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かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
劇評を書くメンバーは関連事業である劇評講座の受講生で、本名または固定ハンドルで投稿します。

この文章は、2022年11月19日(土)13:00開演のかなざわリージョナルシアター2022参加作品、星稜高校演劇部『Show the umbrella』+星の劇団『Who label the rums』についての劇評です。

どうして世界史を学ばなくてはならないのか?
そんな一人の生徒の素朴な疑問を真剣に受け止めた世界史担当の演劇部顧問、池端明日美が生徒たちと議論を重ねながら台本を書いたのが星陵高校演劇部による『Show the umbrella』だ。

直方体のボックスのように回転する舞台装置の中には社会科準備室が再現されている。放課後、世界史で赤点を取った女子生徒(西岡花)が追試対策のために先生(酒井陽)から個別補習を受けている。生徒は、先生に愚痴をこぼす。自分の国と関係のなさそうな国の歴史をどうして勉強しなければならないの?そこにはテストの効率のために単語を機会的に覚えなければならない教育のあり方への反感も込められているようだ。

それ対して、先生は歴史の叙述は主観的なものだと言う。確かに歴史は、影響力の強い国や王侯貴族や権力者が動かしているように叙述されている。しかし本当の歴史は、一見マイナーな国や身分の低い庶民が動かしていると先生は続ける。

例えば、インドの叙事詩『ラーマーヤナ』は王族の物語かもしれないが、後生に影響を与えたその物語の編纂者は盗賊出身と言われている。アフリカ大陸はジャズやロックの音楽のルーツであるし、古代ギリシアやローマ時代にも民主政はあり権力者は民衆の声によって権力の座から追われた。

つまり、歴史は強国や権力者のもののように見えるが、その背後には別の歴史=物語がある。歴史が書かれたコンテクストを知り、その記述の政治性に批判的な目を向けることにこそ学ぶ意味はあるということだ。

先生と生徒が対話するレイヤーとは別に、先生が語るエピソードに応じて、『ラーマーヤナ』やローマ市民の反乱が、ミュージカルのように踊りやコミカルな笑いも交えながら舞台の端から端までの大人数のパノラマ感で展開されるのが面白い。

この作品の1番の演劇的な醍醐味は、当初から自明のものと考えてしまっていた日本の高校が舞台だろうという「常識」が、舞台装置が回転するに合わせてぐらりと揺らぎ転換されることの驚きだ。国家にとって「不都合な」歴史を教えている容疑で秘密警察が準備室に踏み込んでくる。自由な教室が途端に自由を圧殺する監獄に見える。「この子は関係ない。もうこの部屋には来るな」と先生に言われて、「せっかく歴史のことが好きになったのに」と走り去る姿がスローモーションのように感じられるほど美しい。先生の逮捕後、香港民主化のテーマ曲となった「香港に栄光あれ」の楽曲がサックスソロの生演奏で奏でられる。

休憩を挟んで続けて上演されるのは星稜高校演劇部OBOGにより結成された星の劇団の『Who label the rums』(作・池端明日美)だ。舞台は香港から離れたキューバのBarカウンター。アメリカの文豪アーネスト・ヘミングウェイが通った場所としてハバナの観光名所となっている。

前半に上演された『Show the umbrella』と何の関係もないように思えるが、タイトルがスペルを入れ替えたアナグラムの言葉遊びになっているように姉妹関係にある。Barを訪れた日本人観光客のガイドの女まゆみ(儘田奈由多)は香港出身。バーテンダーのカルロス(斎藤真之介)とは留学中に恋人だったというのもフェイクのようだ。まゆみは実は情報機関所属の諜報員であり、カルロスを諜報員として勧誘している。過去がありそうな男と女とBar。スパイ映画のような展開‥‥

この作品を単独で見るといろんなことが判然としないが、2本立てで上演されることでスパイものだけに様々な解釈ができる。僕なりの解釈は、前半の女子生徒が香港から脱出し、諜報員となって自由のない専制的な独裁国家と戦う未来の姿を描いているというものだ。

『Show…』でも、中国の反纏足(てんそく)運動を組織したイギリス女性が英国の女性参政権運動をリードしたというエピソードが語られていた。つまり、世界はつながっているといるということなのだろう。自分の本質を見失わずに権力に抵抗する一つ国の民衆の運動は、他の国に飛び火し、やがて世界全体の歴史を変えていく力となる。香港の問題は決して対岸の火事ではない。
 この文章は、2022年11月12日(土)19:00開演のAgクルー『奇譚回廊』についての劇評です。

