2024/04/23 信濃毎日新聞朝刊
弱き者、さらなる苦しみ 開拓団―被差別部落出身者や朝鮮族も 「満州に行けば差別解消」国を信じ

 手描きの地図を見せながら、戦時中に満州(現中国東北部)で暮らした開拓団時代の記憶を呼び起こす。そこには、出身地域別につくった集落だけでなく、日本の被差別部落から移り住んだという人たちがいる「朝日部落」や、朝鮮族の人たちでつくる「朝鮮部落」といった集落名もある。

 「満州でも差別はあったと思う。私たちだって、国がやったこととは言え、現地の人を追い出したのだもの」。昨年12月、下伊那郡阿智村の満蒙(まんもう)開拓平和記念館。同館で語り部をしている北村栄美さん(90)=岐阜県池田町=は、平和関連の展示を行う博物館の職員らの交流会で、約40人を前に静かに振り返った。

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 下伊那郡大鹿村出身。7歳だった1941(昭和16)年、下伊那などから満州に渡った大古洞(たいこどう)下伊那郷(ごう)開拓団に家族で参加した。ハルビンから東北東へ約200キロ、松花江支流の大古洞川の両岸に広がる大草原地帯に入植した。

 一家が暮らした集落「宮野田部落」から南東へ3キロほど離れたところに、朝日部落はあった。暴徒の侵入を防ぐため、他の集落は高い土塀で囲まれているのに、朝日部落だけ塀がない。丘の上の日が当たる場所だった。12戸の宮野田部落より規模は小さく、家屋の高さが低かった。

 被差別部落の出身者がいる―と、周囲の大人たちから聞いた。「そういう人がいるから、あそこに近寄ってはいけないんだって」。聞きかじった言葉を母ますゑさんにそのまま言ったことがある。「めったなことを言うもんじゃない」「針金で口を縫うぞ」。母は真っ赤になって怒った。「二度と言うまいと思った」。今でも思い出すとビリッと体がしびれる。母は、誰かを他の人より低く扱うことに対し毅然(きぜん)とした態度を通した。

 通った学校には、朝鮮族の子どもも数人いた。勉強ができて、日本の植民地支配によって強制されていた日本語を流ちょうに話した。開拓団の子どもたちに溶け込んでいたが、けんかになると、朝鮮の子が日本人の子に手を上げることは一切なかった。

 北村さんは、誰にも分け隔てなく接した母の影響で、朝鮮の子の家に遊びに行って靴の縫い方を教えてもらったり、朝日部落の家に行って子守をしたりした。「母の生き方に助けられた」。人と人が対等に出会えるよう導いてくれたことに今も感謝している。


 満州には敗戦当時の45年、約216万人の朝鮮人がいた。155万人ほどだった内地からの日本人を大きく上回る。植民地支配によって満州へ移住せざるを得なかった人も多い。また、新天地での暮らしに一筋の光を見た被差別部落の人たちもいた。「満州に行けば差別がなくなる」とする評論が、国の力で差別解消を目指す運動の機関誌に載り、入植をあおった。

 そうした人たちも、他の開拓団員と同様に対ソ連防衛や食糧増産の役割を担った。日本がつくった傀儡(かいらい)国家「満州国」は、差別や抑圧から逃れたいという人たちの思いも利用して維持されたのか―。

 「より弱い立場の人が苦しめられるのが戦争。繰り返してはいけない」。北村さんは、当時の様子を記した地図をそっと手でなぞった。


 満州国へ渡った被差別部落の人たちを巡る証言や資料は、全国的にもほとんど残されていない。日本の植民地だった朝鮮から大勢が移ったことも、あまり顧みられてこなかった。国家の歴史の主流ではない存在として私たちは見過ごしてきたのではないか。第4部は、それらを掘り起こし、いまに生かす動きを見る。