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かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
劇評を書くメンバーは関連事業である劇評講座の受講生で、本名または固定ハンドルで投稿します。

かなざわリージョナルシアター「げきみる」2週目の参加団体は、星稜高校演劇部+星の劇団であった。星稜高校演劇部は、1年生と2年生合わせて約40名もの部員を抱える、大所帯の演劇部である。星の劇団は、星稜高校演劇部出身者からなる団体で、今公演が正式な旗揚げとなるそうだ。

まずは星稜高校演劇部の作品『Show the umbrella』(作:池端明日美、演出:酒井陽、吉川真広)から上演された。舞台には、大きな長方形の白い枠がある。このセットにはキャスターが付いていて動かすことができる。上演中、演者達によって何度か向きを変えられていた。長方形の長辺の上手側には棚が、下手側には長いテーブルが備えつけられている。

そこに先生(酒井陽)と、生徒(西岡花)がやってくる。生徒は赤点の常習者らしく、追試に備えて先生に勉強を見てもらっている。教科は世界史。生徒は、なぜ外国の歴史なんか学ばなければならないのだとぼやく。そのぼやきに対して先生は、歴史を学ぶことの重要性を説いていく。

先生は「庶民」の力について生徒に話し始める。庶民が歴史を変えてきたのだと。権力者に抵抗した庶民の力の大きさを彼は語る。話はインド、そしてローマ、中国へと移る。生徒は先生の説明で歴史を垣間見ていく。それぞれの国で起きた歴史の一部分を、大勢のキャストがテンポ良く演じる。それを観る観客も、生徒と共に歴史に触れることができるように作られている。

先生の指導の甲斐あってか、生徒は歴史への興味を深めていく。そんな折、準備室に不審な人物が現れるようになる。先生は、国に不都合な情報を発信していると疑われていたのだ。やがて連れ去られてしまう先生。彼を取り戻そうと、生徒たちは集う。その手に傘を持って。

この話の舞台は日本であろうという思い込みに、徐々に疑問符が付けられていく。小出しにされる情報に翻弄されながらも、そこがどこであるかに気付く頃、物語はラストシーンを迎える。生徒達が国の弾圧に抵抗して集う姿は、香港で起こった雨傘革命をモチーフとしたものだ。政治に関するテーマを高校生が扱うことに、危うさを感じもした。それが押しつけのものではないのか、危惧してしまったのだ。だが、政治とはどこか遠い世界の話ではない。生活のそばにいつだって政治はある。誰もが、もちろん高校生だって、無関係ではいられない。今回の芝居を演じるにあたって、高校生達は事件についてよく考えたことであろう。大勢の生徒達の手によって、舞台いっぱいに広げられた傘が印象的だった。

演劇部の上演が終わり、20分間の休憩の間に、舞台の転換がなされる。白枠の長方形のセットは、長辺の方が観客側に向けられた。棚とテーブルの上の備品を入れ替え、テーブルのそばに4脚のスツールが置かれる。下手には丸テーブルが2つ設置された。

星の劇団『Who label the rums』は、バーを舞台にした会話劇であった(作:池端明日美、演出:星の劇団)。バーテンダー(齊藤真之介)は本を読んでいる。そんな彼にウェイトレス(松本梨留)は店の準備を促す。やがて常連の記者(米山綾杜)がやってくる。そこに、観光客達を連れて、ガイド(儘田奈由多)が到着する。

彼ら4人の会話から、この店にはかつてヘミングウェイが立ち寄り、モヒートを飲んでいた、という歴史があると明らかになる。舞台はハバナ。バーテンダーと記者とウェイトレスは現地の人間だが、ガイドも大学時代をバーテンダーと共にしていたことが判明する。彼女はただのガイドではなさそうだ。そして記者も。ウェイトレスはお金を貯めて外国に行きたいという。外国に憧れる気持ちを持つ者がいて、自国の未来について考える記者がいて、自国と他国の関わりを作り出しているガイドがいて、自国で静かに留まっていたいバーテンダーがいる。

