2024/03/14 信濃毎日新聞朝

 「戦争なければ、お母さんは向こうへ行かないし、私も生まれなかった」。1985年に中国・長春から母の生まれ故郷の飯田下伊那地域に来た渋谷幸子(さちこ)さん(77)=飯田市大瀬木=は、穏やかな表情の奥に、わだかまりを抱え続けている。敗戦直後、満州(現中国東北部)に取り残された母と中国人の父の下に生まれた。法的には残留日本人に当たらず、2世の扱い。帰国者への生活保障は1世が対象で、幸子さんは受けられない。

 残留孤児たちが2002年から国を相手に長野など全国15地裁で起こした損害賠償請求訴訟は、政治決着として新たな支援制度を勝ち取った。08年から、満額の老齢基礎年金の受給をはじめとしたさまざまな支援が受けられるようになった。それらは多くの帰国者の暮らしを支えてきた。

 幸子さんは12年、自分も支援制度の対象になるかと思い、満額の老齢基礎年金の受給を厚生労働省に申請した。だが結果は「却下」。帰国者支援法の第2条1項が定める「中国残留邦人等」に該当しないとの通知が届いた。

 国は同法で、ソ連が対日参戦した45年8月9日以後の混乱で日本へ引き揚げることなく中国に残された日本人と、そうした両親の下に生まれて中国に居住する子を中国残留日本人と定めている。

 国が起こした戦争のために、戦後の中国で生きざるを得なかった幸子さん。来日後も残留孤児と同様に支援を必要としてきた。なぜ父母の国籍によって線引きされるのか。母の祖国は、この切なさを受け止めてくれないのか―。

【29面へ続く】

 


鍬を握る・満蒙開拓からの問い(18)=国策の影いまも(1) 同じ苦労してきたのに 母の祖国で「残留日本人」の支援受けられず 勝ち取った改正法でも「線引き」
2024/03/14 信濃毎日新聞

【1面から続く】
 3日、飯田市竜丘(たつおか)公民館主催の日本語教室「好友(ハオユウ)会」。ベトナムやフィリピン、中国出身の人たちがにぎやかにおしゃべりを交わす中に、渋谷幸子(さちこ)さん(77)=飯田市大瀬木=の姿があった。中国から来て、日本で暮らし始め39年。20年来、この教室に通う。

 「どうやって日本語を勉強していますか」。ベトナム人の若者が尋ねた。幸子さんは笑顔で答えた。「とにかく日本人と交流するの大事。分からなくて悔しくて、次は分かるように勉強する。日本語分からなくて仕事できないの、悔しいでしょ」
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 幸子さんが生まれたのは中国・黒竜江省の林口県。母の喜代子さんは下伊那郡智里村(現阿智村)出身で、敗戦間近の1944(昭和19)年、農繁期の作業を手伝う勤労奉仕隊として満州(現中国東北部)へ渡った。同郡出身者らの東横林(ひがしおうりん)南信濃郷開拓団で働いた。当時18歳だった。

 45年8月、ソ連軍が侵攻。身寄りもなく極寒の地で逃避行を強いられ、中国人の家に入って命を救われた。そして、46年11月、その家の息子との間に幸子さんが生まれた。

 幸子さんが1歳の頃、喜代子さんは日本へ帰ることを決意。幸子さんを抱いて、こっそりと家を出た。乳飲み子を抱えて若い女性が一人で日本を目指すのは難しかった。家へ戻り、養母に幸子さんを託した。「日本に帰ったら、必ず迎えに来るから」。喜代子さんは泣く泣くそう言ったと、後に養母から聞いた。

 だが、それはかなわなかった。喜代子さんは、帰国を待つ間にハルビンで病のため亡くなっていた。幸子さんは養父母に育てられた。

 中国残留孤児や婦人の帰国が相次いでいた85年。幸子さんは母の故郷へと、当時12歳だった一人娘、美子(よしこ)さん(52)を連れて来日。飯田市で暮らし始めた。夫とは話し合い、後に離婚した。

 小さな公営住宅で、母娘2人で始まった暮らし。来日から間もなく工場で働いた。当時は日本語教室はなく、辞書を持ち歩き、紙がくしゃくしゃになるまで勉強した。

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 2008年に始まった中国帰国者への新支援制度は、日本語教室の講師を通じて12年に知った。新制度は、日本で働く期間が短く年金がもらえなかったり、日本語が分からず孤立し、差別を受けたりと苦境にあった当事者たちが、運動や裁判を通して勝ち取ったものだ。幸子さんも同じ苦労をしてきた。教室の支援者らの協力を得て、満額の老齢基礎年金の受給を申請した。

 国は却下した。幸子さんは翌13年、日本人でありながら戸籍がない者として、戸籍を新たに作る「就籍」が88年に認められていたことから、出生時にさかのぼって日本人だった―と異議を申し立てた。結果は変わらなかった。

 幸子さんの暮らしは厳しい。63歳まで働き、月々もらえる年金は厚生年金分を含めて6万5千円。うち家賃に2万3千円を支払うと、わずかしか残らない。節約し、貯金を取り崩して暮らす。73歳まで掃除の仕事を続けたが、今は体を壊して働けない。「私と同じような立場の人がいたら、一緒に声を上げたい」。無力感と、何かが変わることを信じたい思いが交錯する。

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 帰国した中国残留日本人への新たな生活保障などを盛った改正帰国者支援法が2008年に施行したが、その枠からこぼれ落ち、苦しい生活を余儀なくされたままの人は少なくない。地域とのつながりも乏しいままだ。第3部は、戦時下に国策で進めた満州移民が今も影を落とす帰国者の暮らしの現場をたどる。

【特集「2世の声 耳傾けたい」26面に】
[改正帰国者支援法の新支援策]
 中国残留日本人が帰国前に公的年金に加入できなかった期間などについて、国負担で保険料を追納し、満額の老齢基礎年金を受給できるようにした。世帯収入が一定基準に達しない場合、支援給付も実施。単身で生活保護を受ける世帯で当時、最大月8万円だった支援が、年金と給付金で計14万6千円となった。対象は1世のみ。また、都道府県や市区町村が行う日本語教室の経費や医療・介護の通訳派遣などを国が全額補助する。1世と、国費で1世と同伴帰国した2世が対象。