2024/04/03 毎日新聞

 長野県下高井郡のシンボルは「たかやしろやま」とも呼ぶ高社山(こうしゃさん)(1351メートル)だ。郡内町村は戦前、この名を掲げた「高社郷(こうしゃごう)」開拓団を組織。満州国(現中国東北部)で農業に取り組んだ。だが終戦直前、ソ連軍が攻め込み、逃避行の末に500人余りが集団自決。団員のほとんどが命を落とす最悪の結末になった。

 高社山東側の上木島村(現木島平村)が故郷の滝沢博義さん(89)は1943年3月、両親と弟妹の計5人で海を渡った。

 ソ連は45年8月8日、日本に宣戦布告し、9日に満州に侵攻。全国から27万人が入植した中、東部国境に近い高社郷にたちまち危機が迫った。「高社郷同志会」によると、水田100ヘクタール、畑830ヘクタールのほか、これらの10倍以上の山林と未墾地があった。団員は本部に集まり、銃はわずかでも土地を守り、抗しきれなければ自決を決めたが、軍の再三の命令で8キロ先の「西山部隊」へ。11日に着くと「『皆は我々が守る。安心して増産に励め』と言っていたのに、留守番が少しいるだけ。それもすぐ逃げた」と滝沢さんは話す。

 満州を守る「関東軍」はとっくに、以前から戦局が悪い南方戦線などへ兵を送ってしまい、対ソ防衛戦も満州南部の朝鮮付近まで後退。大本営は9日、「関東軍ハ皇土朝鮮ヲ保衛」と、事実上、満州の大半を放棄する命令を出した。置き去りの団員にとって、抗日武装勢力「匪賊(ひぞく)」のほか、外務省資料で「ソ軍の快速侵攻と日本軍の不戦敗走は掠奪(りゃくだつ)暴行をほしいままにする暴民の群(むれ)と化せしめた」とする一般住民も脅威だった。

 滝沢さんによると、この時の高社郷団員は579人。壮健な男性は根こそぎ召集されており、大多数は中高年か子供、女性だった。応召した団長の代わりに指揮を執った男性は12日、妻と子供2人を撃った。悲劇の始まりだ。滝沢さんは「団をまとめる責任があり、負担になると思ったのだろう」と想像する。

 ソ連から遠ざかるよう南西へ徒歩の避難が始まった。滝沢さん家族は、現地合流の長男と、現地生まれの次女を加えて7人。一団は歩きにくくても目立たない森や湿地帯を選び、雨、野宿、疲労、空腹、赤痢の症状が重なる極限状態に陥った。下高井郡の「満州開拓史」は「足手まといの罪を謝し、自決する老人も相次いだ。飢餓に頻(ひん)した愛児を涙を振(ふる)つて処置する者、恩愛の絆を断つて路傍に置き去る者。筆舌に尽(つく)し難き悲劇を繰返し」、15日の終戦も知らず逃げ惑った。

 行く手の川は、ソ連の南下を阻止する関東軍が橋を破壊していた。17日にロープを渡して越えたが、ある人は流され、ある人は川岸で自決。21日、現地住民の銃撃を受け、弾が当たった少年は前を行く父親を何度か呼んで倒れた。滝沢さんは「助けを求めたのでなく、引いていた牛の手綱を渡そうとしたと思う。当時の責任感とはそういうもの」と話す。父親は振り返らず、滝沢さんはその心中も想像する。

 23日、佐渡開拓団(新潟県)の跡地に到着した。各地の開拓団が期せずして集まり、3000人が詰めかけたとされる。その近くにソ連機が不時着し、兵を殺害した者がいた。ソ連軍が報復に来て「男は殺され、女は陵辱される」と恐れ、かといって逃げ切れないと観念。全体の気持ちが自決に傾いた。高社郷の団長代理は「生きて辱めを受けんより、死して護国の礎となろう。自信ある者は脱出を図られたい。生き永らえた者は(母町村に悲劇を)伝えてもらいたい」と訓示した。

 あるじの男性が出征している一家は団幹部が、していなければ男性が家族を「処置」することに。団長代理が最後を見届けて自決すると決めた。25日、あちこちで銃声が鳴り、遺体を集めた小屋を焼いた。

 女性団員の手記によると、井戸に子供を投げ込む親もおり、死にきれなければ上から撃った。自分が馬小屋に入ると「仲間のほとんどが自決していた」。左右に子供を座らせて後ろから団員に撃ってもらうと、女児は「ピョンと飛び上がり」、男児は「血しぶきを上げて」絶命した。自分の番の時、その団員が攻めてきたソ連軍に撃たれてしまい、自らは逃げた。ここで2000人が死亡したとも言われる。

 滝沢さんの父親は、幼児の四男と次女の下の子2人を手にかけ、体験を故郷に伝えようと、生き残る可能性が高い18歳長男と歩き出した。団員に処置を頼んでいた妻と三男で11歳の滝沢さん、7歳長女はその後ろ姿を見て後を追った。

 9月1日、親日的な現地住民に保護された後、収容所などを転々とし、福岡市の博多港に着いたのは翌46年10月3日。別行動の長男は後から引き揚げ、同21日に故郷に到着した。集団自決地から脱出した33人中、帰郷は21人という。満蒙開拓青少年義勇軍の次男は朝鮮国境付近で戦死し、同義勇軍を含め開拓団員は全体で8万人が死亡したとされる。

 中野町(現中野市)に51年、高社郷の慰霊塔が建った。「郡民精神」を「屹立(きつりつ)せる高社山を理想とし、恥を知り名を惜しむ」と刻んだ。集団自決の8月25日に毎年慰霊祭を開く。

 滝沢さんは戦後、遠洋航海などの仕事に就いた。年齢を重ね、体験を話すことが増えた。「語れなかったことをだんだん語れるようになった。生き延びた者は伝えなければならない。この年になればうそも隠し事もない」と話す。団員で健在なのは現在3人という。【去石信一】
 ◇農村疲弊、長野3万人入植
 長野県下高井郡の「満州開拓史」によると、1930年の郡内人口は約6万5000人。有職者の86%が農業で、「山林原野不毛の地が多くて耕地が少なく、人口は年々増加してくるため移殖民の問題が起こつた」。世界恐慌で生糸や米の価格が暴落し、農村が疲弊していた時期で、日本の傀儡(かいらい)、満州国が建国した32年、国策として全国から第1次開拓団が入植した。

 高社郷満蒙開拓協会長は計画書で、土地と人口問題の「調整なくんば永遠に救われざる。高社山を中心とする本郡全農家の更生する時である」と指摘。第9次で少数の入植式を開いたのは40年2月。1万ヘクタールの「沃野(よくや)のほぼ中央」で、丘のような「万金山頂より見渡せば万頃(ばんけい)の草野は茫々漠々(ぼうぼうばくばく)として地平線に連なつている」。本部から12キロ離れた所まで住居を広げ、人数は徐々に増えた。

 ただ、政府や関東軍が進めた開拓の真の目的は、満州支配強化とソ連国境警備だったとされる。予備兵力を兼ねた満蒙開拓青少年義勇軍も含め、長野県から全国断トツの3万人以上が渡った。

■写真説明 下高井郡のシンボル高社山=長野県山ノ内町で
■写真説明 畑作業をする高社郷の開拓団員=高社郷同志会の高社郷写真集より
■写真説明 滝沢博義さん