様々な要素が次から次へと現れ、一体この話は何を書こうとしているのかを懸命に追っているうちに、物語は、バーテンダーによるヘミングウェイの『老人と海』の朗読で終わった。彼らから何か声高な主張がなされたわけではない。先に上演された『Show the umbrella』との関わりで読み解くならば、歴史や自国についての思いが共通項として挙げられる。離れた二つの国の関連は見出せなかったが、いつの時代も、国をめぐる策略は進み、歴史は変わっていく、ということなのか。

2作の脚本は演劇部の顧問によるものだ。しかし、伝聞だが、演劇部では、まず生徒にどんな作品を作りたいか聞いてから、脚本が作成されるそうだ。生徒にとって身近な、自分の周りだけのことではなく、広く世界に、遠い歴史に目を向ける。そこから得た知識や思いを芝居にする。誰かに何かを届ける創作を行うことが、高校演劇の目的の一つでもあるが、その何かについて追求し、自己の中での理解を深めていくのもまた、高校演劇の目的ではないか。今回の題材に挑んだ生徒達に、歴史は多くのことを語りかけただろう。
この文章は、2022年12月3日(土)18:00開演の劇団血パンダ『冬の練習問題』についての劇評です。

「観測所」と呼ばれる施設で働く8人のスタッフが登場する。物資は本土から船で運ばれてくる。場所の描写はそれだけだ。あとは観客の想像力しだいだ。

劇場は、げきみるではおなじみのドラマ工房だが、普段活動の拠点を富山に置く劇団血パンダによって、いつもと少し違う空間の使われ方をしていた。普段はバックステージとなったり、客席の裏側になったりして見えない部分を、まるでしつらえたセットのように使用。劇場の階段を使うことで劇中の施設全体の大きさをイメージしやすくなった。柱は普段は視界を遮る邪魔な存在でしかなかったが、舞台と客席の境界として生きていた。もともとの劇場の広さの半分かそれ以下のスペースを主なアクティングエリアとしていたが、客席を舞台を三方から囲む形にして余った空間を感じさせない工夫がされていた。

劇団血パンダ『冬の練習問題』で描かれていたのは観測所の日常だ。8人の登場人物は一見ごく普通の人たちで、特に奇抜な行動をする人はいない。作業服のスタッフがいるかと思うと、普段着のスタッフもいる。普段着のスタッフの中には勤務時間外だと思われるものもいる。シェフもいるので食事もすべてこの施設の中で用意されているようだ。会話の中には特に事件はなく盛り上がりもなく、いつものメンバーでいつものように会話がつながっていく。

平坦な日常が続く観測所にこの日問題が起こる。施設内の設備から異音が発生したのだ。観測データを取っていたスタッフは、観測対象にも異常があることを伝えてくる。異音が何なのかはわからない。観客には観測対象もはっきりとわからない。12年前にも同じようなことが起こっていて、観測所の判断として、全員避難することになる。避難するのは明日だ。緊急事態であるはずなのに、スタッフの間ではそれまでと変わらないテンションで日常会話が続く。テンションは変わらないが過去に後悔した出来事を告白したり、避難することで使えなくなる生鮮食品を調理したり、行動は非日常だ。緊急事態での落ち着きは、もしかすると「まだ大丈夫」「今回は大丈夫」といった正常性バイアスが掛かっているのかもしれない。

気になるのは12年前にも同じようなことが起こったということだ。現実世界で考えてみると、東日本大震災から来年で丸12年だ。震災によって原子力発電所が危険な施設になりうると、誰の目にも明らかになったときだ。この観測所は、危険な施設になりうるものなのだろう。本土からは離れていて、常に何かを観測をし、異常があれば全員退避をしなければならない施設。しかし、そこに働く人だけが避難すればよいのだとすれば、いま、私たちが住んでいるこの地域より人的被害が出ることは少ないのかもしれない。夫の実家に行くときは原子力発電所の近くを通る。海と山に囲まれていて、人口が少ない地域だ。滞在中に事故が起これば自宅には帰れない。この観測所のように「本土」から隔離された状態になるだろうというイメージはずっと持っていた。