 不老長寿の新薬の治験者になれるチャンスを得た中年の二人の女性。しかし治験者になるには二つの条件を飲まなくてならない。一つはこれからの人生、毎日、治験経過の監視を受けなくてはならなくなること。もう一つは一生子どもを妊娠出産できなくなること。自由や子どもを持つ夢を犠牲にしてまでも、二人は永遠の若さを手に入れたいと願うだろうか。
 50歳以上のシニア劇集団「Agクルー」メンバーである牛村幸子作『変若水(おちみず)』は星新一のショートショートのような、ありそうでなさそうな不思議な設定の短編の物語だ。
 おそらくコロナ禍以降に書かれたと考えらえるこの作品には、新薬治験の同意書へのサインを迫る怪しすぎる白衣の研究員も登場するなど、否応なくワクチンへの摂取を迫られ続けた私たちの「不条理」な状況への皮肉にも見える。研究員自身も過去に開発された不老長寿薬の治験者であると言い、年齢不詳。彼女の言葉を信じて、二人は同意書にサインしてしまうのか。しかし、スパイシーな物語のオチを期待させる伏線要素の割りにはあっけない幕切れが待っている……。
 金沢市民芸術村リージョナルシアター2022「げきみる」の第1週目を飾るAgクルー「奇譚回廊」公演は、『変若水』の芝居の他に、出演者が本を読みながら演ずる三つの短編のリーディングコンピレーションで構成されている。
 全体のテーマは、不思議な、あやしい、ありそうもない話。女の膝枕を模した人工知能搭載型クッションへの倒錯的フェティシズムを告白した今井雅子作『膝枕』の他、夢野久作『人の顔』と江國香織『冬の日に、防衛庁にて』。
 ただし、江國の作品は「奇譚」とは言い難いし、作品のセレクトや順番がある意図を持って構成されているようには感じない。演出についても、椅子やテーブルの使い方、衣装、朗読者の位置など、作品の解釈やヴィジュアル面で緻密な演出意図が感じられず、ちぐはぐな印象は逆に作品への集中を妨げたように思う。リーディング公演は、単なる小説の朗読ではないはずだ。
 50歳以上の男女が、演劇活動を楽しむために集まったAgクルー。その特色を活かし、もっとメンバーそれぞれの個性や多様性が輝くプレゼンテーションに期待したい。
この文章は、2022年11月12日(土)19:00開演のAgクルー『奇譚回廊』についての劇評です。

劇団Agクルーによる『奇譚回廊』は朗読3作品と芝居1作品で構成されていた。演出はすべて高田伸一。出演者はチラシで発表されていたが、配役の表記はなかった。

ここでの朗読の形式は一人で読む形ではなく、登場人物、地の文とも、配役された役者が役になり切って読むものだった。基本的に座って読む形で、ときどき違う椅子に移動する動きがあった。演技としての動きではなかったので、観客に飽きさせないための動きだったのだろう。
夢野久作『人の顔』(初出1928年)。不思議なものが見える幼い養女が、見えるものを語ることで母の秘密を父に知らせてしまう。チラシのリード文にある「身近に起こっているかもしれない物語」として、3作品の中で一番ありそうな話だった。養女のチエ子が不思議であやしい存在として描かれていて、演出もそこを狙っていたように思う。ただ、演者はあくまで5歳の少女として演じていたように見えた。そこがすごくいいと感じた。だからこそ、大人にとって怖い存在となるのだろう。
今井雅子『膝枕』は、ウェブサイト「note」の今井雅子本人のアカウント内で2021年に発表されたものだ。腰から下の正座をした女性の膝枕を通販で購入した男の話だった。男の膝枕に対する感情や、膝枕そのものの質感をリアルに想像してしまって、冒頭から不快感が頂点に達したが、「男」の役を女性が演じていたおかげで私とは関係のない別次元の話としてみることができた。この配役は私にとって救いとなった。
江國香織『冬の日、防衛庁にて』(1993年『あたたかなお皿』掲載)は、チラシでは3番目に記載されていた作品だ。実際は2番目に読まれた。キャリアガールである「私」が、恋人の妻と会うことになり、妹が電話口であれこれアドバイスをする。余裕たっぷりの恋人の妻を前に「私」は敗北の涙を流すという話だ。朗読3作品を聞き終わった後、2番目に読まれたこの作品に違和感を覚えた。時代的にわかる部分があるため、ひと際古臭く感じた。この作品に出てくる3人の女性の価値観が、当時の社会性を強く映していた。勝つか負けるかというマウントの取り合いをするところと、それを自分自身ではなくそれぞれの社会的属性で行うという感覚が、とてもいびつに見えた。私の苦手な価値観だ。なぜ、この作品が選ばれたのだろう。どこに「不思議で、あやしい、ありそうにない話」という部分を感じたのだろう。作品選びの要はどこだったのか知りたい。

