2023/10/23 中国新聞

 皆さんは「満蒙開拓」を知っていますか。日本がかつて事実上の植民地とした旧満州(中国東北部)には、敗戦までの間に国策(こくさく)で多くの日本人が「開拓団」や「青少年義勇軍(せいしょうねんぎゆうぐん)」として移住しました。広島県からも1万人以上が渡(わた)ったとされ、その中には私たちと同じ10代の子どもも多くいました。中国新聞ジュニアライターは、専門家や旧満州で敗戦を迎(むか)えた人たちに話を聞き、「満蒙開拓」の実情を学びました。

研究者の河本さんに聞く
背景に貧困や国境防衛 国策で移住
 「満蒙開拓」は1932年、旧満州に「満州国」が建国されてから始まりました。この問題に詳(くわ)しい河本尚枝・広島大大学院准教授に背景(はいけい)を教わりました。

 当時の日本は世界恐慌(せかいきょうこう)のあおりを受けて経済状況(けいざいじょうきょう)が悪く、特に農村の人たちは深刻(しんこく)な貧困問題(ひんこんもんだい)を抱(かか)えていたそうです。また、満州では食糧生産の労働力と旧ソ連国境の防衛(ぼうえい)が求められていました。そこで政府は移民計画を決定。「満州に行けば広大な土地が手に入る」と国策(こくさく)として移民を勧(すす)めました。自治体別に人数を割(わ)り当て、確保できれば補助金(ほじょきん)を出すなどしたため積極的に住民を勧誘(かんゆう)する首長もいたそうです。

 満蒙開拓移民には大きく二つあり、地域単位で移住したのが「開拓団」で、全国から約800の開拓団が海を渡りました。それに対し、私たちと同じ10代で構成されたのが「満蒙開拓青少年義勇軍」。志願者の多くは親の土地を継(つ)げない農家の次男や三男でした。

 66年刊行の「満洲開拓史」によると、広島県から開拓団で渡った人は6345人で、義勇軍は4827人。計1万1172人という数は、全国で8番目の多さでした。

 45年の敗戦までに、全国から約27万人が移住したとされますが、日本の戦況は悪化し、8月9日にはソ連軍が侵攻(しんこう)。3割に当たる約8万人が戦闘(せんとう)や「集団自決」、シベリア抑留(よくりゅう)などに巻(ま)き込(こ)まれ、亡くなりました。逃(に)げる途中(とちゅう)に病死した人や混乱の中で日本に帰れず「残留孤児(ざんりゅうこじ)」となった子どもも多くいました。

 河本さんは「この人たちもまた戦争の犠牲者(ぎせいしゃ)。この事実に目を向けなければ」と話しました。戦争の被害は、原爆や空襲(くうしゅう)だけでないことを学びました。

14歳で「義勇軍」志願 末広さん
敗戦・抑留… 「現地の人傷つけた歴史も」
 印刷会社会長の末広一郎さん(98)=広島市安芸区=は14歳で「満蒙開拓青少年義勇軍」に入りました。「皆さんと同じくらいの年齢(ねんれい)の時。想像しながら聞いて」と話しました。

 広島県世羅町に生まれ、きょうだいは末広さんを含め12人。「広い土地をもらって家族を助けよう」と自ら義勇軍に志願(しがん)しました。

 3カ月ほど茨城県の訓練所で過ごした後、旧満州に渡りました。家族と離(はな)れる寂(さび)しさよりも「親孝行(おやこうこう)できる」という思いが強かったと言います。

 満州の嫩江(のんこう)訓練所では、中国人から奪(うば)った広大な土地にひたすら建物を造り、わずかな食べ物を分け合う日々でした。

 肺の病気で療養中(りょうようちゅう)に敗戦を迎(むか)えた後、旧ソ連軍に連行されシベリア抑留も体験しました。極寒の地で森林伐採(しんりんばっさい)や鉄道敷設の重労働をさせられたそうです。4年後に帰国してからも苦労ばかりでした。「シベリア帰り」と差別され、肺も悪かったのでなかなか職に就(つ)けなかったそうです。

 2017年から1人で「満蒙開拓平和通信」を発行しています。手記や勉強会の報告など100ページに及(およ)ぶ冊子です。「開拓の名の下、現地の人たちを傷(きず)つけた歴史も伝えなくては」と実態を克明(こくめい)につづっています。

 末広さんの3歳違いの弟の昭三さんは兄を追うように義勇軍に入り、現地で亡(な)くなりました。「弟の供養(くよう)になれば」と、義勇軍について県内外で講演もしています。「悲惨(ひさん)な歴史を繰(く)り返してはいけない」という末広さんの言葉が重く心に響(ひび)きました。

中国残留孤児 川添さん
逃げる途中 両親と妹を亡くして
 広島市南区の川添瑞江さん(85)は「中国残留孤児(ちゅうごくざんりゅうこじ)」の一人です。佐賀県から旧満州に渡(わた)った両親の下、吉林省(きつりんしょう)で生まれ、黒竜江省(こくりゅうこうしょう)で暮らしました。

 1945年8月、飛行機から爆弾が落とされるのを自宅で見ました。旧ソ連軍が侵攻(しんこう)してきたのです。川添さんは両親と姉、妹と逃(に)げまどいました。幼い妹は、母親に背負われたまま亡くなりました。

 母親のおなかには赤ちゃんもいて、逃げる途中(とちゅう)、牡丹江(ぼたんこう)という所で出産しました。しかし母親は産後に熱が下がらず、数日後に亡くなりました。「お墓(はか)を作ることもできず、穴を掘(ほ)って埋(う)めた光景が目に焼(や)き付いている」と涙(なみだ)ながらに語ります。

 生きて逃げるのが精いっぱいで、赤ちゃんは地元の中国人に預(あず)けられました。その後の消息は分かりません。父親は、川添さんと姉をそれぞれ親切な中国人に託(たく)し、4日後に病死しました。

 川添さんは中国人の養父に育てられ、19歳で結婚。子育てしながら「祖国に帰りたい」と願ってきました。72年の日中国交正常化後、92年に帰国。2000年から次女が働いていた広島で暮らしています。幼い頃、満足にできなかった勉強をしたいと思い、夜間中学や通信制高校に通って猛勉強(もうべんきょう)したそうです。

 「広島の人は原爆には詳(くわ)しいけれど、中国残留孤児について知らない人が多い」と川添さん。長い中国暮らしで日本語を話すのが難しい中で、私たちに「伝えたい」という思いを強く感じました。しっかり受け止め、共有したいです。

私たちが担当しました
 高2田口詩乃、高1谷村咲蕾、藤原花凛、森美涼、吉田真結、中3尾関夏彩、川本芽花、山下裕子、山代夏葵、中2西谷真衣、新田晄、松藤凜、矢沢輝一、中1石井瑛美が担当しました。

 取材を通して中国新聞ジュニアライターが感じたことをヒロシマ平和メディアセンターのウェブサイトで読むことができます。

【写真説明】満蒙開拓の歴史について説明する河本さん(奥中央)
【写真説明】嫩江訓練所にいた当時18歳の末広さん(最後列)
【写真説明】「歴史の事実を知ってもらうため伝え続ける」と力を込める末広さん㊨
【写真説明】「戦争をしたらどのような苦しみ、悲しみが生まれるのか考えてもらいたい」と訴える川添さん