具体的に何もわからない観測所での出来事は、見る人にとって違う物語になる。観測所は原子力関連の施設だと捉えた私は、観測しているのはゴジラ的なものかもしれないと一瞬思った。イメージするゴジラは古い白黒映像のもので、そのゴジラは放射能によって生まれた怪獣であるという知識がうっすらあったからだ(Wikipediaによると1954年ビキニ環礁の水爆実験で飛散した放射能により生まれた怪獣とある)。この作品の中で、何を観測しているのかわからなかったが、観測することで危険が回避できるなら、科学が人の安全を守ることになるのだろうか。隔離しなければいけない施設はそもそも人の安全を脅かしているのだろうか。忘れかけていた不安を思い起こし、改めて人が安全に生きることについて考えた。


(以下は更新前の文章です)



「観測所」と呼ばれる施設で働く8人のスタッフが登場する。物資は本土から船で運ばれてくる。場所の描写はそれだけだ。あとは観客の想像力しだいだ。

劇場は、げきみるではおなじみのドラマ工房だが、普段活動の拠点を富山に置く劇団血パンダによって、いつもと少し違う空間の使われ方をしていた。
今回のアクティングエリアは入り口近くでこぢんまりと作られていた。あまり大きくない正方形に近いテーブルは、一つの辺に一人座るのがやっとの大きさだ。テーブルのまわりにあまり多くのスペースはとっていない。
手前にはドラマ工房の柱と柱を結ぶ空間が、演者と観客を区切っているようだった。
奥は壁で、階段は右の上階から直接この部屋につながっている。
柱も壁も階段も、ドラマ工房にもともとある構造を利用したものだ。
客席はアクティングエリアから見て正面と左右に階段状で3段ほどの高さで設置されていた。左の客席の後ろは使われていなかった。明かりもなかったので暗い空間となっていた。
ただ、入り口からみて対角線上の位置にある2階部分はアクティングエリアの一つになっていた。

描かれていたのは観測所の日常だ。8人の登場人物は一見ごく普通の人たちで、特に奇抜な行動をする人はいない。
作業服のスタッフがいるかと思うと、普段着のスタッフもいる。
普段着のスタッフの中には勤務時間外だと思われるものもいる。
シェフもいるので食事もすべてこの施設の中で用意されているようだ。
会話の中には特に事件はなく盛り上がりもなく、いつものメンバーでいつものように会話がつながっていく。

観劇した日にはアフタートークがあって、劇団血パンダ団長でこの『冬の練習問題』の作・演出をつとめる仲悟志の話を聞くことができた。彼は平田オリザや岩松了などに影響を受け、静かな演劇の手法を取り入れているという。
セリフの発し方が意図的なのは伝わってきていた。
ただ、彼の言う日常の熱量での会話ってなんだろう。
その場にいる人間がみんな同じようなテンションで話す様子に違和感があった。
少なくとも私の日常の会話とはだいぶ様子が違うからだ。基本的にテンションが高くてうるさいので、少しは見習ったほうがいいかもしれない。ただ、あのローテンションで、あの長い会話を続けるのは、私にとってそれなりのエネルギーが要りそうだ。

平坦な日常が続く観測所にこの日問題が起こる。施設内の設備から異音が発生したのだ。
観測データを取っていたスタッフは、観測対象にも異常があることを伝えてくる。
異音が何なのかはわからない。観測対象もはっきりとわからない。
12年前にも同じようなことが起こっていて、観測所の判断として、全員避難することになる。
避難するのは明日だ。
緊急事態であるはずなのに、スタッフの間ではそれまでと変わらないテンションで日常会話が続く。
テンションは変わらないが過去に後悔した出来事を告白したり、避難することで使えなくなる生鮮食品を調理したり、行動は非日常だ。
緊急事態での落ち着きは、もしかすると平常バイアスが掛かっているのかもしれない。

気になるのは12年前にも同じようなことが起こったということだ。
現実世界で考えてみると、東日本大震災から来年で丸12年だ。震災によって原子力発電所が危険な施設になりうると、だれの目にも明らかになったときだ。
この観測所は、危険な施設になりうるものなのだろう。本土からは離れていて、常に何かを観測をし、異常があれば全員退避をしなければならない施設。
しかし、そこに働く人だけが避難すればよいのだとすれば、いま、私たちが住んでいるこの地域より人的被害が出ることは少ないかもしれない。
夫の実家に行くときは原子力発電所の近くを通る。海と山に囲まれていて、人口が少ない地域だ。滞在中に事故が起これば家には帰れない。この観測所のように「本土」から隔離された状態になるだろうとイメージをしていた。

