2008/03/14 週刊朝日

 その死がどこにも報じられることがないまま、1カ月が過ぎた--。
 東京都江東区の都営住宅の敷地内で1月27日、男性(69)の遺体が発見された。
 「朝6時40分ごろに犬の散歩から帰ってきたら、男の人が仰向けになって倒れていました。周りには血が飛び散っていた。頭から落下したらしく、捜査員が『頭が割れていて、顔もわからないくらいだ』と言っていました」(近所の住民)
 男性は吉沢浪夫さん。脳梗塞を患って10日ほど入院し、前日に退院したばかりだった。10階の自宅の窓には高さ120センチほどの鉄柵があったが、それを乗り越えて飛び降り自殺を図ったとみられる。
 実は生前の吉沢さんには、記者も何度か会っていた。浅黒い顔で小柄、温和な性格。たどたどしい日本語でこう話していた。
 「私は黒竜江省にいました。中国残留孤児です」
 6年前に離婚した元妻が、涙ながらに振り返る。
 「第2次世界大戦中、(吉沢さんが)4歳のときに両親が死んだため、『両親の顔も覚えてない』と言っていた。『中国で食べる物がなくて死んだ兄弟もいた』とも話していました」
 吉沢さんは中国で最初の妻との間に1男2女をもうけたが、妻を29歳で亡くした。現在、大分県で暮らす長男(35)はこう話す。
 「二十数年前、中国政府から『日本に帰国しませんか』という呼びかけがあった。何年間かはためらっていた親父ですが、結局、帰国を決断しました」
 89年ごろに帰国した吉沢さんは、その約2年後には子供たちや2人目の妻を日本に呼び寄せた。だが、離婚して子供たちも巣立ってからは、一人暮らしだった。
 「あの人は3年くらい前から、死にたいと、よく口にするようになった」(元妻)
 実際、吉沢さんは過去にも何度か自殺を図ったことがあったという。
 「吉沢さんの手首や腕には、何カ所か切った跡があった。そんなことをしちゃダメだと言ったのですが……」(吉沢さんの知人)
 元妻も言う。
 「(自殺直後の)部屋には包丁で手首や首を切った跡があって、布団には血がいっぱいついていたそうです。飛び降りる前に、包丁で死のうとしたんでしょう」
 別の知人はこう話す。
 「子供さんや孫たちとも離れて住んでいたし、もはや生きる楽しみも、望みもなくしていたのではないか。20年間日本にいても、日本語がろくろく話せず、友達も全然いなかった。寂しいし、孤独感に耐えられなかったんじゃないか」
 中国残留邦人の平均年齢は70歳。吉沢さんとほぼ同じ年齢だ。福田康夫首相は昨年12月5日、中国残留孤児訴訟の原告団と面会した後、
 「みなさん日本語があまりお上手ではなかった。今まで日本語教育をやってこなかったのかと反省している。行政上も問題があった」
 などと記者団に語った。
 それから53日後に起きた悲劇。福田首相のメッセージは届かなかったようだ。
 (本誌・上田耕司)