『変若水(おちみず)』は劇団員である牛村幸子により書かれたものだ。タイトルの字の並びと発音した時の音の響きに興味をひかれた。タイトルは作品中のセリフにもあったが、若返りの薬の名前を神話による月の若返り信仰によるものだった。若返りの薬「変若水アルファ」の治験者候補二人と研究担当者・山田の3人が登場する。若返り薬が「変若水10」まであって、さらに改良したものがアルファであるらしい。タイトルもそうだが、ネーミングがすっきりしていていいと思った。
ただ、3人の人間をもっと丁寧に掘り下げてほしかった。役名を失念してしまったのだが、治験者は50歳前後の女性と30歳ぐらいの女性だった。
50歳ぐらいの女性は、子どもは独立していて夫以外のボーイフレンドがいる。彼氏ではなくあえて「ボーイフレンド」と呼ばれるその男性はこの女性にとってどのような人物であるのか。複数の男性の友達ではなく、特定の「ボーイフレンド」を作る意味は何なのか。女は45歳を過ぎればみんな同じというセリフがあったが、なぜそう思うのか。R50のAgクルーの内部での共通認識なのだと推測するが、その思いを観客にもっと伝えてもいいのではないか。
30歳ぐらいの女性はこれから結婚して子供を持ちたいという。しかし、治験者になった場合、子どもを産んではいけないという決まりがあると聞き、治験者になるかどうかちょっと悩む。結局治験者になることを選ぶのだが、簡単に子どもを持つことをあきらめた理由の描写が欲しかった。人前に出るマスコミ関係の仕事についているということだったので、いつまでも若く美しい状態で仕事をすることを選んだのだろうか。
研究者の山田は「変若水9」の治験者だった。「9」の治験が何年前に行われていて、山田は何年生きているのかは明かされなかったが、彼女はもっと強くミステリアスなエピソードを挿入したほうがおもしろかったように思う。
全体的にある意味余白があっていろいろ想像できて面白く観劇できた。残念だったのは、セリフのテンポがあまり軽快ではなかったところ。朗読は手元に原稿があったので、その差がはっきりわかってしまった。あっさりとしたラストは嫌いではない。ただ、中身がもっとぎゅっと濃いものになれば、拍子抜けの落差ができて面白いかもしれない。

この劇評を書くにあたってロゴをよく見てみると、Agクルーの文字の周りを丸く囲むように「R50」「円熟シニアの妙」という文字が目についた。Agクルーが、自分たちの好きな演劇を無理なく継続することが目的ならこれくらいの緩さは納得だ。もし劇団の名称がAging Gracefullyから来ているなら、もっとその思いが伝わる表現があったように思う。カーテンコールで後ろの壁に沿って並んで仲良く顔を見合わせている姿も美しいが、もっと舞台の前に進み出てほしい。そして参加資格年齢に達している筆者に、年齢に関係なく演劇を続けることの幸せ感を伝えてほしい。

(以下は更新前の文章です)


劇団Agクルーによる『奇譚回廊』は朗読3作品と芝居1作品で構成されていた。
朗読は一人で読む形ではなく、登場人物、地の文とも、配役された役者が役になり切って読む演劇に近い形のものだった。また、出演者は発表されているが、配役の表記はなかった。

