(劇評)「時間を気にしない各駅停車の演芸ショー」小峯太郎 | かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

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本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
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#劇評2021
この文章は、2021年12月24日(金)19:30開演の演芸列車東西本線『東西本線演芸ショー』についての劇評です。

 「男は黙って背中で語る」というが、終始客席に背を向けて語り合う2人の中年男の背中は雄弁だった。ベケットの『ゴドーを待ちながら』のように、沈みゆく夕日を眺めながら語り合うだけで何かが起こるわけではない。死の病に冒されたスーツ姿の男たちが待つのはやがて訪れる自らの死。しかし、彼らの背中が語るのは死の影の怯えや離婚経験のある人生の悔恨ばかりではない。それは普段、観客に見せることのない俳優自身のリアルな悲哀であり、40代となって先が見えてきた人生へのある種の諦めと陶酔であるのかもしれない。やがてシルエットとなり闇に消えていく2人の姿は、かつて盛況だったであろう地方の演芸文化のたそがれをも強く印象づけるものだった。
 演芸列車東西本線は石川県を拠点に活動する東川清文と西本浩明によるユニット。金沢市民芸術村ドラマ工房で公演された「東西本線演芸ショー」は真面目な朗読だけでなく落語やお笑いのコント、前述の連続TVドラマ最終話風のシリアスなドラマの4篇のコンピレーションで構成され、まさしく寄席に来て悲喜こもごもの演芸バラエティを楽しむような、程よく力の抜けた味わいのある、ある意味孤独なクリスマスイブの夜に相応しい前説入れての2時半だった。
 ぼくが個人的に「吹いた」のはまずは落語「初天神」から。蜜を舌で舐めとった親父が団子を再び蜜の壺入れて団子屋から「汚いね〜」とつっこまれるシーン。舌を執拗に動かす東川の熱演が笑いを誘う。コント「干支変わり」(作:西本浩明)では、ゆるキャラ風の着ぐるみを着た丑の西本が、同じく寅の東川に、干支の変わり目に東川が体験しなければならない通過儀礼ついて説明するのだが、滝行あり火の輪くぐりありの数々のありえない苦行の具体的な持続時間の分数がおかしかった。再来年はまた寅から兎に儀礼は引き継がれる。何も知らない兎として登場する西本の出っ歯の顔芸もまた可愛かった。
 プログラムの中でも異色であり傑出していたのは横光利一原作『機械』の朗読だった。金属を化学薬品で腐食させてネームプレートを作る工場で働く私と軽部と屋敷。工場の主人の寵愛をめぐる嫉妬や産業スパイの疑惑で3人の間で殴り合いの諍いが起こり、屋敷の毒死に至る。物語の語りは「私」による1人称なのだが、その「私」は自分が屋敷を殺したかもしれないと言う。語りが物語の全貌を把握できていない不測の事態。語りの不完全性、不確実性。それが舞台では、読み手(西本:スピーカー)と動き手(LAVIT:ムーバー)の立場が入れ替わり、スピーカーの位置にムーバーが座るという形で演出される。語りと物語の関係性(主人と奴隷)が逆転したような、物語が語りを凌駕したような瞬間が見事に可視化された。
 ショーの最後では「金沢リージョナルシアターげきみる2021」のラスト公演にふさわしく、これまでの8団体の公演クレジットが映画のエンドロールのようにスクリーンに上映された。映像に合わせて流れた曲は松浦たく作詞・作曲の「東西本線のテーマ」。サビの「がたんごとん」のリフレンが頭に残る素敵な歌だった。この曲のように、2時間半の各駅停車の電車に揺られながら気ままな旅に出る。その先々で出会いがあり笑いもあればホロリと涙することもある。そんな旅のような体験の舞台を作ることこそ、東西本線の2人が本当にやりたいことなのだろうとあらためて納得し少し胸が熱くなった。

小峯太郎(劇評講座受講生)