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かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
劇評を書くメンバーは関連事業である劇評講座の受講生で、本名または固定ハンドルで投稿します。

この文章は、2021年12月25日(土)19:00開演の演芸列車東西本線『東西本線演芸ショー』についての劇評です。



「東西本線演芸ショー」と銘打ったこの公演は、落語から始まり、40分に及ぶ朗読、コント、ドラマの四本立てで、途中休憩を挟み公演時間は120分以上に及んだ。

一本目の演目、東川清文の「初天神」は落語にはなじみがないので何が正解か分からないのだが、ややソフトな語り口だったように思う。息子のキャラクターを掴むのに時間が掛かってしまったので、もっと極端な演じ分けが欲しかった。しぐさは分かりやすく、特に団子の蜜を舐める父親のしぐさは生々しくて(あまり綺麗なしぐさではないので)少し引くほどだった。駄々をこねる息子に辟易とする父親が、最後は息子に買ったはずの凧を息子そっちのけで自分だけで楽しもうとする。実際にいそうなお父さんで凧しか目に入っていない様子がものすごく伝わってきた。リアリティがあって芝居としてはよかったのだが、落語のサゲとしてはインパクトに欠けてしまった。

西本浩明による朗読(横光利一『機械』)には、ダンサーのLAVITが参加した。近代文学独特の小難しい言い回しの中で、少し幻想的だが分かりやすく登場人物を演じるLAVITはこの朗読をひとつの作品として成り立たせた。朗読劇という形にはせず、朗読とダンサーによる演劇寄りのパフォーマンスで作品を表現し、朗読をきちんと朗読の形のまま観客の集中力を切らさずに40分間上演したことは、すごいと思う。この小説は四人称を使った実験的な作品として書かれたものだ。聞きなれない「四人称」については冒頭に説明があったが、言葉ではピンと来なかった。しかし、ラストに読み手が動き出し、それまで人物を演じていたLAVITと立ち位置が入れ替わったとき、これが四人称かとすんなり理解できた。その構成はすばらしかった。


休憩を挟んでコント、ドラマと続く。コント「干支替わり」は村の外で生活した経験のある男が閉鎖的な村の習慣の理不尽さに抗おうとするが、結局村のしきたりに染まっていった姿を描いたものだ。コントという言葉に惑わされて作品の時間の長さに戸惑ったが、その長さは今年の干支の牛島(西本)が来年の干支・虎井(東川)にじわじわと圧力を掛ける時間だ。抗っていた虎井の一年後、牛島の立場に立っていた彼は、次の干支の男に対して牛島と同じように圧力を掛けるのだろうと想像がついた。古いしきたりが変わることはとても難しい。

ドラマ「そして、それから」は全8話の第8話という設定だった。これまでのあらすじが長々とナレーションで紹介され、背面のスクリーンにナレーションの内容が文字で映された。登場人物の写真は今回の「げきみる2021」に出演した俳優たちだ。この演目にはエンドロールがあって、1週目のAgクルーから8週目の演芸列車「東西本線」まで、出演者やスタッフなど写真を添えて紹介した。ドラマの設定である全8話の第8話はここから来ているのだろう。

よどみないナレーションを披露したのは宗村春菜。ナレーションは本物っぽく、しかしだらだらと続く。長いあらすじの後、ようやく第8話の本編に入っていく。余命いくばくもないと知った2人の男が海に向かって座っている。客席から見えるのは2人の背中だ。死に直面した二人のたたずまいは、悲しみを背負っていますと大きく書いてあるようだ。海に向かって座るというシュチューエーション、やたらと長い間、貰いタバコ、夕日、そして死を前にして抑えきれずに言ってしまうくさい台詞。延々と続くドラマ「っぽい」設定が、だんだん面白くなってくる。人は、死を前にすると滑稽になるものなのかもしれない。

演芸ショーといいながら演劇の要素が強い4作品を通して、人間の、理性ではコントロールすることが出来ない感情と行動を興味深いと、作り手は感じているのではないだろうか。何を表現しようとしているのか、捉えかたが難しいと感じながら見ていたが、それなりのボリュームがある演目を4本重ねて、人というのはこんなにどうしようもないものなのだ、そこが面白いのだと、時間を掛けて伝えているように思えた。



(以下は更新前の文章です)


「東西本線演芸ショー」と銘打ったこの公演は、落語から始まり、40分に及ぶ朗読、コント、ドラマの四本立てで、途中休憩を挟み公演時間は120分以上に及んだ。

一本目の演目、東川清文の落語「初天神」は落語としてはソフトな語り口だったように思う。落語にはなじみがないので何が正解か分からないのだが、息子のキャラクターを掴むのに時間が掛かってしまったので、もっと極端な演じ分けが欲しかった。しぐさは分かりやすく、特に団子の蜜を舐める父親のしぐさは生々しくて(あまり綺麗なしぐさではないので)少し引くほどだった。駄々をこねる息子に辟易とする父親が、最後は息子に買ったはずの凧を息子そっちのけで自分だけで楽しもうとする。実際にいそうなお父さんで凧しか目に入っていない様子がものすごく伝わってきた。芝居としてはリアリティがあったと思うが落語のサゲとしてはインパクトに欠けてしまった。