朗読された作品は、夢野久作『人の顔』(初出1928年)、今井雅子『膝枕』(2021年ウェブサイト「note」で発表)、江國香織『冬の日、防衛庁にて』(1993年『あたたかなお皿』掲載)の3作品。
『人の顔』はチラシのリード文にあるように、たしかに身近に起こっているかもしれない物語だった。養女のチエ子が不思議であやしい存在として描かれていて、演出もそこに狙いがあったように見えた。ただ、演者はあくまで5歳の少女として演じていたように思う。そこがすごくいいと感じた。だからこそ、大人にとって怖い存在に見えたのだろう。
『膝枕』は、腰から下の正座をした女性の膝枕を通販で購入した男の話だった。あまりにシュールで生々しい文章に、冒頭から不快感が頂点に達したが、「男」の役を女性が演じていたおかげで私とは関係のない別次元の話としてみることができた。この配役は私にとって救いとなった。
『冬の日、防衛庁にて』、チラシでは3番目に記載されていたこの作品は、実際は2番目に読まれた。『膝枕』を聞き終わった後、2番目に読まれたこの作品に違和感を覚えた。3作品の中でひと際時代を感じた作品だ。時代的にわかる部分があるため逆に古臭く感じた。この作品に出てくる3人の女性の価値観が、当時の社会性を強く映していて、見ていて気持ちが落ち着かなかった。勝つか負けるかというマウントの取り合いをするところと、それを自分自身ではなくそれぞれの社会的属性で行うという感覚が、とてもいびつに見えた。私の苦手な価値観だ。なぜ、この作品が選ばれたのだろう。どこに「不思議で、あやしい、ありそうにない話」という部分を感じたのだろう。作品選びの要はどこだったのか知りたい。

『変若水(おちみず)』は劇団員である牛村幸子により書かれたものだ。タイトルの字の並びと発音した時の音の響きに興味をひかれた。タイトルは作品中のセリフにもあったが、若返りの薬の名前を神話による月の若返り信仰によるものだった。若返りの薬「変若水アルファ」の治験者候補二人と研究担当者・山田の3人が登場する。若返り薬が「変若水10」まであって、さらに改良したものがアルファであるらしい。タイトルもそうだが、ネーミングがすっきりしていていいと思った。
ただ、3人の人間をもっと丁寧に掘り下げてほしかった。役名を失念してしまったのだが、治験者は50歳前後の女性と30歳ぐらいの女性だった。
50歳ぐらいの女性は、子どもは独立していて夫以外のボーイフレンドがいる。彼氏ではなくあえて「ボーイフレンド」と呼ばれるその男性はこの女性にとってどのような人物であるのか。複数の男性の友達ではなく、特定の「ボーイフレンド」を作る意味は何なのか。女は45歳を過ぎればみんな同じというセリフがあったが、なぜそう思うのか。ものすごく興味がある。
30歳ぐらいの女性はこれから結婚して子供を持ちたいという。しかし、治験者になった場合、子どもを産んではいけないという決まりがあると聞き、治験者になるかどうかちょっと悩む。結局治験者になることを選ぶのだが、あっさりと子どもを持つことをあきらめた理由の描写が欲しかった。人前に出るマスコミ関係の仕事についているということだったので、いつまでも若く美しい状態で仕事をすることを選んだのだろうか。
研究者の山田は「変若水9」の治験者だった。「9」の治験が何年前に行われていて、山田は何年生きているのかは明かされなかったが、彼女はもっとミステリアスなエピソードを挿入したほうがおもしろかったように思う。
全体的にある意味余白があっていろいろ想像できて面白く観劇できた。残念だったのは、セリフのテンポがあまり軽快ではなかったところ。朗読は手元に原稿があったので、その差がはっきりわかってしまった。

この劇評を書くにあたってロゴをよく見てみると、Agクルーの文字の周りを丸く囲むように「R50」「円熟シニアの妙」という文字が目についた。Agクルーが、自分たちの好きな演劇を継続することが目的ならこれくらいの緩さは納得だ。好きな演劇をストレスなく続けていく俳優たちは、とても楽しそうで生き生きしていた。カーテンコールでの笑顔はこちらもつられて笑ってしまうほどだった。
だとしたら、朗読だけでなくオリジナルの演劇をプログラムに加えたことはとても大きなチャレンジだったのではないか。そのチャレンジには拍手を送りたい。ただ、朗読作品の選び方は、円熟シニアならではの感覚をもっと発揮できればさらに良いものになりそうな気がした。
この文章は、2022年11月12日(土)19:00開演のAgクルー『奇譚回廊』についての劇評です。

Ag(エージー)クルーは50歳以上の演者からなる、シニア世代の演劇集団だ。これまでに朗読やリーディング、演劇公演を行ってきている。その内容は、シニア世代であることを活かした落ち着きのある作品選定が多いと筆者は感じていた。だが、今回の舞台は、Agクルーの特徴である「演者が歳と経験を積み重ねている」という利点を活かしきれていないように思われた。