どれもこれも具体的にわからない観測所での出来事は、見る人にとって違う物語になる。
観測しているのはゴジラ的なものかもしれないと一瞬思ったが、その理由は観測所が原子力関連の施設だと思ったからだ。どうしても原子力発電所と絡めたイメージしかわかない。
できるならもっとファンタジー的に捕らえてもっと楽しみたかった。
自分の想像力ではゴジラが限界だった。

この文章は、2022年12月3日(土)18:00開演の劇団血パンダ『冬の練習問題』についての劇評です。

何かを不意に思い出す事がある。その「何か」は、過去に自分に起きたことなのか、誰かに聞いたことなのか、それすらもわからない。だけど覚えていた。劇団血パンダの団長、仲悟志は、血パンダの作品がそのように人の印象に残ることを望んでいる、と言う。仲は『冬の練習問題』(作・演出:仲悟志)12月3日公演のアフタートークでそう語った。

劇団血パンダは富山県を中心に活動する劇団である。今回は、かなざわリージョナルシアター2022「げきみる」への初参加だが、これまでの「げきみる」に参加してきた金沢の劇団が持つことのできない空気感を作り出せている劇団だと、観劇して感じた。その空気感の理由としては、アフタートークによれば、仲や一部の団員が、平田オリザに代表される「静かな演劇」に影響を受けていることが挙げられるだろう。静かな演劇の潮流は、金沢にはあまり流れ込んでいなかったように思われる。大阪での演劇経験を持つ仲は、その流れを体感しているのだろう。

そして静かな演劇の影響に加えて、仲のこれまでの社会経験が、血パンダの個性を際立たせているのではないかと私は感じた。当日パンフレットには前口上として、仲が20代の頃に出会った人物が、後に死刑囚となった話が書かれている。仲は彼について「何が変わったのか、最初からそうだったのか、因子はあったのか」と書く。そして「生きていて、不意に入ってしまう筋金は存在する」と書き、自身にもそのような変化があったと続ける。その「不意」を意図的に起こせないかという実験を、仲は行なっているのではないか。

『冬の練習問題』の舞台は、会場であるドラマ工房の広い空間を使うのではなく、隅のほうにある柱の間に設けられていた。柱の背後には階段がある。床にいくつかのスツール、背のある椅子、机が置かれているだけのシンプルな舞台装置だ。観客席は舞台を囲むように3方向から作られている。

階段から、作業服を着た男性(過去を振り返る男:石川雄二)が降りてくる。彼はスツールに腰掛ける。しばらくして階段からは、ジャケットを着た男性(何かを見て何かを考える男:金澤一彦)が降りてきて、作業服の男性に話し掛ける。彼は何かを目撃したようだが、それが何なのかはっきりわかる会話はなされない。2人が去った後、女性(なにかを見直している女:加美晴香)が本を持って降りてくる。続いて別の女性(考えた事を伝えられない女:長澤泰子)も来る。1人目の女性が持っていた本は数学の参考書で、趣味としてやっているのだと言う。コーヒーを持ってきた男性(変わらない男:小柴巧)も加わり、会話は続く。彼らは趣味を持つことなど、同じ話題について話すのだが、その会話はそれぞれに微妙なずれを伴っているように感じられる。

会話中に、ごうごうと音が響き始める。何か事故だろうかと彼らが心配していると、拡声器で男性(事実を受け入れていく男:二上満)の声が流れる。緊急事態らしい。どうやらここは観測所で、ジャケットを着た男性が所長のようだ。所長と、作業服の男性、そして職場を共にしているらしき他の男性達(思いついたことを組み合わせる男:山﨑広介、見ている男:片山翼)もやってきて、彼らはそれぞれがやるべきことのために動きだす。音は収まったり、また大きくなったり変化している。しかし、緊急事態のはずだが、彼らは非常食用のスープの試飲をしたりもする。彼らは一体、そこで何をしており、今、何に備えなければならないのか。それは会話から少しずつ聞き取っていく他ない。じっと耳をそばだて続けるが、彼らの会話にわかりやすいヒントなどなく、また前述したように、会話は続けるうちにずれていってしまう。