西本浩明による朗読(横光利一『機械』)には、ダンサーのLAVITが参加した。近代文学独特の小難しい言い回しの中で、少し幻想的で、かつ分かりやすい表現をするLAVITはこの朗読をひとつの作品として成り立たせた。朗読劇という形にはせず、朗読とダンサーによる演劇寄りのパフォーマンスで作品を表現し、朗読をきちんと朗読の形のまま観客の集中力を切らさずに40分間上演したことは、すごいと思う。四人称の表現として、読み手が動き出す構成もすばらしかった。

作品としての完成度が高かったことを思うと、冒頭の一人称二人称三人称の説明からの四人称についての説明は、果たして必要だっただろうか。特に三人称については正確に伝わりづらいと感じた。今後も説明するのであれば説明の仕方を変更したほうがいいだろう。舞台の背面のスクリーンには登場人物や物語の説明をする図が投影されていたが、少し情報が多すぎて、ずっと頭を使い続けていた気がする。映像はラストに流れた抽象的な図式のようなものに統一してもよかったように思う。もっと観客の感覚を信頼しても伝わったのではないだろうか。ラストに流れた楽曲については、アコースティックギターの音がこの作品に合っていないように思った。

休憩を挟んでコント、ドラマと続く。コント「干支替わり」は閉鎖的な村の習慣を村の外で生活した経験のある男が理不尽に巻き込まれ、結局村のしきたりに染まっていった姿を描いたものだ。染まっていく過程の男の心動きは表現されていなかったが、それは経験上誰もが想像できるだろう。コントという言葉に惑わされて作品の時間の長さに戸惑ったが、その長さは今年の干支の牛島(西本)が来年の干支・虎井(東川)にじわじわと圧力を掛ける時間だ。

ドラマ「そして、それから」は全8話の第8話という設定だった。これまでのあらすじが長々とナレーションで紹介され、背面のスクリーンにナレーションの内容が文字で映された。登場人物の写真は今回の「げきみる2021」に出演した俳優たちだ。この演目にはエンドロールがあって、1週目のAgクルーから8週目の演芸列車「東西本線」まで、出演者やスタッフなど写真を添えて紹介した。ドラマの設定である全8話の第8話はここから来ているのだろう。

よどみないナレーションを披露したのは宗村春菜。ナレーションは本物っぽく、しかしだらだらと続く。長いあらすじの後、ようやく第8話の本編に入っていく。余命いくばくもないと知った2人の男が海に向かって座っている。客席から見えるのは2人の背中だ。死に直面した二人のたたずまいは、悲しみを背負っていますと大きく書いてあるようだ。海に向かって座るというシュチューエーション、やたらと長い間、貰いタバコ、夕日、そして死を前にして抑えきれずに言ってしまうくさい台詞。設定がすべてドラマ「っぽい」。延々とくだらない面白さが目の前に展開されていた。

冒頭にも書いたが120分を越える長い公演だった。演芸ショーといいながら演劇の要素が強い4作品を通して、人間の、理性ではコントロールすることが出来ない感情とその行動を興味深いと感じている目線で描いていた。それなりのボリュームがある演目を4本重ねて、人というのはこんなにどうしようもないものなのだ、そこが面白いのだと、時間を掛けて刷り込まれた気がした。
この文章は、2021年12月25日(土)19:00開演の演芸列車東西本線『東西本線演芸ショー』についての劇評です。

東川清文と西本浩明による演劇ユニット、演芸列車東西本線の公演『東西本線演芸ショー』(総合演出:西本浩明)が12月24〜26日に金沢市民芸術村ドラマ工房で行われた。上演順に古典落語の「初天神」、小説「機械」の朗読、10分間の休憩を挟んで西本作のコント「干支替わり」、同じく西本が書いたドラマ「そして、それから」の計4本で構成。多芸多才な両人らしく、バラエティー豊かなラインナップとなった。全体を貫くテーマを挙げるとすれば「30〜40代男性のメンタリティー」だろうか。昔から数えで40歳を「不惑」と呼ぶ習わしだが、今回の作品群から浮かび上がって来たのは、40代になっても人生に迷いながら手探りを続ける男たちの姿だった。

