<懸け橋>垂水区 童童(トントン)教室の20年(下)
2008/03/08 神戸新聞地方版

成熟 育つ優しさたくましさ
 黒板に張られた広大な中国の地図。その右側に日本地図。その間を「中国残留婦人」と書かれた絵がゆっくり往復した。
 「日本人であることを隠し続け、やっと帰ってこれた。その時の気持ちを考えてごらん」
 二月十三日、神陵台小の六年児童の総合学習の時間。野間淳二教諭(38)が呼びかけた。手が次々に挙がる。
 「家族に会いたい」「祖国の地を踏みたい」
 質問を続けた。「じゃあ、なぜ孤児に冷たい言葉をかける日本人がいるんだろう」。教室が静まり返った。
 生活雑貨から食べ物まで密接な関係にある日本と中国。神陵台地区に住み、「童童(トントン)教室」に通うクラスメートをこう表現した。
 「中国語と日本語を話せるなんてすごい才能。チャンスは半分じゃない、二倍あるんだ」

 阪神・淡路大震災以降に赴任した大川昌利教諭(54)、酒井正人教諭(52)は日本人児童を巻き込むことで、童童教室の可能性を一気に広げた。
 上海日本人学校、青年海外協力隊を経て、赴任した酒井教諭は、地元公民館で語学教室を開いたり、中国語で書かれた学級通信を配布したりした。日本語が不得手な保護者には酒井教諭が頼みの綱になった。
 それでも当時二人が感じた課題が解決されたとはいえない。日本語を吸収するあまり、母語を忘れてしまう子どもたちと親世代のコミュニケーションの難しさや日本人児童の保護者の中にある偏見がそれだ。
 野間教諭が赴任した二〇〇一年のことだ。「童童教室」の子どもの保護者が日本人児童と遊ばせることをためらった。訳を聞いて言葉を失った。「何かあれば、まず疑われるのはわたしたちだから」。こんな誤解が少なくないことを間もなく知った。
 一方、日本語が心もとない両親や祖父母を病院や銀行に連れて行く「童童教室」の児童がまぶしく見えた。読み書きは不十分でも入学後半年もすると、関西弁でやり合う順応性に驚いた。
 今、北京で国際教育に携わる酒井教諭も同じ思い。「多様な価値観との交流が人間の幅を広げる。『童童教室』を担当して得たことは、国籍の違いや言葉の壁をいとも簡単に乗り越えてしまう子どもの素晴らしさです」

 小さくとも変化が感じられる。幼いころ、父親の仕事で上海日本人学校に通っていた六年の中村眞子さん(12)が教室に顔を出すのだ。
 「せっかく習った中国語を忘れたくない」。最近はこんなふうにも思える。「中国残留孤児の歴史を知ったら、わたしの方がもっと中国を知らなきゃ駄目と思う」
 「童童教室」の二十年は、国際化にいや応なく向き合った学校や地域の歩みでもある。童童の児童には出自を見失わないでほしい、周囲の児童には異なるものを受け入れる優しさを持ち、互いに理解を深める大切さに気付いてほしいと教諭たちは願っている。ここから二つの国を結ぶ懸け橋が生まれると信じて。(飯田 憲)
【写真説明】6年生の総合学習。国際教育の精神は引き継がれている=垂水区神陵台3、神陵台小学校