市民が想いを寄せ続けてきた芝居小屋、「鶴川座」。
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川越の連雀町にある蓮馨寺(れんけいじ)。
蓮馨寺から真っ直ぐ伸びる立門前通りは、昔の川越の雰囲気を感じさせるお店に、最近できた新しいお店もあり、最近話題に上がる事が多い通りです。
立門前通りは、蓮馨寺から大正浪漫夢通りを交差して、さらに真っ直ぐ進んで川越街道と交わる。通りには、昔から続く老舗に新店も続々とオープンし、ディープな川越を感じられる通りでもある。。
この通りにあるのが・・・芝居小屋「鶴川座」。
「旧鶴川座」
『鶴川座の前身は、同地区にあった芝居小屋「松連座」が明治26年(1893)の川越大火で焼失し、その後有志によって「川越座」として再建された。
明治33年(1900)に「鶴川座」と改称され、旅芝居の興業や活弁を中心に上演された。
大正時代に入ると活動写真が上映され、弁士や楽団が活躍。
当時は近隣のすし店が小屋内に出店し、お寿司を食べながら映画や芝居を観ることができた。
鶴川座は小屋の利益で芝居専用劇場「舞鶴館」を約200m程離れた場所に建設。
劇場運営の全盛期を迎える。
舞鶴館は芝居小屋として歌舞伎座を模し建築されスタートするが、
昭和40 年頃に解体された。
活動写真を中心とした鶴川座は、戦後になると映画より興業のほうが多くなり、
水の江滝子と松竹歌劇団をはじめ三波春夫もこの舞台に立ち、
立門前はいつも夜遅くまで賑わっていた。
その後、再び日活系の映画館として歩むが、
平成12年頃(2000)を最後に映画が上映されることが無くなった。
その後、店舗やライブハウスとして活用されたが、現在は未活用の状態。』
今でも年に数回は、イベントなどで使われる事がありますが、建物の老朽化が相当進み、損傷が激しい建物であるのが現実。天井が抜け、床に穴が開き、雨漏り、雨どいの詰まり、便所が利用できないなど通常の利用が困難になっている。
このまま時に任せていると、いずれは取り壊され、別の用途に転用されてしまうかもしれない、いや、そうだろう。
120年経っている大事な川越の文化遺産、旧鶴川座を保存し、再び本来の芝居小屋として復活させて行こうという街の機運が高まっています。
本格的な保存再生の工事はまだまだ先ですが、映画上映会のイベントとして利用可能なように最低限の応急修理を行うことになった。
映画上映会は、2013年11月30日、12月1日、鶴川座で上映される「映画 中村勘三郎」です。
その前段階として、上映会に耐えうる状態にするため鶴川座内を綺麗に掃除しようというのが、2013年9月に行われた「旧鶴川座お掃除会」。
主催のNPO法人川越蔵の会の面々を中心にして、この日集まっていたのは、かわごえ環境ネット、ラジオぽてと、市民有志などなど。市民の手で鶴川座を掃除して綺麗にしよう!と 30人ほどが集まりました。
(この原色は、ライブハウス時代のもの)
参加者は各自、雑巾、マスク、軍手などお掃除セットを持参して、館内に残された荷物整理、楽屋、トイレ、屋根掃除などを数人ずつ分かれて掃除していく。
鶴川座から近くにある旧川越織物市場は、今まで掃除した事はあっても、ここ旧鶴川座で、今回のようなお掃除会をするのは初めてのこと。
古い建物を壊す事は簡単、でも、川越の古い建物は簡単には壊して欲しくない。
蓮馨寺は昔から庶民に親しまれてきたお寺。おびんづるさまがいたり、かつては境内には遊園地があったり、今でも川越まつりの時にはお化け屋敷が出現する。そして門前通りには、芝居小屋があった。常に庶民に近い所にあったのが蓮馨寺。
入ってみると鶴川座内は広いことが分かる。舞台も広くて、二階席もある造り。明治時代の建物としては、かなりモダンな建築だったはず。
ホールは、ガランとして何もないですが、奥に使われなくなった荷物などが山のように散在している。それをホールに全部出していきます。
時代に合わせていろんな使われ方をしてきた鶴川座。川越の歴史遺産とも呼べる埃まみれの荷物が、出るわ出るわ。。。
映画館時代の座席でしょうか。
柱を見ると、この建物の変遷を垣間見る事ができます。
芝居小屋時代、映画館時代、それぞれの用途で、柱に手を加えられているのが分かります。
歴史の堆積がこの柱を見れば一目瞭然。商業建築だからこそ、時代の波をもろにかぶり、変化して行った、というか変化させられてきた。それでもしぶとく残っている、残そうとしてきた人たちがいる。これからも残していくために、今自分たちでできるお手伝いをする。
窓から外に出て、雨どいの掃除を3人で担当。屋根の掃除はぐるっと一周掃除する。まずは正面の屋根から。
(この下が、冒頭のお掃除会集合の場所です)
屋根は、相当な古さ。釘が打っている場所とサッシの上を踏むようにと注意しながら屋根の上に下りた。雨どいに土が詰まっていて水が流れないので、全部かき出して綺麗にします。土は、舞って来た土埃もあるし、落ちた葉っぱがここで腐葉土になったものも多い。
雨どいの土をかき出すと、もともとはこういう色だったんだなと青色が現れました。
他のゴミを掃除し、木のクズを片付けてこの場所の掃除は終わり。
バドミントンの羽が落ちていたが、きっと下の通りからここに上がってしまったのかも?