オリジナル作品2本のうち、「そして、それから」は連続テレビ小説の最終回という設定だ。前回までのあらすじがナレーションで紹介され、舞台上のスクリーンにも写真付きの字幕が流れた。それによると、高校時代に友人だった八城(東川)と駒澤(西本)は40歳を過ぎて久しぶりに再会するが、2人とも余命宣告を受けていた。一緒に駒澤の別れた妻と娘に会いに行くことになる。妻とはどうにかわかり合えたが、娘の心にはもう駒澤はいないと言われる。その帰り道、中学生になった娘とすれ違うが、声をかけられない駒澤なのだった。そんな前置きを踏まえ、本編の演劇が始まる。2人の男が海辺のベンチに並んで腰掛けている。波の音。ホリゾント(舞台正面の白い幕)に映し出される照明の色が青からオレンジ、紫へと移り変わり、昼から夜への時間経過を教えてくれる。眼前に迫る海を見ながら、ポツリポツリと喋り出す。2人とも終始、観客に背中を向けたままという挑戦的な演出だ。海が綺麗だと感嘆する駒澤。自分にはもうやりたいことがないと気付いて驚いたという八城。ここで自分が消えても誰もわからないんじゃないかと落ち込む駒澤。そんなことはないと慰める八城。「余命宣告」とはあまりにもドラマチックだが、出演者2人が日頃から心に積もり積もった弱音を吐き出すための設定だったのではないだろうか。あえて後ろを向いたネガティブな会話からは、目的を見失った中年男たちの寂しさが漂っていた。

3、40代と言えば、町内会などでさまざまな責任が回ってくる年頃でもある。中にはなぜこんなしきたりが地域で続いて来たのかと理解に苦しむものもある。そんな違和感をコメディタッチで描いたのが「干支替わり」だ。動物村で代々受け継がれてきた年男の儀式について、36歳の虎井(東川)に説明する牛島(西本)。その内容は今年達成しようと思う公約を宣言した上で、滝行や火の輪くぐりを十数セットも行い、ヘトヘトになって皆の前で歌を歌うというものだった。なかば強制的に承諾させようとする牛島に対し、虎井はそれなら引き受ける代わりに自分限りで終わらせることを公約に掲げると声を荒げた。だが、1年後の虎井は次の年男に自分が受けた通りの説明を嬉々として繰り返すのだった。理不尽さを吞み込んで成長していく男たちの姿が表現されていた。2人がレストランで食事をするシーンでは、コーヒーの飲み方やメニューのめくり方、注文が決まって頷き合う様子、店員に対する目線など、細部にまで神経の行き届いたパントマイムが印象的だった。この部分を丁寧に演じていたからこそ、その後のコミカルな展開もリアリティーを失わなかった。

一方、「機械」は昭和初期に新感覚派の旗手として川端康成らと一緒に斬新な文体を探究した作家、横光利一の代表作だ。危険な化学薬品を使った独自の製法によって利益を上げるネームプレート製造所が舞台となる。従業員である「私」と軽部と屋敷の3人はお互いを産業スパイではないかと疑い、暴力を振るい合ったりもする。そうこうするうち、会社は大口の受注に成功し、3人は昼夜なく働いて何とか納品にこぎつける。ところが、その収益金を社長がどこかで落としてしまい、3人は給料が吹っ飛んでガックリ来る。気休めに酒を飲むうち、どうしたことか屋敷が劇薬を口にして死んでしまった。「私」は軽部が犯人かもしれないと考えるが、次第に殺したのは自分ではないかと疑い出す。やがて電動ドリルの先端が「私」に近づいてきたところで物語は終わる。この小説は「1人称=私」の視点で書かれているが、人間というものは万能ではない。「私」の認識力を超えた事件が起きれば、描写自体が不可能になってしまう。これは「1人称」という表現スタイルの限界を見極めた小説なのかもしれない。鋭い刃物が迫って来る危機的な状況の中で、自分が本当に仲間を殺さなかったのか確信を持てなくなって行く「私」の姿は、今回の公演のテーマにもマッチしていた。西本の朗読に合わせ、ダンサーのLAVIT(客演)がパフォーマンスを行った。同僚に殴られ、床に倒れて痙攣するシーンなど、難解な文体をわかりやすく視覚化して伝えていた。

冒頭の「初天神」は、天神様に初詣に出かけた父と息子の話。今日は何も買わないぞと約束したのに、生意気盛りな息子の策略に負けて飴や団子を買ってやる父。さらには凧まで買わされるが、その上げ方を教えるうちについ昔を思い出して一人で夢中に。息子から「おとっつぁんを連れて来なきゃ良かった」と愛想を尽かされてしまう。お父さんだって、熱中したい時もあるんだぞ、という心の声が東川から聞こえて来るような気がして共感を覚えた。

30〜40代は人生の折り返し地点である。欲しいものを手に入れようとガムシャラに頑張ってきた人だって、ふと自分を見失うこともある。若い頃にはあれほど自明だった自我や欲望といったものが次第に薄れてしまい、自分でもよくわからなくなってくる。とは言え、本当に余命宣告でも受けない限り、まだまだ先は長い。今回の作品群にはそんな時間帯に立ち至った男性たちの戸惑いや寂しさが盛り込まれていた。これから人生の後半戦にどう立ち向かえばいいのか、という彼らの真摯な問い直しが垣間見えるようだった。