その「ずれ」の中でも、スープの試飲をしている場面で、会話がどこに向かっているのかのわかりづらさが印象に残った。オニオンスープの味を女性(長澤泰子)は「寸止め」と評した。しかし、タマネギをこれ以上炒めると甘くなり過ぎてしまうため、このスープはこの味でちょうどいい。なのになぜ自分が「寸止め」と感じたかが女性は気になって仕方ないのだ。その場に居合わせた人達は、彼女の思考を助けようとしてか説明を重ねるが、彼女の納得には至らない。話せば話すほど遠くへ行ってしまっているかのような状況に、少しのいら立ちを覚えもしたが、実際、他者との会話とはこんなふうに行われているのではないだろうか。そして、そのどこへ行くか予想もつかない会話の中にあった些細な一言が、頭に残っていたりする。なんでこれが、と思うものほど、急に記憶に蘇ってくる。公演中に流れていた音のように、去ったかと思えば、また存在を大きくする。

彼らは、12年前に起きた「何か」に似たものと、再び対峙しているようである。会話の中ではっきりとは示されなかったが、私はその「何か」の動きが、鳴ったり止んだりする音として表現されていると推測した。それは自然災害のように思えたが、具体的に何なのかは明らかにはされない。はっきりとこれだとわかってしまうと、納得して忘れてしまう。わからないからこそ、どこかにひっかかる。そのわからなさが不意に蘇ってきたとき、気になって思考が始まる。動き出してしまえば、その前の自分がいた位置からは、少しだけずれてしまうだろう。その動きを観客の内側に起こすことが、仲の意図するところなのではないか。微妙な会話のずれを積み重ねて、その実験は緻密に構成されていた。


(以下は更新前の文章です)


何かを不意に思い出す事がある。その「何か」は、過去に自分に起きたことなのか、それとも誰かに聞いたことなのか、それすらもわからない。だけど覚えていた。劇団血パンダの団長、仲悟志は、血パンダの作品が、そのように人の印象に残ることを望んでいる。これは『冬の練習問題』(作・演出:仲悟志)12月3日公演のアフタートークで聴いた話だ。

劇団血パンダは富山県を中心に活動する劇団である。今回は、かなざわリージョナルシアター2022「げきみる」への参加となったわけだが、血パンダは、これまでの「げきみる」に参加してきた金沢の劇団が、持つことのできない空気感を作り出せている劇団だと、観劇して感じた。

その空気感の理由としては、仲や団員が、平田オリザに代表される「静かな演劇」に影響を受けていることが挙げられるだろう。静かな演劇の潮流は、金沢にはあまり流れ込んでいなかったように思われる。大阪での演劇経験を持つ仲だから、その流れを体感しているのだろう。

そして静かな演劇の影響に加えて、仲のこれまでの社会経験が、彼らの個性を際立たせているのではないかと私は感じた。当日パンフレットには前口上として、仲が20代の頃に出会った人物が、後に死刑囚となった話が書かれている。仲は彼について「何が変わったのか、最初からそうだったのか、因子はあったのか」と書く。そして「生きていて、不意に入ってしまう筋金は存在する」と書き、自身にもそのような変化があったと続ける。その「不意」を仲は、意図的に起こせないかの実験を行っているのではないか。

『冬の練習問題』の舞台は、会場であるドラマ工房にある4本の柱の間に設けられていた。柱の背後には階段がある。床に置かれているのは5つのスツール、背のある椅子と机、そしてもう1脚、背のある椅子。観客席は舞台を囲むように3方向から作られている。

階段から、作業服を着た男性(過去を振り返る男:石川雄二)が降りてくる。彼はスツールに腰掛ける。しばらくして階段からは、スーツ姿の男性(何かを見て何かを考える男:金澤一彦)が降りてきて、作業服の男性に話し掛ける。どうやらスーツ姿の男性は何かを目撃したようだが、それが何なのかはっきりわかる会話はなされない。2人が去った後、女性(なにかを見直している女:加美晴香)が本を持って降りてくる。続いて別の女性(考えた事を伝えられない女:長澤泰子)も来る。女性が持っていた本は数学の参考書で、趣味としてやっているのだとういう。コーヒーを持ってきた男性(変わらない男:小柴巧)も加わり、会話は続く。彼らは共通項について話しているのだが、その会話は、それぞれに微妙なずれを伴っているように感じられる。