(ここから見える建物のてっぺん)
この正面屋根の所に、明らかに後から付け足したような部分があった。
「ここは映画館時代の映写室だったんですよ」。
付け足し付け足しで、混沌とした雰囲気です。中を見てみると、広い映写室のスペースが広がる。ここから映像をスクリーンに投影していた。
次の屋根の掃除ポイントに移動、次は建物正面左側の屋根です。ここが特にハードだった。
踏む場所を気をつけながら進む。錆びているから、かえって滑らないという状態。
ここの雨どいも土が積もって堆積していました。これでは水が流れないはずだ。
もともとは葉っぱだが、何十年と時間が経って腐葉土になり、栄養満点の土なので生物がたくさんいて。ここの土だけで、土嚢袋10袋以上出ました。
屋根上、慣れていると力抜けるんだと思うけど、慣れないのでずっと足に力入れてる状態です。
屋根の上にいると、まことやさんの太麺焼きそばのソースの香りなどが漂って来るのが分かる。
時間をかけて取り除いていった土、屋根に乗っていた土、土嚢袋で全部で40袋以上出ました。
これだけの量の物がよく載っていた。。。
一階に下りると、こちらもほとんど掃除が終了。ゴミが集められていました。
ホールに運び出されたガラクタたち。
もともとの状態、綺麗な姿に戻りました。
トイレもピカピカです。
朝から始めて夕方まで掃除して、大勢による人海戦術で鶴川座を綺麗な状態に。
地元の資産を自分達の手で綺麗にする、みな充実感に溢れた表情なのでした。
これが、旧鶴川座から見える川越。頑張ったご褒美に、素敵過ぎるプレゼントでした。
屋根の端っこまで移動して、一番街の方を眺めます。
今回のお掃除会はこれにて終了。目に見える所での目立つガラクタは撤去され、少しだけ芝居小屋に近づいたでしょうか。
そして、映画上映会の時を迎えます。
旧鶴川座が、再び芝居小屋として復活する日がやって来ることを願って。
実は、このお掃除会の時に・・・
かつて歌舞伎役者の絵看板に使われていた木の枠が・・・出てきたんです。
大切に袋に入った状態で見つかった。
「本当に芝居小屋だったんだなというのが分かります」
と福田さんはしみじみと語っていました。
「ここで勘三郎さんに演じてもらいたかった。
これから私たちは、この鶴川座の復活の活動をしていきたいと思います」
映画上映後のスピーチで、川越蔵の会の福田さん(故人)が涙ぐみながら語っていたのが印象的だった。
この舞台で、勘三郎さんのお芝居が見られたらどんなに感動的だったでしょう。
その夢は叶わなくとも、廃墟同然となっていたこの芝居小屋が市民の手でここまで綺麗になった。映画が上映されるまでになった一つの到達点を、勘三郎さんは天国できっと喜んでいるのではないでしょうか。
2013年11月30日、12月1日、芝居小屋「旧鶴川座」で上映されたのが「映画 中村勘三郎」です。
映画は、2012年12月に亡くなった歌舞伎俳優 中村勘三郎さんの20年に渡る活動を追いかけ、
特に全国の芝居小屋再興に尽力した姿を映し出している内容。
鶴川座で上映会が行われた二日間とも大盛況で、上映中から場内は観客のすすり泣きが聞こえてきました。
この映画は、全国の芝居小屋12ヶ所で上映会が行われるという粋な計らいがあります。
この映画が作られるきっかけになったのが、全国の芝居小屋復活に命を捧げる地域の人たちの活動がありました。
ここ川越でも、鶴川座で上映されるよう駆け回った人たちがいて、「映画 中村勘三郎」には、多くの人の想いが秘められています。
明治に建てられた芝居小屋、鶴川座。
手の込んだ造りで、凝った意匠に回り舞台もあり、川越の人に親しまれた小屋だった。
鶴川座のような小さな芝居小屋は全国にあって、かつては庶民の娯楽の中心だった場所。
それが時代とともに廃れていき、廃墟同然のようになっている小屋もある中、復活した事例も今全国あちこちに見られます。