(以下は更新前の文章です。)

東川清文と西本浩明による演劇ユニット、演芸列車東西本線の公演『東西本線演芸ショー』(総合演出:西本浩明)が12月24〜26日に金沢市民芸術村ドラマ工房で行われた。上演順に古典落語の「初天神」、小説「機械」の朗読、10分間の休憩を挟んで西本作のコント「干支替わり」、同じく西本が書いたドラマ「そして、それから」の計4本で構成。多芸多才な両人らしく、バラエティー豊かなラインナップとなった。全体を貫くテーマを挙げるとすれば「30〜40代男性のメンタリティー」ではないだろうか。昔から数えで40歳を「不惑」と呼んできた。しかし、今回の作品群から浮かび上がって来たのは、40代になっても人生に迷いながら手探りを続ける男たちの姿だった。

このうち「そして、それから」は連続テレビ小説の最終回という設定であり、前回までのあらすじが舞台上のスクリーンに写真と字幕で紹介された。それによると、高校時代に友人だった八城(東川)と駒澤(西本)は40歳を過ぎて久しぶりに再会するが、2人とも余命宣告を受けていた。一緒に駒澤の別れた妻と娘に会いに行くことになる。妻とはどうにかわかり合えたが、娘の心にはもう駒澤はいないと言われる。その帰り道、中学生になった娘とすれ違うが、声をかけられない駒澤なのだった。そんな前置きを踏まえ、本編の演劇が始まる。2人の男が海辺のベンチに並んで腰掛けている。波の音。ベンチ以外に何もなく、ホリゾント(舞台正面の白い幕)に映し出される照明の色が青からオレンジ、紫へと移り変わることで時間の経過を教えてくれる。圧倒的な存在となって眼前に迫る海を見ながら、ポツリポツリと喋り出す。2人とも終始、観客に背中を向けたままという挑戦的な演出だ。海が綺麗だとしきりに感嘆する駒澤。自分にはもうやりたいことがないと気付いて驚いたという八城。ここで自分が消えても誰も気づかないんじゃないかと落ち込む駒澤。そんなことはないと慰める八城。2人の役柄も関係性もそれを演じた東川と西本に近く、ほとんど彼ら自身の心境を吐露しているようにも見えた。自分たちの中にわだかまっている弱音を吐き切ることが狙いだったのかもしれないと思った。

3、40代と言えば、町内会などでさまざまな責任が回ってくる年頃でもある。中にはなぜこんなしきたりが地域で続いて来たのかと理解に苦しむものもある。そんな違和感をコメディタッチで描いたのが「干支替わり」だ。動物村で代々受け継がれてきた年男の儀式について、36歳の虎井(東川)に説明する牛島(西本)。その内容は正月の滝行や火の輪くぐりなどで、普通の若者からすればあまりにも理不尽なものだった。なかば強制的に承諾させようとする牛島に対し、虎井はそれなら引き受ける代わりに自分限りで終わらせることを公約に掲げると声を荒げた。しかしながら、何だかんだ言っても1年後の虎井は嬉々として、次の年男に自分が受けた通りの説明を繰り返すのだった。年を取るとは一体、どういうことか。それは理不尽さを呑み込むことであり、実際に体験した者にしか得られない自信と余裕を踏まえながら、未熟な若者たちを冷静かつ時には悪戯っぽく眺めることでもある。そんな人間社会の有り様が巧みに描き出されていた。2人がレストランで食事をするシーンでは、コーヒーの飲み方やメニューのめくり方、注文が決まって頷き合う様子、店員に対する目線など、細部にまで神経の行き届いたパントマイムが印象的だった。この部分を丁寧に演じていたからこそ、その後のコミカルな展開もリアリティーを失わなかった。

一方、「機械」は昭和初期に新感覚派の旗手として川端康成らと一緒に斬新な文体を探究した作家、横光利一の代表作だ。危険な化学薬品を使った独自の製法によって利益を上げるネームプレート製造所が舞台となる。西本の朗読に合わせてダンサーのLAVIT(客演)が身体表現を行った。従業員である「私」と軽部と屋敷の3人はお互いを産業スパイではないかと疑い、殴り合ったりもする。そうこうするうち、会社は大口の受注に成功し、3人は昼夜なく働いて何とか納品にこぎつける。ところが、その収益金を社長がどこかで落としてしまい、3人は給料が吹っ飛んでガックリ来る。気休めに酒を飲むうち、どうしたことか屋敷が劇薬を口にして死んでしまった。「私」は軽部が犯人かもしれないと考えるが、次第に殺したのは自分ではないかと疑い出す。やがて電動ドリルの先端が「私」に近づいてきたところで物語は終わる。この小説は「1人称=私」の視点で書かれているが、人間というものは万能ではない。「私」の認識力をはるかに超えた事件が起きれば、わけがわからなくなり、描写不可能となってしまう。これは「1人称」という表現スタイルの限界を見極めた小説なのかもしれない。危機的な状況の中で自分が何者なのかを見失っていく「私」の姿は、今回の公演のテーマにもピッタリ当てはまっているのではないだろうか。

