2024/03/21 信濃毎日新聞
 残留1世、新支援策に支えられたが 「もっと早ければ」よぎる思い

 「良い家族に恵まれたから、今は幸せだ」。4日、長野市柳原の県営団地の一室。1人暮らしをする宮本秀夫さん(83)は、久しぶりに訪ねてきた長男の竜一さん(38)に中国語で笑顔を向けた。「そんな話はいいよ」。竜一さんは日本語ではにかんだ。

 秀夫さんは、中国残留孤児が国家賠償を求めた長野地裁の集団訴訟で原告に名を連ねた。政治決着に基づく新支援制度で満額の老齢基礎年金と支援給付を受け、現在は月約15万円の収入で暮らす。「日本と中国のはざまで生きた人生も、少しは報われた」
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 敗戦時は4歳。家族とはぐれ、養父母に育てられた。1985年の訪日調査などで身元が判明。埴科郡松代町(現長野市)出身で、生まれて間もない41(昭和16)年、埴科郷(ごう)開拓団の一員として家族で満州(現中国東北部)へ渡っていた。父は召集され、ソ連軍の対日参戦で母と兄、姉は自決したらしかった。

 養父母はかわいがってくれた。だが学校では日本人のため差別され、通えなくなった。そのせいもあり、今も読み書きが苦手だ。15歳の頃、養父母を亡くした。「大陸に独りぼっちだった」。25歳で中国人の妻と結婚、6人の子どもを授かった。黒竜江省七台河(しちだいが)市で農業を営んでいた91年、50歳で家族と帰国した。

 建設作業員として働いた。日給8千円。同じ仕事なのに他の人より金額が低かった。言葉が通じず、同僚から「ばか」と言われた。娘の学費もあって生活が苦しい中、帰国者仲間から国賠訴訟について聞き、原告団に加わった。「どうして何十年という長い間、助けてくれなかったのか」。提出書面で国に訴えた。

 同じく原告の林とし子さん(88)は千曲市八幡の市営団地で1人暮らし。58歳で帰国した。膝や腰が悪く、日本語は不自由なままで不安はあるが、デイサービスに週2日通い、家庭菜園を耕す楽しみもある。暮らしぶりは「まあまあ」と笑顔で話す。

 須坂市豊丘の市営団地に住む富沢一誠さん(82)は、中国で結婚した妻と51歳の時に帰国。訴訟の原告に加わった当時は、夫婦のアルバイト収入などで生計を立てていた。今は車を持ち、近くの温泉施設にも通える。「良かった」。訴訟を経て獲得した新支援制度に、孤児1世たちの暮らしは支えられてきた。


 ただ多くの孤児は中国の農村で厳しい暮らしを余儀なくされてきた。文化大革命(1966~76年)で日本人も弾圧され、息を潜めるように暮らしていた頃、日本は急速な経済発展を遂げていた。「日本に普通に帰れていれば、普通の日本人の暮らしができたのではないか」。宮本秀夫さんは、歩んだかもしれなかった別の人生を思う時がある。

 竜一さんは5歳の時に来日。日本の小中学校を卒業した。中国で中国語を学び、結婚後、父の住まいの近くに自宅を構えた。会社に勤め、新潟県長岡市に単身赴任中。週末に帰宅する。言葉を武器に、中国での商談もこなす。子どもの頃は両親が中国語を話すのが「恥ずかしい」と思うこともあったが、今は「必死で育ててくれた」と感謝する。

 3年前、満蒙(まんもう)開拓や残留孤児について調べ始めた。妻や子ども3人と県立歴史館(千曲市)や満蒙開拓平和記念館(下伊那郡阿智村)を訪ね、埴科郷開拓団の名簿に秀夫さんの名前も見つけた。両親の苦労と日中間の複雑な歴史が、頭の中で結び付きつつある。子どもたちの世代には双方の歴史を見つめてほしい。それが「おやじの人生を糧とする」ことだと思うからだ。

[長野地裁の中国残留孤児国家賠償訴訟]
 2002年12月の東京地裁での提訴を受け、県内でも04年1月に原告団と弁護団を結成。4月、67人が原告となり、長野地裁に提訴した。6月にはさらに12人が提訴し、原告団は計79人となった。口頭弁論では原告側証人として、残留孤児問題に詳しい作家の故井出孫六さん(佐久市出身)が移民の実態などを証言した。07年11月に新たな支援制度を盛った改正帰国者支援法が成立したことを受け、08年3月に訴えを取り下げた。