今回の公演は、3作の朗読と1作の芝居からなる。演出は高田伸一。朗読作品は上演順に、夢野久作『人の顔』(初出1928年)、江國香織『冬の日、防衛庁にて』(初出1993年『温かなお皿』)、今井雅子『膝枕』(2021年noteにて発表)。芝居は、劇団員である牛村幸子の作による『変若水(おちみず)』だ。チラシには「不思議な、あやしい、ありそうにない話。しかし、どこかあなたの近くで起こっているかもしれない物語たち」とある。

舞台には上手から、黒っぽい柄のテーブルクロスをかけた丸テーブル、長方形テーブル、アイボリーに柄のあるテーブルクロスをかけた丸テーブルが置かれ、テーブルの周りには木のスツールが、全部で7個ほどある。劇団員はテーブルについて読む者もあり、スツールを時折移動しながら読んだりする者もあった。

まずは『人の顔』である。物静かだが、時折見せる表情や発言によって利発な印象を与える幼い娘、チエ子と、その父母が登場する。母と共に出かけた時、その後、父と出かけた時、チエ子は街の中に不思議な顔を見る。奇妙な言動で父母を翻弄する、チエ子の醸し出すあやしげな雰囲気が印象に残った。

2作目は『冬の日、防衛庁にて』。女性が、恋人の妻に呼び出され、会いに行く。2人はイタリアンレストランで食事をし、会話をする、それだけなのだが、恋人の妻と別れた後、なぜか女性は涙する。妻が女性に対して怒ったり泣いたりしたわけではないのに、その結果となったことを、不思議な話と捉えているのだと察する。だが、はたしてこの話は「奇譚」だろうかと疑問に思った。初期の江國作品は、人の心の動きを柔らかく描いている印象が筆者にはある。朗読として初めて聴いたこの作品も、そのような雰囲気で語られるもののように感じた。

そして朗読のラストは『膝枕』だ。男の家に宅配便で「箱入り娘の膝枕」が送られてくるのである。膝枕は人工知能を搭載しており、男の言動に箱入り娘らしく反応して動く。まるで誰かの妄想が、それも秘めておきたい方向性の物が舞台上に現れており、これは聴いていてもいいのだろうかと思ったほどだった。そのような情景を観客にありありと想像させたという点において、朗読作品として強い力を発する物となっていた。

変若水とは、日本神話に登場する神、ツクヨミが持っていたとされる、若返りの薬だ。芝居『変若水(おちみず)』の物語世界では、「変若水α」という薬が研究開発されている。その治験者として、ノナカとセト、2人の女性が選ばれた。研究員のヤマダが2人に治験の説明をする。「変若水α」の効能は、不老長寿である。治験者になるにあたって、いくつかの制約が2人には求められる。行動は監視される。妊娠出産はできない、など。だが、2人の生活は一生涯、研究所によって保障される。

なぜ、彼女達は不老長寿の薬を求めたのか。その理由は語られるものの、未知の薬を飲んでまで願いを叶えたい、という切実さの表明には足りない気がした。不老長寿を願い、そのために治験に応募し、激戦をくぐり抜けて治験者に選ばれる。そして、治験には様々なリスクが伴うことを聞かされる。この間の心の動きの表現がもっとなされてもよかっただろう。自身が老いていくことについての様々な思いは、歳を重ねたメンバーであれば身に染みて実感しているはずだ。自分達の経験をより多く脚本に織り込み、歳を取ることの苦悩を台詞や演技に乗せることもできるのではないか。そうすることで、不老長寿というモチーフをさらに深く、観客に感じさせることができたのではないか。そこが、筆者がこの公演中、最も惜しく感じた点だ。

歳を重ねているからこそ、身に付けられる知識や身体感覚がある。それらを含んだ体から醸し出される雰囲気は、若い役者にはまだ持つことができないものだ。この一朝一夕には身に付かない武器を、積極的に使っていってほしい。演劇を通じて生を楽しみ、自己表現している姿を見せてほしい。

だが、この筆者の希望は、演者達の希望とは異なっているのかもしれない。普段の自分とは全く違う誰かになれることや、現実とは違う世界を構築してみせることも、演劇が持つ可能性の一つだからだ。演者達がそれを願い、自分が演じてみたいと思える作品を持ち寄ったのが今回の公演である、というのであれば納得がいく。4作が並ぶことに、「不思議な、あやしい、ありそうもない話」という共通項以外の意味が隠されているのではと勘ぐったものの、筆者にはそれを見つけることができなかった。発表する作品に何らかの関連があったならば、「奇譚回廊」としての大きなまとまりが生まれただろう。