冒頭の「初天神」は、天神様に初詣に出かけた父と息子の話。父の年齢は生意気盛りな子どもから推察するに40歳前後かもしれない。今日は何も買わないぞと約束を交わしながら、息子の策略にコロリと負けて飴や団子を買ってやる父。さらには凧まで買わされるが、その上げ方を教えるうちについ昔を思い出して一人で夢中に。息子から「おとっつぁんを連れて来なきゃ良かった」と愛想を尽かされてしまう。お父さんだって、熱中したい時もあるんだぞ、という心の声が東川から聞こえて来るような気がして共感を覚えた。

30〜40代は人生の折り返し地点である。若い頃には欲しいものを手に入れようとガムシャラに頑張るが、ある時点からそんな自分を反省の目で見るようになる。切実に欲しいものがなくなり、今度は逆にさまざまなものを手放していく時間帯へと移行しつつある。とは言え、余命宣告でも受けない限り、まだ依然として先は長いという中途半端さには変わりがない。今回の作品群にはそんな男たちが味わっている戸惑いや寂しさ、自分が信じて来た価値観への疑いさえ盛り込まれていた。これからもさまざまな難題が予想される人生の後半戦にどう立ち向かえばいいのか、という彼らの真摯な問い直しが垣間見えるようだった。
この文章は、2021年12月19日(日)14:00開演の劇団羅針盤『教室に先生と勇者』についての劇評です。




もしもRPG(ロールプレイングゲーム)の世界に行けたら、自分はどの役になるだろう。ゲームのプレイヤーなら勇者だ。だけど、自分がプレイヤーじゃなかったとしたら……。劇団羅針盤『教室に先生と勇者』はタイトルから分かる通り教室に先生と勇者がいた。勇者の名前は加藤。担任の先生は毎日声を出して生徒の名前を呼んで出席を取る。加藤は遅刻したり、そもそもいなかったり、大怪我をしていたりする謎の生徒だ。ただし、大怪我をしている加藤がそこにいてもクラスメイトは何も言わない。先生はそれが不思議でならない。だが加藤がRPGの世界で勇者であるように、クラスメイトもそれぞれRPG世界での役割があった。勇者加藤は魔王に21回戦いを挑んでいてその間にクラスメイトはみんな魔王にやられてしまったのだ。だから教室には先生と勇者しかいない。

RPGの世界には土の魔人・氷の魔人・炎の魔人・風の魔人がいて、魔王の元に向かう勇者の行く手を阻む。王様がいる場所はセーブポイントだ。教室がある世界では勇者・加藤、担任の先生、ある日突然現れた番長、そして社会担当の風祭先生が出てくる。役名があって人が演じる役が10人。対して演じる役者は平田知広、能沢秀矢、間宮一輝(coffeeジョキャニーニャ)、朱門(劇団KAZARI@DRAIVE)の4名だ。複数の役を演じるために落語的な手法を使ったり、二つの世界を舞台上に同時に存在させて一瞬で場面転換したり、多くのキャラクターを演じるための工夫がいろいろされていた。間を置かずテンポ良く、演じている役も頻繁に変わる。場面転換のうまさに加え、キャラクターの分かりやすさもあって混乱せずに見ることが出来る。これはRPGという共通認識があるから成り立っているのかもしれない。

劇団羅針盤といえば殺陣を期待する。今回も殺陣が満載だった。平田、能沢両名に加え、客演の朱門が入ったことで、殺陣について詳しくない私でもいつもより見応えを感じた。芝居の面でも朱門、そして間宮という劇団員とは異なる雰囲気を持った二人が入ったことで、平田と能沢の芝居の魅力がこれまでより発揮されるという相乗効果があった。特に平田の芝居が今までの印象に比べてよりうまくはまっていた。全体的に台詞が明瞭に聞こえるようになって、分かりやすくなっていたのもよかった。ただ、舞台上に立つ人数が4人と言うのは、少しバランスが悪いような気がした。RPGの世界は魔人4人と本来は魔王がいて一つのチームだ。勇者のかつてのパーティもメンバーは5人だった。落語的に誰もいない空間に向かってしゃべったりして、芝居としては成り立っていたが、単純に偶数より奇数のほうが安定感はあると思う。