会話中に、ごうごうと音が響き始める。何か事故だろうかと彼らが心配していると、拡声器で男性(事実を受け入れていく男:二上満)の声が流れる。緊急事態のようだ。スーツ姿の男性、所長や、作業服の男性、そして職場を共にしているらしき他の男性達(思いついたことを組み合わせる男:山﨑広介、見ている男:片山翼)もやってきて、彼らはそれぞれがやることのために動きだす。音は収まったり、大きくなったり変化している。しかし、緊急事態のはずだが、彼らは非常食用のスープの試飲をしたりもする。彼らは一体、そこで何をしており、今、何に備えなければならないのか。それは会話から少しずつ聞き取っていく他ない。じっと耳をそばだて続けるが、彼らの会話にわかりやすいヒントなどなく、また前述したように、会話は続けるうちにずれていってしまう。

その「ずれ」の中でも、スープの試飲をしている場面の会話の、どこに向かっているのかのわかりづらさが印象に残った。オニオンスープの味を女性(長澤泰子)は「寸止め」と評した。しかし、タマネギをこれ以上炒めると甘くなり過ぎてしまうため、このスープはこの味でちょうどいい。なのになぜ自分が「寸止め」と感じたかが女性は気になって仕方ないのだ。その場に居合わせた人達は、彼女の思考を助けようとしてか言葉を掛けるが、彼女の納得には至らない。話せば話すほど遠くへ行ってしまっているかのような状況に、少しのいら立ちを覚えもしたが、実際、他者との会話とはこんなふうに行われているのではないだろうか。そして、そのどこへ行くか予想もつかない会話の中にあった些細な一言が、頭に残っていたりするのだ。なんでこれが、と思うものほど、急に記憶に蘇ってくる。公演中に流れていた音のように、去ったかと思えば、また存在を大きくする。

彼らは、12年前に起きた何かに似たものと、再び対峙しているようである。それが何なのかは最後まで明らかにはされない。はっきりとこれだとわかってしまうと、納得して忘れてしまう。わからないからこそ、どこかにひっかかる。そのわからなさがふいに蘇ってきたとき、わからなさが気になって思考が始まる。動き出してしまえば、その前の自分がいた位置からは、少しだけずれてしまうだろう。その動きを誰かの内側に起こすことが、仲の意図するところなのではないか。
この文章は、2022年11月26日(土)19:00開演の演劇ユニット浪漫好-Romance-『なにもん芝居』についての劇評です。

演劇ユニット浪漫好-Romance-の『なにもん芝居』(脚本・演出:高田滉己)は、3作の短編からなる芝居だった。「一体、何者(なにもん)?」と思わせる、人ではない者が出てくることが3作の共通項である。当日パンフレットでの演出家の挨拶によると、それぞれ独立した話で、ストーリー同士に関連性はない。まず、スクリーンにはオープニング映像が流れる。派手な色彩にポップな効果を使って賑やかに、キャストやスタッフを紹介していく。

芝居の上演の最初は『人生保険』。上手から男性(平田涉一郎)が登場するや否や衝撃音がして、どうやら彼は事故に遭って死んでしまったようである。そのことを即座に理解した彼は、そこにいる白い服装に羽根が生えた2人組(岡島大輝、志田絢音)も天使であるとすぐに理解する。天使達は保険の外交員で、次の人生に向けて保険を掛けておくように男性に勧める。交通事故に遭わない、お金に困らない、モテる、なんでも大丈夫だ。ただしその対価として本人の来世の寿命が必要となる。それなら保険はいらないと言う男性を、今度は別の天使達(室木翔斗、柳原成寿)が現れて引き止める。天使は、人が契約した対価の寿命で生きているため、契約させようと必死なのだ。やがて彼ら4人は男性そっちのけで「もしもあなたが勇者だったら」の世界を演じ始める。

