2024/03/20 信濃毎日新聞
 残留孤児訴訟が問うたもの 戦前戦後、国に「棄民の水脈」

 1月19日、東京都小金井市で市民グループが開いた音楽会。戦中の満蒙開拓と、戦後の原発政策という二つの国策の犠牲になった人たちを描いた合唱曲が披露された。

 会場に、弁護士の小野寺利孝さん(83)=東京=が招かれていた。中国残留孤児たちによる国家賠償訴訟で弁護団全国連絡会の共同代表を務めた一人。促されて壇上で話した。「棄民ということに最初に問題意識を持ったのは、残留孤児の皆さんからご相談を受けた時のことでした」

 後に原告団代表となる池田澄江さん(79)=東京=ら5人の元孤児が小野寺さんを訪ねたのは01年。既に13人の弁護士に依頼を断られていた。

 池田さんは、当初は訴訟までは想定していなかった。中国で暮らした感覚からは、国と争うことは発想し難い。老後の生活保障を求めて署名運動やデモ行進を実施。国会には2度、請願を出した。

 だが請願はともに審議未了で不採択となった。厚生労働省の対応も冷淡に感じていた。同じ頃、ハンセン病元患者が立ち上がって国の隔離政策は違法と裁判で訴え、勝訴。小泉純一郎首相(当時)が謝罪、全面解決を表明し、池田さんらを大きく勇気づけた。「裁判に訴えるしかない」
 小野寺さんは当時、中国人の強制連行など戦争被害を巡って国と争っていた。多忙を極めていたが、中国人の戦争被害の救済に取り組むのに、孤児たちの依頼を断る理由はない。国会が孤児の声を無視して動かないことに怒りも感じた。弁護を引き受けた。

 弁護団活動は、孤児一人一人の人生をじっくり聞き取ることから始めた。国の責任の所在について研究者も交えて協議。一連の政策に通底する基本姿勢は「棄民政策だ」との認識に至った。

 「私たちは3度捨てられた」。孤児たちは法廷内外で訴えた。敗戦時に国に捨てられ、長年にわたり帰国の手は差し伸べられず、帰国後も支援を十分受けられなかった―。

 結果は、神戸地裁で唯一となる勝訴。07年1月30日、小野寺さんの足元の東京地裁では主張が全て退けられ「大負け」した。判決の報告集会で、涙しながら謝った。


 だが、政治は既に動き出していた。敗訴の翌日、安倍晋三首相(当時)は孤児らを首相官邸に招き、支援を約束した。直後の国会では「日本人として尊厳を持てる生活」の実現を図るとした。

 国家主義的と評されることもある安倍元首相。小野寺さんは「『日本人としての尊厳を傷つけた』というのは、安倍さんの心情に訴えるものがあったのだろう」と分析する。政権の支持率向上への思惑もちらついた政治決着だったが、記者団に囲まれた池田さんは「昨日は地獄、今日は天国」と満面の笑みを見せた。

 訴訟による決着を目指してきた小野寺さんは、複雑な気持ちで眺めた。その後、支援内容を巡って厚労省と折衝を重ねた。訴訟では国が法的責任を認めた上で謝罪することを求めたが、そこにこだわることは、もはや難しかった。高齢の孤児たちの生活を救うには時間がない。07年夏、支援策案を受け入れた。

 1967(昭和42)年、重金属カドミウムによる安中公害訴訟などで弁護士人生をスタートした小野寺さん。今、その最後の仕事として、東京電力福島第1原発事故で古里を奪われた人たちの訴訟に取り組む。戦前戦後を通じて「日本には一貫して棄民政策が脈々と流れている」と捉える。「その水脈を暴き出して、除去しなきゃ駄目だ」
[中国残留孤児による国家賠償訴訟]
 中国から帰国した全国の元残留孤児計2211人が2002年12月の東京地裁を皮切りに全国15地裁で訴訟を起こした。原告らの苦境は国の無策によるものだとして、1人当たり3300万円の損害賠償を国に求めた。神戸地裁は勝訴した一方、大阪、東京、徳島、名古屋、広島、札幌、高知の7地裁は敗訴した。07年11月の帰国者支援法改正で残留日本人1世は満額の老齢基礎年金などを受けられるようになり、各控訴審や山形、福岡、鹿児島、岡山、長野、京都、仙台の7地裁で訴えを順次取り下げた。