一見、勇者と元勇者が自分たちの仲間のために魔王を倒す物語だった。でも描きたかったのは理想の先生だったのかもしれない。担任の応真先生は校長の長い話を揶揄し、先生なんて嘘つくもんだろと、学校に対して期待をしないスタンスをときどき漏らしていた。応真先生自身が学校という場所を信用していない。だが、先生本人はいなくなった生徒の居場所を出席を取ることで守っていたし、彼らが戻ってくるのを待っていた。生徒と先生が対立している図式はこの作品にはないのに、応真先生のRPGでの役割は勇者の敵である魔王である。それは先生の内にある学校への懐疑的な思いを作り手が形にしたものかもしれない。番長が応真先生に最後にかけた魔法はどういうものだったのか分からなかったが、その魔法をきっかけに魔王ではなく生徒を思う理想の先生として最後を全うした。平田演じる応真先生が作り手の学校への不信感と信頼したい気持ちを受け止めていたように思えた。ただ、最後のかっこいいところを代表の平田知大が持っていってしまう構成はこれまでと変わりなかった。今回客演を迎えることによって確実に面白い作品が出来上がっていた。かっこいいだけじゃなく、芝居も見せる劇団へ変化するときかもしれない。


(以下は更新前の文章です)



もしもRPG(ロールプレイングゲーム)の世界に行けたら、自分はどの役になるだろう。ゲームのプレイヤーなら勇者だ。だけど、自分がプレイヤーじゃなかったとしたら……。劇団羅針盤『教室に先生と勇者』はタイトルから分かる通り教室に先生と勇者がいた。勇者の名前は加藤。担任の先生は毎日声を出して生徒の名前を呼んで出席を取る。加藤は遅刻したり、そもそもいなかったり、大怪我をしていたりする謎の生徒だ。ただ大怪我をしている加藤がそこにいてもクラスメイトは何も言わない。先生はそれが不思議でならない。だが加藤がRPGの世界で勇者であるように、クラスメイトもそれぞれRPG世界での役割があった。勇者加藤は魔王に21回戦いを挑んでいてその間にクラスメイトはみんな魔王にやられてしまったのだ。だから教室には先生と勇者しかいない。

RPGの世界には土の魔人・氷の魔人・炎の魔人・風の魔人がいて、魔王の元に向かう勇者の行く手を阻む。王様がいる場所はセーブポイントだ。教室がある世界では勇者・加藤、担任の先生、ある日突然現れた番長、そして社会担当の風祭先生が出てくる。役名があって人が演じる役が10人。対して演じる役者は平田知広、能沢秀矢、間宮一輝(coffeeジョキャニーニャ)、朱門(劇団KAZARI@DRAIVE)の4名だ。複数の役を演じるために落語的な手法を使ったり、二つの世界への場面を一瞬で転換させたり、多くのキャラクターを演じるための工夫がいろいろされていた。間を置かずテンポ良く、演じている役も頻繁に変わる。場面転換のうまさに加え、キャラクターの分かりやすさもあって混乱せずに見ることが出来る。大道具や小道具はほとんどなく、大きな冷凍庫などは観客一人一人の想像でしかなかったが、それでもなぜかバカみたいに大きな冷凍庫の扉は見えたし、大きな氷もそこにあった。これはRPGという共通認識があるから成り立っているのかもしれない。

劇団羅針盤といえば殺陣を期待する。今回も殺陣が満載だった。平田、能沢両名に加え、客演の朱門が入ったことで、殺陣について詳しくない私でもいつもより見応えを感じた。芝居の面でも朱門、そして間宮という劇団員とは異なる雰囲気を持った二人が入ったことで、平田と能沢の芝居の魅力がこれまでより発揮されるという相乗効果があった。特に平田の芝居が今までの印象に比べてよりうまくはまっていた。全体的に言葉の明瞭さが上がって分かりやすくなっていたのもよかった。ただ、舞台上に立つ人数が4人と言うのは、少しバランスが悪いような気がした。RPGの世界は魔人4人と本来は魔王がいて一つのチームだ。勇者のかつてのパーティもメンバーは5人だった。落語的に誰もいない空間に向かってしゃべったりして、芝居としては成り立っていたが、単純に偶数より奇数のほうが安定感はあると思う。

一見、勇者と元勇者が自分たちの仲間のために魔王を倒す物語だった。でも描きたかったのは理想の先生だったのかもしれない。担任の応真先生は校長の長い話を揶揄し、先生なんて嘘つくもんだろと、学校に対して期待をしないスタンスをときどき漏らしていた。応真先生自身が学校という場所を信用していない。だが、先生本人はいなくなった生徒の居場所を出席を取ることで守って待っていた。生徒と先生が対立している図式はこの作品にはないのに、応真先生のRPGでの役割は勇者の敵である魔王である。それは先生の内にある学校への懐疑的な思いを作り手が形にしたものかもしれない。番長が応真先生に最後にかけた魔法はどういうものだったのか分からなかったが、その魔法をきっかけに魔王ではなく生徒を思う理想の先生として最後を全うした。平田演じる応真先生が作り手の学校への不信感と信頼したい気持ちを受け止めていたように思えた。
この文章は、2021年12月18日(土)16:00開演の劇団羅針盤『教室に先生と勇者』についての劇評です。

