2024/03/27 信濃毎日新聞
 手を握り感謝「またお花見しよ」

 「私、80になったのよ」と言う妹に、年の離れた姉は「ふふふ」と笑った。

 満州(現中国東北部)で生まれた栗林美千枝さん(80)=埴科郡坂城町=は敗戦後、姉の五十嵐秀代さん(96)=東京都杉並区=に抱っこされて引き揚げた。16歳離れた母親のような存在。生き延びることができたのは「姉ちゃん」のおかげだ。3月中旬、体調を崩して入院中の秀代さんを見舞い、満州での感謝を伝えた。「桜が咲いたら一緒にまたお花見しよ」。秀代さんはほほ笑んだ。

 美千枝さんは1943(昭和18)年5月、満州の炭鉱の街・撫順で生まれた。父が更級郡篠ノ井町(現長野市)から満州に渡り、南満州鉄道に勤めた。両親と姉、真ん中の兄との5人で暮らした。結核にかかった秀代さんは療養のため内地に移り、篠ノ井高等女学校(現篠ノ井高校)を45年3月に卒業。戦局は思わしくなかったが、親族の反対を振り切って満州へ戻った。

 8月、ソ連が対日参戦。敗戦後、一家は新京で避難生活を送った。父の不在時にソ連兵が押し入り、身を潜めて事なきを得たり、豆を売り歩いてお金を稼いだり。だが、引き揚げの日程が決まって準備をしていた46年7月、母が疑似コレラで亡くなった。

 9月、葫蘆(ころ)島から引き揚げ船に乗った。秀代さんは背中に荷物を背負い、7歳の弟の手を引き、3歳の妹を抱っこして、父と京都・舞鶴港にたどり着いた。甲板で日本の島影が見えた時、弟と妹をしっかり抱きしめた。

 美千枝さんに満州での記憶はなく、秀代さんに会うたびに当時の話をしてもらった。母の最期のことも聞いた。8年ほど前、家族の写真を手に舞鶴湾の桟橋に立った。ここから私の人生が始まった―と思うと、涙があふれた。一方、秀代さんは妹に誘われても、舞鶴の海にはどうしても足が向かなかった。

 美千枝さんは、開拓団の苦労とは異なるが、同じ頃を満州で過ごした日本人居留民のことも知ってほしい―と、本紙連載「鍬(くわ)を握る」の取材班に手紙を寄せた。

 入院中の秀代さんは、長女美枝(よしえ)さん(73)=杉並区=が2月に面会した時はベッドに寝ていたが、今回は面会室まで出てきてもらえた。「姉ちゃんが(療養後に満州に)来て、連れてきてくれたから、私こうやっていられるんだよ」。美千枝さんは感謝を伝え、今春の花見に誘った。

 「でも生きているか分からないよ」と秀代さん。弱気な姉に「満州でも桜咲いてた?」と尋ねると、「うん、咲いてたね」と返ってきた。

 秀代さんは70歳を過ぎてから、美枝さんに背中を押され、ためらいつつも満州での体験を手記に残した。そこに「本当は、百歳まで元気に生きて、みんなを見守っていたい」と書いた。美千枝さんが「100まで行くよ」と励ますと「ふふ、どうだか」と笑顔に。美千枝さんは秀代さんに自分の子どもや孫の写真を見せ、抱きしめ、手を握った。
(井口賢太)