2024/03/04 東京読売新聞

 「この写真、見てください」。東京都江戸川区の都営住宅に暮らす小林栄一さん(84)が、戦時中に満州(現中国東北部)で撮影されたという一族の集合写真を引き出しから取り出した。「6歳の時お父さんがくれました。ずっと持っています」。滑らかではないが力強い日本語で教えてくれた。

 満蒙開拓団の一員として大陸に渡った両親のもと、黒竜江省で3人兄弟の長男として生まれたが、末弟は亡くなり母も病死。終戦直前、出征する父から「お前が日本人である証拠になるから大切に持っておきなさい」と写真を渡された。

 孤児となり、弟とは別の中国人に引き取られると過酷な日々が始まった。家をたらい回しにされ学校にも行けず、石炭拾いの労働を課される毎日。それでも、写真は父の教えを守り大切に持ち歩いた。46歳で中国人の妻と3人の子どもと帰国。清掃の仕事などを必死に続けたが、言葉が話せず苦労を重ねた。現在は週2回デイサービスに通い穏やかに過ごすが、「昔の苦労を思い出すと、今でも……」と目に涙を浮かべた。

 「我又来了(またきたよ)」。名古屋市の佐々木麗さん(84)は、満州で死別した両親の名を刻んだ墓石に中国語で呼びかけ手を合わせた。墓には遺骨も遺品も入っていないが、「それは問題ではありません」。

 1992年に帰国。日本語が話せず差別も経験した。孤独な生活の中で建てた墓は両親のためだったが、自らの心の支えにもなった。最近は足腰が弱り外出時にはつえが手放せないが、年に数度の墓参りは欠かさない。「お墓の中は空っぽですが、魂は帰ってくると信じています」。帰り際、墓石にもう一度手をふれた。

 終戦後の混乱で取り残された中国残留孤児の帰国が本格化して40年以上が経過した。平均年齢が85歳近くなる中、日本語が不自由で孤立しがちな帰国者の介護支援の必要性も高まっている。小林さんは言う。「戦争がなかったら、私たち残留孤児にならなかった。戦争は本当に悲しい。絶対だめですよ」(写真と文 片岡航希)(2023年11月6日~2024年2月19日撮影)

 写真=(右)自宅内を移動する小林栄一さん。学校に行けなかったため字の読み書きがほとんどできないが、帰国後は3人の子どもを養うために清掃の仕事などを必死に続けた。寝室には、満州で死別した母と、苦楽をともにし2014年に亡くなった中国人妻の遺影が掲げられていた(左)小林さんが6歳の時から大切に保管してきた一族の集合写真。1942年に満州で撮影され、前列右端が当時2歳の小林さん。その後ろに母と父が立っている(いずれも東京都江戸川区で)
 写真=両親のために建てた墓に手を合わせる佐々木麗さん。成人後、中国の工場で職を得たが、「自分の祖国は日本だ」という思いが消えることはなかった(名古屋市緑区で)
 写真=外出先から帰路につく望月芙美枝さん(86)。弟、妹と満州で生き別れ、今も行方は分かっていない。「せめてどこかで生きていてほしい」。街行く人たちを見つめながら、祈るようにつぶやいた(東京都台東区で)
 写真=中国語対応可能なデイサービス施設「一笑苑 江戸川」には、約40人の中国残留邦人とその家族が通う。中国人スタッフの龍瑶さん(28)(左)は、日本への留学後に初めて残留邦人のことを知ったという。「若い頃に大変な経験をした皆さんが安らかに過ごせるよう少しでも助けになりたい」(東京都江戸川区で)