天使達のドタバタ劇の最中、男性は、平凡な人生でいい、保険なんかいらないと嘆いた。この人生観のようなものをもっと話の中に取り入れてほしいと感じた。ドタバタコメディであるからこそ、現実味のある設定が垣間見えることで、より話を受け取りやすくなるのではないか。

2作目は『化かし化かされ』。占い館を営むのは狐(山根宝華)。心が見える木の葉の術を使って人を騙し、金を得ている。占いにやってきた一人の女性(山崎真優)。彼女は何かおかしいと、狐は勘づく。実は彼女も狐、しかも稲荷神社の使いの狐だったのだ。

2人の狐はそれぞれ、人間世界に憧れ、その中に飛び込んではみたものの、人間に裏切られている。そんな2人が復讐のために手を取り助け合う話、ではなかった。2人はタイトル通り、化かし合いを展開する。同じように人間に傷付けられた同士でも、それぞれに思うところがあり、簡単に連帯には至らないという結末が少々寂しくもあった。だが、それが彼女達のたくましさなのかもしれない。

最後は『泣く子はいねぇか』である。赤(小石川武仁)と青(岡島大輝)のなまはげが、子どもを泣かそうと、ある家にやってくる。ところが、その家では、夫(室木翔斗)と妻(横川正枝)が離婚を巡って争っていた。夫婦に邪険に扱われるなまはげ2人。それでも彼らから集金をせねばと再挑戦すると、その物音に気が付いたのか、部屋に子ども(山根宝華)が現れる。奮闘するも彼らは、子どもに笑われてしまう。だが、喧嘩してばかりで気に留めていなかった、子どもの笑顔こそが、家庭にとって大事なものであると、夫婦は気付かされる。両親が喧嘩ばかりしていて笑うことができない子どもの、心の動きが見えたなら、この展開とラストはより納得できるものとなっただろう。

3作を観て思うのは、何か全体を通す大きなテーマがあったらよかったということだ。1作目は「人生」、2作目は「復讐」、3作目は「愛情」とするならば、これらをひとまとめにするような何か、例えば「愛憎」であるとかに関連付けることもできたのではないか。また、3作を通して登場する、案内人のようなキャラクターがいてもいいのかもしれないし、アイテムがあってもいいのかもしれない。いろいろな物語を観られるのは楽しいのだが、浪漫好が作る長い1作を観てみたくなったのだ。そう思えたのは、随所に、笑わせるだけではない要素を感じたからである。1作目では人生について考えさせてくれるような雰囲気があった。2、3作目もそれぞれ、考えさせる要素がある。これらに肉付けをしてやれば、厚みのある物語になっていくのではないか。

そして芝居の表現方法であるが、より二次元的にポップな方向にいくか、よりドラマ的に深みのある方向にいくか、大きく二つの方向性が考えられると感じた。オープニング映像に観られるような派手さ、わかりやすさを本編にもっと取り入れることもできるだろう。この方向で進めば、1作目のように、イメージが先行して膨らんでいくマンガのような世界観を、さらに展開することができる。本編中に映像を使うことで、もっと盛り上げることができるかもしれない。

3作目で観られた人間ドラマ的な心の動きについて、脚本への書き込みを増やし、演じていくこともできるだろう。そうするとコント的要素は減ってしまうかもしれないが、笑わせつつ泣かせることも芝居にはできる。

この両方をやるという手も、難易度は高いだろうと思うが、ある。いずれにせよ、浪漫好にはまだまだ成長できる可能性が感じられる。


(以下は更新前の文章です)


演劇ユニット浪漫好 -Romance-の『なにもん芝居』(脚本・演出:高田滉己)は、3作の短編からなる芝居だった。「一体、何者(なにもん)?」と思わせる、人ではない者が出てくることが3作の共通項である。当日パンフレットでの演出家の挨拶によると、それぞれ独立した話で、関連性はない。

