(劇評・11/23更新)「演者の持つ武器をもっと活かせるはず」大場さやか | かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

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この文章は、2022年11月12日(土)19:00開演のAgクルー『奇譚回廊』についての劇評です。

Ag(エージー)クルーは50歳以上の演者からなる、シニア世代の演劇集団だ。これまでに朗読やリーディング、演劇公演を行ってきている。その内容は、シニア世代であることを活かした落ち着きのある作品選定が多いと筆者は感じていた。だが、今回の舞台は、Agクルーの特徴である「演者が歳と経験を積み重ねている」という利点を活かしきれていないように思われた。

今回の公演は、3作の朗読と1作の芝居からなる。演出は高田伸一。朗読作品は上演順に、夢野久作『人の顔』(初出1928年)、江國香織『冬の日、防衛庁にて』(初出1993年『温かなお皿』)、今井雅子『膝枕』(2021年noteにて発表)。芝居は、劇団員である牛村幸子の作による『変若水(おちみず)』だ。チラシには「不思議な、あやしい、ありそうにない話。しかし、どこかあなたの近くで起こっているかもしれない物語たち」とある。

舞台には上手から、黒っぽい柄のテーブルクロスをかけた丸テーブル、長方形テーブル、アイボリーに柄のあるテーブルクロスをかけた丸テーブルが置かれ、テーブルの周りには木のスツールが、全部で7個ほどある。劇団員はテーブルについて読む者もあり、スツールを時折移動しながら読んだりする者もあった。

まずは『人の顔』である。物静かだが、時折見せる表情や発言によって利発な印象を与える幼い娘、チエ子と、その父母が登場する。母と共に出かけた時、その後、父と出かけた時、チエ子は街の中に不思議な顔を見る。奇妙な言動で父母を翻弄する、チエ子の醸し出すあやしげな雰囲気が印象に残った。

2作目は『冬の日、防衛庁にて』。女性が、恋人の妻に呼び出され、会いに行く。2人はイタリアンレストランで食事をし、会話をする、それだけなのだが、恋人の妻と別れた後、なぜか女性は涙する。妻が女性に対して怒ったり泣いたりしたわけではないのに、その結果となったことを、不思議な話と捉えているのだと察する。だが、はたしてこの話は「奇譚」だろうかと疑問に思った。初期の江國作品は、人の心の動きを柔らかく描いている印象が筆者にはある。朗読として初めて聴いたこの作品も、そのような雰囲気で語られるもののように感じた。

そして朗読のラストは『膝枕』だ。男の家に宅配便で「箱入り娘の膝枕」が送られてくるのである。膝枕は人工知能を搭載しており、男の言動に箱入り娘らしく反応して動く。まるで誰かの妄想が、それも秘めておきたい方向性の物が舞台上に現れており、これは聴いていてもいいのだろうかと思ったほどだった。そのような情景を観客にありありと想像させたという点において、朗読作品として強い力を発する物となっていた。

変若水とは、日本神話に登場する神、ツクヨミが持っていたとされる、若返りの薬だ。芝居『変若水(おちみず)』の物語世界では、「変若水α」という薬が研究開発されている。その治験者として、ノナカとセト、2人の女性が選ばれた。研究員のヤマダが2人に治験の説明をする。「変若水α」の効能は、不老長寿である。治験者になるにあたって、いくつかの制約が2人には求められる。行動は監視される。妊娠出産はできない、など。だが、2人の生活は一生涯、研究所によって保障される。

なぜ、彼女達は不老長寿の薬を求めたのか。その理由は語られるものの、未知の薬を飲んでまで願いを叶えたい、という切実さの表明には足りない気がした。不老長寿を願い、そのために治験に応募し、激戦をくぐり抜けて治験者に選ばれる。そして、治験には様々なリスクが伴うことを聞かされる。この間の心の動きの表現がもっとなされてもよかっただろう。自身が老いていくことについての様々な思いは、歳を重ねたメンバーであれば身に染みて実感しているはずだ。自分達の経験をより多く脚本に織り込み、歳を取ることの苦悩を台詞や演技に乗せることもできるのではないか。そうすることで、不老長寿というモチーフをさらに深く、観客に感じさせることができたのではないか。そこが、筆者がこの公演中、最も惜しく感じた点だ。

歳を重ねているからこそ、身に付けられる知識や身体感覚がある。それらを含んだ体から醸し出される雰囲気は、若い役者にはまだ持つことができないものだ。この一朝一夕には身に付かない武器を、積極的に使っていってほしい。演劇を通じて生を楽しみ、自己表現している姿を見せてほしい。

だが、この筆者の希望は、演者達の希望とは異なっているのかもしれない。普段の自分とは全く違う誰かになれることや、現実とは違う世界を構築してみせることも、演劇が持つ可能性の一つだからだ。演者達がそれを願い、自分が演じてみたいと思える作品を持ち寄ったのが今回の公演である、というのであれば納得がいく。4作が並ぶことに、「不思議な、あやしい、ありそうもない話」という共通項以外の意味が隠されているのではと勘ぐったものの、筆者にはそれを見つけることができなかった。発表する作品に何らかの関連があったならば、「奇譚回廊」としての大きなまとまりが生まれただろう。


