2008/03/26 毎日新聞宮城版


 ◇「普通の生活」切望
 文字はすりきれ、ほつれた背表紙をテープで補修した日本語の辞書。寝ている時にも手が届くベッド脇に置いている。52歳でやっと帰ってきた「祖国」で生き抜くため、一生懸命勉強した証しだ。
 96年に帰国した中国残留孤児、並木玉恵さん(64)は今、仙台市太白区の団地に夫妻で住む。隣室には長女一家、団地内の別棟には長男一家。
 並木さんは中国で約30年、建築士をしていたが、「50代で日本語の読み書きはできない」という条件では仕事はなかなかない。生活を切り詰め、家族3世代で暮らしてきた。日本生まれの5歳の孫と話すためにも、日本語の習得は欠かせない。
 そんな並木さんも原告の一人となった中国残留孤児訴訟が全国で次々終結している。背景になった政府の新支援策はこの春、本格的に始まる。3世代それぞれの「祖国・ニッポン」。瞳に映る街並み・人並みは、優しさを増していくだろうか――。
   ◇
 生い立ちは突然知らされた。
 吉林省長春市で暮らしていた48歳の秋。勤め先の建物から出ると、父の古い友人が待っていた。「あなたを探していた」と口を開くと、路上で一気に語り続けた。「あなたは日本人です」
 すべてが、初めて聞く話だった。終戦直後の45年秋、職人や修理工の家が建ち並ぶ狭い路地に、片足をひきずり、汚れきった服装の日本人女性が現れた。女性の腕には、薄い着物一枚を羽織った赤ん坊。子供のなかった養父母の家を日に何度も訪れ、時には疲れ果てて座り込む様子を、その友人は見ていた。
 「うちでは預かれません」。靴を作る日系企業で技師をし、日本語が話せた養父は何度も断ったが、必死の頼みを、最後には受け入れたという。
 腑(ふ)に落ちることはいくつもあった。幼いころ、「小日本鬼子(シャオリーベンクイツ)」といじめられた記憶。働いても働いても、昇進がかなわなかった不思議。
 「私は、日本人なのですか」。数カ月後、病弱な養母の退院を待って、聞いた。ベッドの上で、養母は涙を流し、うなずいた。
   ◇
 養母も実の両親のことは知らなかった。
 「残留孤児」であることは、近隣住民の話で認定された。だが、一時帰国を果たし血液鑑定をしても、本籍地も肉親も、判明しなかった。事情を知るはずの養父は突然の病で63年に世を去っていた。
 日本人であることに喜びを感じたわけではない。でも、やはり、「ふるさとは日本」だった。日本人支援者の「顔立ちと背の高さは、東北出身かもしれない」という言葉を信じて、夫婦と学生だった長男(32)と3人で仙台市に移り住んだ。
   ◇
 日本に帰国した1世の6割が生活保護に頼らざるを得ない中、並木さん夫婦の家計は、夫の楊玉符さん(64)が10年間、月額11万円のビル清掃で支えた。
 楊さんは、中国では同じく建築士で、部長級の役職を務めていたが、経験が日本で役立つことはほとんどない。「どんなに苦労をしても家族は一緒にいるのが当たり前」。それが来日の決め手だった。
 並木さんは「普通の日本人になり、普通の生活がしたい」の思いから原告の一員となった。支援法施行でようやく金銭的な心配からは解放される見通し。「本当の親に会いたい」。その悩みは今も続くが、むしろ心配は、子や孫の未来だ。
 「日本の国は、いつまで私たちのことを気にかけ続けてくれるのだろう。日中のはざまで、どんな未来が待っているのだろう」