2008/03/27 毎日新聞 宮城


 ◇最大の悩みは教育
 「生活するためにはしょうがない」
 仙台市太白区に住む中国残留孤児2世の並木紅梅さん(39)は、そう語る。中国では両親と同じ建築士として勤務したが、日本で同じ仕事に就くのは困難だ。今は週5日、近くのスーパーで精肉部門の責任者を務める。午前8時半から午後5時まで働いて、月収は約8万円だ。
 残留孤児訴訟の原告の一員ともなった母玉恵さん(64)は96年に帰国。紅梅さんは98年に来日。今は、玉恵さんらが住む公営住宅の同じ棟の隣室に居を構えている。
 紅梅さんの夫清さん(41)も中国では人気の貿易業で働き、生活は豊かだった。週末には、まだ珍しい自家用車でドライブに繰り出し、荷物が重い時は気軽にタクシーも拾った。
 来日後、夫は、経験のない電気関係の会社に勤務。周りが驚く速さで八つの資格を取得し、生活は安定するようになった。だが、今も夫婦の誇りは、中国で忙しく働いていた日々だ。
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 母が日本人だと知ったのは95年、会社の同僚のうわさ話だった。
 会社から帰るとすぐに尋ねた。「お母さんは、日本人なの」
 「……」。長い沈黙の後、玉恵さんはうなずいた。何年も前に日本人と知りながら、子供を悲しませまいと黙っていた母がかわいそうで、涙がこぼれた。
 96年、玉恵さんが祖国日本に帰国。夫楊玉符さん(64)と学生だった長男(32)の3人で仙台に移り住む。
 それまで、紅梅さんは「長女だから、親の面倒は私がみる」と、結婚後も歩いて15分ほどの距離に住み、毎日顔を合わせていた。「やはり家族一緒に住みたい」。その思いで両国政府に書面を提出。2年後、ようやく願いがかない、4歳半の長女も含め3人で来日した。
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 日本に来てからは、苦労の連続だった。だが、6畳2間に家族6人で暮らしたことも、1年間一枚も洋服を買えなかった貧しさも、片道40分かけて娘を自転車での保育所まで送ったことも、一つ一つ乗り越えてきた。
 今、一番の悩みは、「普通の日本人の子供はどんな生活をしているのか」ということ。中学2年になった長女は中国語も日本語も、不自由なく操る。高校受験に向け、勉強時間も増えてきた。
 だが、早朝から夜遅くまで、休み時間も惜しんで勉強した自分の姿を思い起こすと、遊んでいるように見えて仕方がない。テレビを見たり、携帯電話のメールをしているのを見ると、つい、「勉強しなさい」としかってしまう。「みんなと同じように、ちゃんとやってる」と反発する長女と、口論になることもある。
 日本で生まれた次女は5歳になる。来年のサクラが咲く時期には小学生だ。
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 長女は、中2になってから、授業参観や保護者会に来られるのを嫌がるようになった。自分が受けたことのない「日本の教育」。日本語に自信がなくて、聞けないでいるが、本当は、他のお母さんたちに聞きたい。
 「みんなどのくらい勉強しているの。どういうふうに勉強を教えているの」
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 ◇背景--言葉の障壁、経験阻む
 国費で中国から帰国した残留孤児1世は、厚生労働省のまとめによると、昨年10月末現在で6354人。帰国本格化から20~30年経過し、2世3世の数も増えている。同省が03年に実施した生活実態調査によると、孤児1人につき10・7人の家族がいる。
 2世のほとんどは中国生まれで、子供から中高年まで年齢層は幅広い。農村出身者の割合が高いが、少数ながら都市出身の医師や教員などもいる。
 2世を対象とする特別な経済的支援制度はない。来日後は、言葉の壁に阻まれて中国での技能や経験を生かせず、製造工場などの単純労働に従事する例が多いという。日本語学校などで学ぶ資金的・時間的余裕がないまま働き続けている2世も多いとみられる。
 03年の同調査によると、1世への生活費支援をしている2世3世は17・7%。生活保護を受給せずに自立するのが精いっぱいで、親世代の面倒をみる余裕はないのが実情だ。定年後は1世と同様、生活保護に頼らざるを得ないとの指摘もある。