 誰にも役割がある。それは好きで選んだ場合もあるだろうし、そうではないこともあるだろう。自分の役割に納得していたとしても、もし、違う役割をやってみることができたら? と想像してしまうことがあるだろう。劇団羅針盤第53回公演『教室に先生と勇者』はロールプレイング(役割演技)ゲームをモチーフにした芝居だった。

 舞台上手に置かれた黒いボードは、RPGゲームのコマンド選択画面を模していた。白字で「はい」と「いいえ」、そしてカーソル位置を表す横向きの三角形。下手には黒板などが置かれている。中央背面には鉄パイプのようなもので、校舎を簡略化した形が作られている。校舎中央の突出した部分の上部に時計があり、時刻は10時10分を指している。舞台中央には木製の椅子がぽつんと一脚、置かれている。

 教室で応真(平田知大)は生徒の出席を取る。そして数学の授業を始める。しかし、いつもあるタイミングになると、生徒の一人、加藤(能沢秀矢)が席を立ち、どこかに行ってしまうのだ。しかし、他の生徒はその行動について何も気にしてはいない。加藤は大怪我をして登校してくることもある。かと思えば、次の日には怪我がすっかり治っているのだ。怪しい社会の教師、風祭(間宮一輝)や、7年留年しているらしい番長(朱門)に話を聞きながら、応真は謎を探る。どうやら加藤は「勇者」らしい。

 勇者加藤が戦うのは、氷の魔神(能沢秀矢)、炎の魔神(朱門)、風の魔神(間宮一輝)、土の魔神と、魔王(平田知大)。それぞれ二役を演じる彼らは、体勢を変え、瞬時に別の役柄になる。その素早さが、芝居の展開にスピード感を与える。そして戦いの場面では、彼らが得意とする、勢いと迫力のある殺陣を観せる。観客を上演に参加させてしまう仕組みもあった。座席の座布団の下に、番号と文字を書いた紙が忍ばせてあったのだ。筆者の観劇時にはノリのよい観客が役を引き当てたため、観客参加ならではの賑わいが芝居に交えられた。

 学校世界とは違う世界に、加藤は勇者となって向かう。その二つの世界は別々なようで関連がある。加藤のクラスの生徒達は、実はもう一つの世界では、道具屋や宿屋など、別の役割を生きていたのだ。魔王達の手によって死んでしまった彼らを救うには、勇者が魔王を倒すしかない。そのために加藤は毎日戦っているのだ。そして番長はかつての勇者で、仲間達を救うことができず、複雑な思いを抱えながら学校に残っていたのだった。このように二つの別世界が存在していることが、ファンタジー世界そのものを芝居にした作品との大きな違いだ。別世界の存在を一段上から見るように設定したのは、どんな意図があるのだろうか。

 そこに、自分の普段の役割とは違う役割を演じてみたい気持ちの表現はあるだろう。特にPRGを遊んだことがある者にとっては、勇者や戦士、魔法使い、僧侶などの職業のキャラクターをゲーム上で動かすことに親しみがあるはずだ。勇者として派手に戦ってみたい。そんな気持ちは、劇団羅針盤の活気ある舞台で再現するにふさわしい。彼らの得意な殺陣も存分に演じることができる。ただそれは、純粋なファンタジー世界を演劇として展開しても実現できる。

 二つの世界を同時に存在させたのは、われわれの生活が、一つの世界だけに留まっていないことの現れなのではないか。実生活ではおとなしく地味に過ごしている人物が、SNS上では元気な人気者だったりすることがある。人にはいくつかの面があるが、そのどれかが正しく、どれかが間違っているわけでもなく、どれもが自分なのだ。そして、そのように違う自分を表現する術も、SNSをはじめさまざまに存在する。演劇だってその一つではないか。自分とは違う役になってみることができる。

 しかし、この役割がこの芝居では「勇者だから善」「魔王だから悪」というように固定化されていて、その前提には何の疑問も呈されていなかった点は気になった。例え悪の魔王であっても、悪として行動するには何らかの理由があることだろう。その掘り下げがなされていると、物語に深みが出たのではないか。