まず、スクリーンにはオープニングムービーが映し出される。派手な色彩にポップな効果を使ったにぎやかな映像で、キャストやスタッフをテンポ良く紹介していく。

芝居の上演の最初は『人生保険』。上手から男性(平田涉一郎)が登場するや否や衝撃音がして、どうやら彼は事故に遭って死んでしまったようである。そのことを即座に理解した彼は、そこにいる白い服装に羽根が生えた二人組(岡島大輝、志田絢音)も天使であるとすぐに理解する。天使達は保険の外交員で、次の人生に向けて保険を掛けておくように男性に勧める。交通事項に遭わない、お金に困らない、モテる、なんでも大丈夫だ。ただしその対価として本人の寿命が必要となる。それなら保険はいらないと言う男性を、今度は別の天使達(室木翔斗、柳原成寿)が現れて引き止める。天使は、人が契約した対価の寿命で生きているため、契約させようと必死なのだ。やがて彼ら4人は男性そっちのけで「もしもあなたが勇者だったら」の世界を演じ始める。

天使達のドタバタ劇の最中、男性は、平凡な人生でいい、保険なんかいらないと嘆いた。この人生観のようなものをもっと話の中に取り入れてほしいと感じた。ドタバタコメディであるからこそ、現実観のある設定が垣間見えることで、より話を受け取りやすくなるのではないか。

2作目は『化かし化かされ』。占い館を営むのは狐(山根宝華)。心が見える木の葉の術を使って人を騙し、金を得ている。占いにやってきた一人の女性(山崎真優)。彼女は何かおかしいと、狐は勘づく。実は彼女も狐、しかも稲荷神社の使いの狐だったのだ。

2人の狐はそれぞれ、人間世界に憧れ、その中に飛び込んではみたものの、人間に裏切られている。そんな2人が復讐のために手を取り助け合う話、ではなかった。2人はタイトル通り、化かし合いを展開する。同じように人間に傷付けられた同士でも、それぞれに思うところがあり、簡単に連帯には至らないという結末が少々寂しくもあった。だが、それが狐のたくましさなのかもしれない。

最後は『泣く子はいねぇか』である。赤(小石川武仁)と青(岡島大輝)のなまはげが、子どもを泣かそうと、ある家にやってくる。ところが、その家では、夫(室木翔斗)と妻(横川正枝)が離婚を巡って争っていた。夫婦に邪険に扱われるなまはげ2人。それでも彼らから集金をせねばと再挑戦すると、なんとこの家には子ども(山根宝華)がいるではないか。奮闘するも彼らは、子どもに笑われてしまう。だが、子どもの笑顔こそが、家庭にとって大事なものであると、夫婦は気付かされる。

最後の作品は人間ドラマの趣が強く感じられた。展開とラストは予想ができるものだったが、ここでのどんでん返しはあまり望まれないだろう。幸せなエンドを迎えることができて、ほっとした。

3作を観て思うのは、何か全体を通す大きなテーマがあったらよかったということだ。1作目は「人生」、2作目は「復讐」、3作目は「愛情」とするならば、これらをひとまとめにするような何か、例えば「愛憎」であるとかに関連付けることもできたのではないか。また、3作を通して登場する、案内人のようなキャラクターがいてもいいのかもしれないし、アイテムがあってもいいのかもしれない。いろいろな物語を観られるのは楽しいのだが、浪漫好が作る長い1作を観てみたくなったのだ。そう思えたのは、随所に、笑わせるだけではない要素を感じたからである。1作目では人生について考えさせてくれるような雰囲気があった。2、3作目もそれぞれ、考えさせる要素がある。これらに肉付けをしてやれば、厚みのある物語になっていくのではないか。

そして芝居の表現方法であるが、より二次元的にポップな方向にいくか、よりドラマ的に深みのある方向にいくか、大きく二つの方向性が考えられると感じた。オープニング映像に観られるような派手さ、わかりやすさを本編にもっと取り入れることもできるだろう。この方向で進めば、1作目のように、イメージが先行して膨らんでいくマンガのような世界観を、さらに展開することができる。本編中に映像を使うことで、もっと盛り上げることができるかもしれない。

3作目で観られた人間ドラマ的な心の動きについて、脚本への書き込みを増やし、演じていくこともできるだろう。そうするとコント的要素は減ってしまうかもしれないが、笑わせつつ泣かせることも芝居にはできる。

この両方をやるという手も、難易度は高いだろうと思うが、ある。いずれにせよ、浪漫好にはまだまだ成長できる可能性が感じられる。