(以下は更新前の文章です)


Ag(エージー)クルーは50歳以上の演者からなる、シニア世代の演劇集団だ。最初に結論を述べる。今回の舞台は、Agクルーの特徴である「演者が歳と経験を積み重ねている」という利点を活かしきれていないように感じられた。

今回の公演は、3作の朗読と1作の芝居からなる。演出は高田伸一。朗読作品は上演順に、夢野久作『人の顔』、江國香織『冬の日、防衛庁にて』、今井雅子『膝枕』。芝居は、劇団員である牛村幸子の作による『変若水(おちみず)』だ。チラシには「不思議な、あやしい、ありそうにない話。しかし、どこかあなたの近くで起こっているかもしれない物語たち」とある。

舞台には上手から、黒っぽい柄のテーブルクロスをかけた丸テーブル、長方形テーブル、アイボリーに柄のあるテーブルクロスをかけた丸テーブルが置かれ、テーブルの周りには木のスツールが、全部で7個ほどある。

まずは『人の顔』である。物静かだが、時折見せる表情や発言によって利発な印象を与える幼い娘、チエ子と、その父母が登場する。母と共に出かけた時、その後、父と出かけた時、チエ子は街の中に不思議な顔を見る。奇妙な言動で父母を翻弄する、チエ子の醸し出すあやしげな雰囲気が印象に残った。

2作目は『冬の日、防衛庁にて』。女性が、恋人の妻に呼び出され、会いに行く。2人はイタリアンレストランで食事をし、会話をする、それだけなのだが、恋人の妻と別れた後、なぜか女性は涙する。妻が女性に対して怒ったり泣いたりしたわけではないのに、その結果となったことを、不思議な話と捉えているのだと察する。だが、はたしてこの話は「奇譚」だろうかと疑問に思った。初期の江國作品は、人の心の動きを柔らかく描いている印象が筆者にはある。朗読として初めて聴いたこの作品も、そのような雰囲気で語られるもののように感じた。

そして朗読のラストは『膝枕』だ。男の家に宅配便で「箱入り娘の膝枕」が送られてくるのである。膝枕は人工知能を搭載しており、男の言動に箱入り娘らしく反応して動く。まるで誰かの妄想が、それも秘めておきたい方向性の物が舞台上に現れており、これは聴いていてもいいのだろうかと思ったほどだった。そのような情景を観客にありありと想像させたという点において、朗読作品として強い力を発する物となっていた。

変若水とは、日本神話に登場する神、ツクヨミが持っていたとされる、若返りの薬だ。芝居『変若水(おちみず)』の物語世界では、「変若水α」という薬が研究開発されている。その治験者として、ノナカとセト、2人の女性が選ばれた。研究員のヤマダが2人に治験の説明をする。「変若水α」の効能は、不老長寿である。治験者になるにあたって、いくつかの制約が2人には求められる。行動は監視される。妊娠出産はできない、など。だが、2人の生活は一生涯、研究所によって保障される。

なぜ、彼女達は不老長寿の薬を求めたのか。その理由は語られるものの、未知の薬を飲んでまで願いを叶えたい、という切実さの表明には足りない気がした。不老長寿を願い、そのために治験に応募し、激戦をくぐり抜けて治験者に選ばれる。そして、治験には様々なリスクが伴うことを聞かされる。この間の心の動きの表現がもっとなされてもよかっただろう。自身が老いていくことについての様々な思いは、歳を重ねたメンバーであれば身に染みて実感しているはずだ。自分達の経験をもっと脚本に織り込み、歳を取ることの苦悩を台詞や演技に乗せることもできるのではないか。そうすることで、不老長寿というモチーフをより深く、観客に感じさせることができたのではないか。そこが、筆者がこの公演中、最も惜しく感じた点だ。

歳を重ねているからこそ、身に付けられる知識や身体感覚がある。それらを含んだ体から醸し出される雰囲気は、若い役者にはまだ持つことができないものだ。この一朝一夕には身に付かない武器を、積極的に使っていってほしい。人生の先輩として、演劇を通じて生を楽しみ、自己表現している姿を見せてほしい。

だが、この筆者の希望は、演者達の希望とは異なっているのかもしれない。普段の自分とは全く違う誰かになれることや、現実とは違う世界を構築してみせることも、演劇が持つ可能性の一つだからだ。演者達がそれを願い、自分が演じてみたいと思える作品を持ち寄ったのが今回の公演である、というのであれば納得がいく。4作が並ぶことに、「不思議な、あやしい、ありそうもない話」という共通項以外の意味が隠されているのではと勘ぐったものの、筆者にはそれを見つけることができなかった。発表する作品に何らかの関連があったならば、「奇譚回廊」としての大きなまとまりが生まれただろう。