(以下は更新前の文章です)


Ag(エージー)クルーは50歳以上の演者からなる、シニア世代の演劇集団だ。最初に結論を述べる。今回の舞台は、Agクルーの特徴である「演者が歳と経験を積み重ねている」という利点を活かしきれていないように感じられた。

今回の公演は、3作の朗読と1作の芝居からなる。演出は高田伸一。朗読作品は上演順に、夢野久作『人の顔』、江國香織『冬の日、防衛庁にて』、今井雅子『膝枕』。芝居は、劇団員である牛村幸子の作による『変若水(おちみず)』だ。チラシには「不思議な、あやしい、ありそうにない話。しかし、どこかあなたの近くで起こっているかもしれない物語たち」とある。

舞台には上手から、黒っぽい柄のテーブルクロスをかけた丸テーブル、長方形テーブル、アイボリーに柄のあるテーブルクロスをかけた丸テーブルが置かれ、テーブルの周りには木のスツールが、全部で7個ほどある。

まずは『人の顔』である。物静かだが、時折見せる表情や発言によって利発な印象を与える幼い娘、チエ子と、その父母が登場する。母と共に出かけた時、その後、父と出かけた時、チエ子は街の中に不思議な顔を見る。奇妙な言動で父母を翻弄する、チエ子の醸し出すあやしげな雰囲気が印象に残った。

2作目は『冬の日、防衛庁にて』。女性が、恋人の妻に呼び出され、会いに行く。2人はイタリアンレストランで食事をし、会話をする、それだけなのだが、恋人の妻と別れた後、なぜか女性は涙する。妻が女性に対して怒ったり泣いたりしたわけではないのに、その結果となったことを、不思議な話と捉えているのだと察する。だが、はたしてこの話は「奇譚」だろうかと疑問に思った。初期の江國作品は、人の心の動きを柔らかく描いている印象が筆者にはある。朗読として初めて聴いたこの作品も、そのような雰囲気で語られるもののように感じた。

そして朗読のラストは『膝枕』だ。男の家に宅配便で「箱入り娘の膝枕」が送られてくるのである。膝枕は人工知能を搭載しており、男の言動に箱入り娘らしく反応して動く。まるで誰かの妄想が、それも秘めておきたい方向性の物が舞台上に現れており、これは聴いていてもいいのだろうかと思ったほどだった。そのような情景を観客にありありと想像させたという点において、朗読作品として強い力を発する物となっていた。

変若水とは、日本神話に登場する神、ツクヨミが持っていたとされる、若返りの薬だ。芝居『変若水(おちみず)』の物語世界では、「変若水α」という薬が研究開発されている。その治験者として、ノナカとセト、2人の女性が選ばれた。研究員のヤマダが2人に治験の説明をする。「変若水α」の効能は、不老長寿である。治験者になるにあたって、いくつかの制約が2人には求められる。行動は監視される。妊娠出産はできない、など。だが、2人の生活は一生涯、研究所によって保障される。

なぜ、彼女達は不老長寿の薬を求めたのか。その理由は語られるものの、未知の薬を飲んでまで願いを叶えたい、という切実さの表明には足りない気がした。不老長寿を願い、そのために治験に応募し、激戦をくぐり抜けて治験者に選ばれる。そして、治験には様々なリスクが伴うことを聞かされる。この間の心の動きの表現がもっとなされてもよかっただろう。自身が老いていくことについての様々な思いは、歳を重ねたメンバーであれば身に染みて実感しているはずだ。自分達の経験をもっと脚本に織り込み、歳を取ることの苦悩を台詞や演技に乗せることもできるのではないか。そうすることで、不老長寿というモチーフをより深く、観客に感じさせることができたのではないか。そこが、筆者がこの公演中、最も惜しく感じた点だ。

歳を重ねているからこそ、身に付けられる知識や身体感覚がある。それらを含んだ体から醸し出される雰囲気は、若い役者にはまだ持つことができないものだ。この一朝一夕には身に付かない武器を、積極的に使っていってほしい。人生の先輩として、演劇を通じて生を楽しみ、自己表現している姿を見せてほしい。