そして、地域に根差した芝居小屋を大事にし、再興に尽力していたのが、勘三郎さんだった。
今でこそ、大劇場で演じられる歌舞伎ですが、もともとは地域の芝居小屋で演じられていたもの。
香川県の金丸座では、勘三郎さんは「ここの舞台に立ちたい」と熱く語り、
町の人を動かし、ついに金丸座は生きた芝居小屋としての復活を遂げます。
川越の鶴川座もまだまだ道半ばですが、生きた小屋として復活できるよう動いている人たちがいる。
2013年12月1日。
10:30からの上映会に向けて、川越蔵の会のメンバーが集まり、朝早くから準備を進めていました。往復はがきでの予約の他に、当日券も用意して観客を迎えます。新聞記事で上映会の事が紹介されたこともあり、大きな反響が予想された。
設営から受付、プロジェクターを使った映画の上映まで、上映会のすべてを川越蔵の会のメンバーが行っています。
お客さん入場の前に、旧鶴川座の中はどんな様子になっているのか。
映画が上映されるまでになった、今の姿を確かめてみます。中に入るとひんやりとした空気。
鶴川座内、ほんの3ヶ月近く前の姿と比べると、見違えるように綺麗になっています。というか、市民有志が綺麗にしたのだった。
どれだけの方が、観に来てくれるだろう。・・・なんと。
外には大行列が出来ていました。たくさんの人に愛された中村勘三郎さん。ファンの方もたくさんいたでしょう。
映画上映の前に、川越の鶴川座はどんな芝居小屋だったのか紹介されました。
(唯一絵葉書で残された、当初の鶴川座の姿)
福田さんが解説します。「『川越鶴川座』と書かれています。外壁に絵看板が見え、歌舞伎役者の絵が描かれていたと思います」
「勘三郎さんの功績というのは、
私たち芝居小屋をなんとかしたいという人たちにとっては、
本当にかけがえのない人でした。
本当に惜しいことに昨年の12月に他界されました。
私たち川越蔵の会は、全国芝居小屋会議という所に所属しています。
勘三郎さんにはたくさんお世話になったんだから、
ご霊前に感謝状を届けましょうという話しになりました。
それで、いろんな方に話しが伝わって、
勘三郎さんの事務所から電話を頂きまして、
『感謝状、天国の勘三郎は本当に喜んでいるはずだよ。
みなさんにぜひ1本の映画を贈ります』
というお話を頂きました。
その映画は、
『東京ではかけない、芝居小屋で。勘三郎の気持ちだよ』と、言ってくださいました」。
全国の芝居小屋でかけるために、フジテレビにあった勘三郎さんの生き様を追った密着映像から、「映画 中村勘三郎」はできました。20年に渡って7000時間を超える取材映像。
映画は、勘三郎さんの魅力が存分に感じられるものでした。
居るだけで周りが明るくなり、人を動かす影響力がとてもある。
襲名、海外公演、全国の芝居小屋を巡る旅。
そして、病に倒れる時。。。
勘三郎さんを中心にしつつ、
子へ孫へ、芸が受け継がれていく様子を伝えていました。
鶴川座、舞台と客席の一体感が生まれる最高の空間です。
でも、まだまだ未整備。
ただ、全国の芝居小屋も同じような状況から、熊本県の八千代座などのように復活した小屋もあちこちにある。
「川越には、一番街などの観光ゾーンがあって、
喜多院などの歴史ゾーンがあり、クレアモールの商業ゾーンがある。
ここ鶴川座が復活すれば、
それらを結びつける接点になるのではないかなと思います」。
ここで、お芝居が演じられたり寄席があったり、市民の発表の場であったり、とそういう生きた小屋になれば、もっともっと川越は楽しくなるはず。
鶴川座の本当の復活へは、まだまだ遠い道のりだけれど、ここまで歩んで来た事は勘三郎さんも、きっと喜んでくれているはず。
「ここで勘三郎さんに演じてもらいたかった。
これから私たちは、この鶴川座の復活の活動をしていきたいと思います」。