2024/04/22 信濃毎日新聞朝刊 

 山盛りの水ギョーザから湯気が上がる。切り絵や真っ赤なちょうちんで彩られた会場で、大人たちは中国語でおしゃべりに花を咲かせ、子どもたちが日本語でじゃれ合う。「おじいちゃん」と呼ばれた男性は、駆け寄ってきた子どもを抱き寄せて優しくほほ笑んだ。

 2月11日に広島市内で開かれた「春節を祝う会」。「お互いに助け合い、中日友好の架け橋を築きましょう」。主催者としてあいさつをした劉計林(67)は、「広島市中国帰国者の会」の事務局を担う。ビールを片手にテーブルを回り、仲間たちと乾杯を重ねた。

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 中国・河北省の農家に生まれた。成績は良かったが、コネがなく高校に進学できなかった。村の教師になったが「外に出たい」と、16歳で北京へ。貿易関係の職を得た。

 1986年、29歳で大阪赴任を命じられ、初めて海を渡った。日本語習得への意欲が湧き、留学を決意。いったん帰国して職場を説得した。2年の約束で「日本に残るつもりなんてなかった」。

 2度目の大阪。今度は人生を大きく変える出会いが待っていた。友人から紹介された井上栄子(60)と93年に結婚。日本で家庭を築いた。

 妻の父、慶忠(けいちゅう)は太平洋戦争後に旧満州(中国東北部)に残され、中国人の家庭で育った「残留孤児」だった。戦争末期、ソ連軍が旧満州に侵攻。混乱の中、開拓移民として入植していた日本人は逃げ惑い、多くの家族が生き別れた。

 開拓団を乗せた2台のトラック。襲いかかる中国人。生き残った自分ともう一人の誰か―。「当時、4歳か5歳」だった慶忠の記憶はおぼろげだ。家族を殺され、自分の本当の誕生日や出生地、名前も分からない。

 72年の日中国交正常化後、訪日調査で肉親を捜したが、手がかりはゼロ。身元未判明のまま86年に家族で帰国し、広島市の公営住宅に入った。

 日本語を話せず、中国の習慣になじんだ慶忠に祖国は冷たかった。仕事に就けず、生活保護で暮らすしかなかった。「日本に温かく迎えてもらえない。どうしてなのか理解できない」。そんな慶忠のそばに移り住み、窮状に衝撃を受けた劉。仕事の合間に勉強し、帰国者を訪ねて話を聞いた。


 2002年以降、国の支援が不十分だとして残留孤児らによる国家賠償訴訟が全国15地裁に波及。帰国した残留孤児の9割ほどに当たる約2200人が参加した。広島の原告団に加わった慶忠を支えようと、劉は裁判資料を読み込んだ。戦後、日本政府による「戦時死亡宣告」で孤児らの戸籍が消され、帰国の道が閉ざされたことも知った。

 原告敗訴が続いたが、一方で多くの裁判所は国の施策や対応が不十分だったことを認めた。新たな支援策を盛り込んだ法改正が実現、慶忠も満額の年金と支援給付金を受け取れるようになった。

 国の補助金で日本語教室などを開ける制度もできた。教室を運営しようと、劉は11年に支援者らとNPO法人をつくった。

 歯がゆい思いを何度もした。役所の担当者は制度も経緯も学んでいない。幹部に残留孤児を知っているかと問うと「聞いたことはある」。社会の認識の低さを実感した。

 被爆の惨禍から復興し「平和都市」をうたう広島市。だが、帰国者が多く住む公営住宅に「中国へ帰れ」と落書きをされたこともある。劉の目には「同じ戦争被害なのに、原爆の被害以外には耳を傾けない」と映る。


 15年に複数の団体が統合し「帰国者の会」ができた。会員約170人のうち残留孤児は約30人。孤立しないようにと二胡や太極拳の教室を公民館で開く。春節など中国の伝統行事も欠かさない。

 高齢になった孤児たちは、劉にとって「親のような存在」だ。日本語教室の講師を引き受け、黒板の前に立つ。時間が許せば、病院の受診に付き添い通訳を買って出る。

 「お墓は諦めた」。劉が顔を曇らせる。墓のない帰国者が入る共同墓地を造ろうと、10年ほど前から市に支援を要望してきた。長野県など全国各地に既にある。視察し、説明資料も作ったが、市は「土地も金もない」。

 義父は誕生日を祝うことさえできない。中国では「日本人」、日本では「中国人」として差別される帰国者。国策が生んだ被害は今も続く。「死ぬ時、何のために生きたのかと思うんじゃないか。だとしたら、悔しい」
 義父たちが「帰国してよかったと思えるように」と駆け回ってきたが、その言葉を彼らの口から聞いたことはまだない。

 歴史を正しく伝え、今を知る。それなくして平和は訪れない。揺らぐ日中関係の中で痛感する。

 残留孤児たちが祖国を選んだように、中国に帰る日が来るかもしれない。でも今は「みんなを放っておけない」と思う。「それが僕の人生だから」
   (敬称略、文・小作真世、写真・今里彰利)