2024/01/12 毎日新聞/長野

 ◇家族の犠牲、語り続けたい
 5歳だった1940年9月に満蒙開拓団に加わり、長野県泰阜村から満州に渡った。7人きょうだいの5番目。詳しいことなんか分からず、家族で旅行に行くみたいだった。

 満州では寄宿舎から学校に通った。戦争で勝った話ばかり聞いていたが、45年8月9日、45歳だった父が軍に召集された。開拓団は徴兵免除だと言われていたのに、子どもながら何かおかしいなと思った。

 その後、集落がある場所は危険だということで、四つほどの開拓団が集まって逃避行を始めたが、中国人の襲撃に遭った。すぐ近くを「ヒュー」「プスッ」と音がして弾が飛んでいく。はぐれないよう、撃たれて倒れた人をまたいで必死に走った。私の家族は誰も弾に当たらず、運が良かったとしか言えない。

 満州に侵攻していたソ連兵に9月に捕まり、収容所に入れられた。開拓団の幹部はシベリア送りになった。食べ物はわずかで、満州で生まれた妹は11月ごろ死んだ。

 冬になって、姉が現地の中国人に嫁ぐのを条件に、収容所を出ることができた。姉は当初「そんなところに行くくらいなら死んだ方が良い」と拒んでいたが、生きていればなんとかなると考えて、犠牲になって。それで家族も救われた。

 私は豚や牛の放牧をしたり現地の学校に通ったりした後、近所の人の紹介で印刷所で働いた。借りていた家を買い上げ、暮らしは安定していた。

 だから53年に18歳で母と弟と一緒に帰国すると決まった時は複雑な気持ちだった。親戚や友人も皆、帰ることになったけど、日本語は忘れてしまって完全に中国人になっていたからね。日本では、抑留先のシベリアから戻っていた父と暮らしながら土木工事やタクシー運転手をした。

 泰阜村の開拓団経験者の会に参加していたが、会員の高齢化で2023年、活動を終えた。語り部活動は、なんとか90歳まで続けたい。

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 ■ことば
 ◇満蒙開拓
 1931年の満州事変後に国策として、中国東北部の旧満州に開拓名目で移民が入植。終戦までに約27万人が渡り、長野県からは全国最多の約3万3000人が送り出された。旧ソ連軍の侵攻による犠牲や、多くの残留孤児も発生した。

 写真説明 満蒙開拓団に加わり満州に渡った当時の生活を語る中島茂さん