらしい(後刻、職場の人や東京に住む友人から聞いたが、数秒ながら私が手を振っている様子が映っていたそうだ)
先頭車付近では開業式典が行われているらしいが、残念ながら私の席からは見えなかった。

いよいよ、出発の6時12分。秋田県民の期待を乗せた「こまち10号」はタイフォンは高らかに鳴らして動き始めた。
ホーム上の人は、手を振ったり拍手をしたりしていた。
開業式典の会場も通過した。松田昌士JR東日本社長、女優の真野あずささん(JR旅連イメージキャラクター)、佐々木喜久治県知事(故人)の様子が見えた。
新幹線ホームだけではない。在来線ホームでもお客さんやJR社員が手を振っていた。在来線ホームの先っちょにまで人がいた。

1分くらいして車内チャイムが鳴った。東北新幹線と同じ車内チャイムだった。
その音を聞いた瞬間に「遂に秋田にも新幹線が来たんだ」と実感した。
沿線の沿道や田んぼでは、たくさんの人が手を振っていた。

途中の神宮寺駅をこまちは時速130キロの猛スピードで駆け抜けた。
恐らくは元国鉄マンだろうか?神宮寺駅の委託駅員と思われる老人男性が直立不動の制服姿で、改札から通過を見送っていたのが印象的だった。

次の大曲で進行方向が変わるのに伴い、隣に座っていたおばあさんと協力して座席方向を転換。
秋田駅から盛岡駅までの全ての踏切に秋田支社員・盛岡支社員が立っていた。
「開業初列車は何が何でも定時で動かす」という意気込みだろうか。

盛岡駅に着くと降りる人も多く、お客さんもかなり入れ替わった。
大宮駅から東京駅までは空席が多くのんびりした雰囲気で、すぐ近くの席にはABS秋田放送の取材クルーが座っていて、ABSの菅原アナウンサーもいた。

上野駅を出発してしばらくまでは順調だったが、東京駅の新幹線ホームが満線とのことで(現在は2面4線だが、当時はまだ1面2線しかなかった)東京駅の手前で足止めをくらい、「こまち10号」は所定10時40分到着のところを3分か4分程度遅れて東京駅12番線(現22番線)に着いた。
東京駅では、鉄道ファンや家族連れがたくさんいて歓迎ムードだった。

この後、当時は東京都板橋区高島平にあった実家へアポなし訪問をした。父も母も弟もビックリしていた。

その日の、東京駅19時00分発下り最終「こまち59号」で帰途に着いた私は秋田新幹線開業初日の旅を無事に終えた。

あれから本日で丁度20年。
秋田駅も駅前も変わり、本数も両数も増えて速度も上がった(但し、料金も大幅アップ!)
これからも秋田と東京を結ぶ動脈として活躍してほしい。