だが、この筆者の希望は、演者達の希望とは異なっているのかもしれない。普段の自分とは全く違う誰かになれることや、現実とは違う世界を構築してみせることも、演劇が持つ可能性の一つだからだ。演者達がそれを願い、自分が演じてみたいと思える作品を持ち寄ったのが今回の公演である、というのであれば納得がいく。4作が並ぶことに、「不思議な、あやしい、ありそうもない話」という共通項以外の意味が隠されているのではと勘ぐったものの、筆者にはそれを見つけることができなかった。発表する作品に何らかの関連があったならば、「奇譚回廊」としての大きなまとまりが生まれただろう。
#劇評2021
この文章は、2021年12月24日(金)19:30開演の演芸列車東西本線『東西本線演芸ショー』についての劇評です。

 「男は黙って背中で語る」というが、終始客席に背を向けて語り合う2人の中年男の背中は雄弁だった。ベケットの『ゴドーを待ちながら』のように、沈みゆく夕日を眺めながら語り合うだけで何かが起こるわけではない。死の病に冒されたスーツ姿の男たちが待つのはやがて訪れる自らの死。しかし、彼らの背中が語るのは死の影の怯えや離婚経験のある人生の悔恨ばかりではない。それは普段、観客に見せることのない俳優自身のリアルな悲哀であり、40代となって先が見えてきた人生へのある種の諦めと陶酔であるのかもしれない。やがてシルエットとなり闇に消えていく2人の姿は、かつて盛況だったであろう地方の演芸文化のたそがれをも強く印象づけるものだった。
 演芸列車東西本線は石川県を拠点に活動する東川清文と西本浩明によるユニット。金沢市民芸術村ドラマ工房で公演された「東西本線演芸ショー」は真面目な朗読だけでなく落語やお笑いのコント、前述の連続TVドラマ最終話風のシリアスなドラマの4篇のコンピレーションで構成され、まさしく寄席に来て悲喜こもごもの演芸バラエティを楽しむような、程よく力の抜けた味わいのある、ある意味孤独なクリスマスイブの夜に相応しい前説入れての2時半だった。
 ぼくが個人的に「吹いた」のはまずは落語「初天神」から。蜜を舌で舐めとった親父が団子を再び蜜の壺入れて団子屋から「汚いね〜」とつっこまれるシーン。舌を執拗に動かす東川の熱演が笑いを誘う。コント「干支変わり」(作:西本浩明)では、ゆるキャラ風の着ぐるみを着た丑の西本が、同じく寅の東川に、干支の変わり目に東川が体験しなければならない通過儀礼ついて説明するのだが、滝行あり火の輪くぐりありの数々のありえない苦行の具体的な持続時間の分数がおかしかった。再来年はまた寅から兎に儀礼は引き継がれる。何も知らない兎として登場する西本の出っ歯の顔芸もまた可愛かった。
 プログラムの中でも異色であり傑出していたのは横光利一原作『機械』の朗読だった。金属を化学薬品で腐食させてネームプレートを作る工場で働く私と軽部と屋敷。工場の主人の寵愛をめぐる嫉妬や産業スパイの疑惑で3人の間で殴り合いの諍いが起こり、屋敷の毒死に至る。物語の語りは「私」による1人称なのだが、その「私」は自分が屋敷を殺したかもしれないと言う。語りが物語の全貌を把握できていない不測の事態。語りの不完全性、不確実性。それが舞台では、読み手(西本:スピーカー)と動き手(LAVIT:ムーバー)の立場が入れ替わり、スピーカーの位置にムーバーが座るという形で演出される。語りと物語の関係性(主人と奴隷)が逆転したような、物語が語りを凌駕したような瞬間が見事に可視化された。
 ショーの最後では「金沢リージョナルシアターげきみる2021」のラスト公演にふさわしく、これまでの8団体の公演クレジットが映画のエンドロールのようにスクリーンに上映された。映像に合わせて流れた曲は松浦たく作詞・作曲の「東西本線のテーマ」。サビの「がたんごとん」のリフレンが頭に残る素敵な歌だった。この曲のように、2時間半の各駅停車の電車に揺られながら気ままな旅に出る。その先々で出会いがあり笑いもあればホロリと涙することもある。そんな旅のような体験の舞台を作ることこそ、東西本線の2人が本当にやりたいことなのだろうとあらためて納得し少し胸が熱くなった。

小峯太郎(劇評講座受講生)