 違う世界でちょっと違う自分になることはできる。しかし、どんな世界に行こうとも、自分がやるべきことはある。出演者達は、演じる自分を手に入れ、観客を楽しませる役割を担った。観客は芝居の上演中、演者達の表現を受け止める役割に着いている。観客がいなければ舞台は成立しない上に、この舞台では、俳優が観客を生徒と見なしたり、魔神と見なしたりと、観客も舞台の一部として取り込んでいたのだ。現実世界から距離を取った演劇世界の中で、演者も観客も、しばし違う自分を体験する。それは演劇の一つの効能であり、楽しみである。意気揚々とかっこよく、勇者や魔神、魔王の役割に扮した彼らの躍動感溢れる演劇世界に、心を躍らせる時間だった。


(以下は更新前の文章です)


 誰にも役割がある。それは好きで選んだ場合もあるだろうし、そうではないこともあるだろう。自分の役割に納得していたとしても、もし、違う役割をやってみることができたら? と想像してしまうことがあるだろう。劇団羅針盤第53回公演『教室に先生と勇者』はロールプレイング(役割演技)ゲームをモチーフにした芝居だった。

 舞台上手に置かれた黒いボードは、RPGゲームのコマンド選択画面を模していた。白字で「はい」と「いいえ」、そしてカーソル位置を現す横向きの三角形。下手には黒板などが置かれている。中央背面には鉄パイプのようなもので、校舎を簡略化した形が作られている。校舎中央の突出した部分の上部に時計があり、時刻は10時10分を指している。舞台中央には木製の椅子がぽつんと一脚、置かれている。

 教室で応真(平田知大)は生徒の出席を取る。そして数学の授業を始める。しかし、いつもあるタイミングになると、生徒の一人、加藤(能沢秀矢)が席を立ち、どこかに行ってしまうのだ。しかし、他の生徒はその行動について何も気にしてはいない。加藤は大怪我をして登校してくることもある。かと思えば、次の日には怪我がすっかり治っているのだ。怪しい社会の教師、風祭(間宮一輝)や、7年留年しているらしい番長(朱門)に話を聞きながら、応真は謎を探る。どうやら加藤は「勇者」らしい。

 勇者加藤が戦うのは、氷の魔神(能沢秀矢)、炎の魔神(朱門)、風の魔神(間宮一輝)、土の魔神と、魔王(平田知大)。それぞれ二役を演じる彼らは、体勢を変え、瞬時に別の役柄になる。その素早さが、芝居の展開にスピード感を与える。そして戦いの場面では、彼らが得意とする、勢いと迫力のある殺陣を魅せる。観客を上演に参加させてしまう仕組みもあった。座席の座布団の下に、番号と文字を書いた紙が忍ばせてあったのだ。筆者の観劇時にはノリのよい観客が役を引き当てたため、観客参加ならではの賑わいが芝居に交えられた。

 学校世界とは違う世界に、加藤は勇者となって向かう。その二つの世界は別々なようで関連がある。加藤のクラスの生徒達は、実はもう一つの世界では、道具屋や宿屋など、別の役割を生きていたのだ。魔王達の手によって死んでしまった彼らを救うには、勇者が魔王を倒すしかない。そのために加藤は毎日戦っているのだ。そして番長はかつての勇者で、仲間達を救うことができず、複雑な思いを抱えながら学校に残っていたのだった。このように二つの別世界が存在していることが、ファンタジー世界そのものを芝居にした作品との大きな違いだ。別世界の存在を一段上から見るように設定したのは、どんな意図があるのだろうか。

 そこに、自分の普段の役割とは違う役割を演じてみたい気持ちの表現はあるだろう。特にPRGを遊んだことがある者にとっては、勇者や戦士、魔法使い、僧侶などの職業のキャラクターをゲーム上で動かすことに親しみがあるはずだ。勇者として派手に戦ってみたい。そんな気持ちは、劇団羅針盤の活気ある舞台で再現するにふさわしい。彼らの得意な殺陣も存分に演じることができる。ただそれは、純粋なファンタジー世界を演劇として展開しても実現できる。

 二つの世界を同時に存在させたのは、われわれの生活が、一つの世界だけに留まっていないことの現れなのではないか。実生活ではおとなしく地味に過ごしている人物が、SNS上では元気な人気者だったりすることがある。人にはいくつかの面があるが、そのどれかが正しく、どれかが間違っているわけでもなく、どれもが自分なのだ。そして、そのように違う自分を表現する術も、SNSをはじめさまざまに存在する。演劇だってその一つではないか。自分とは違う役になってみることができる。

 違う世界でちょっと違う自分になることはできる。しかし、どんな世界に行こうとも、自分がやるべきことはある。受け入れなければならない役割がある。あるいは自分から求めて手に入れる役割もある。出演者達は、演じる自分を手に入れ、観客を楽しませる役割を担った。観客は芝居の上演中、演者達の表現を受け止める役割に着いている。観客の中には、誰かに感想を伝える役割に着く者もいれば、上演について記して残す役割の者もいる。

 会場にいる全員に、演劇から離れた生活の上での役割がある。それを楽しんでいる者もあれば、そうではない者もあるだろう。現実世界から距離を取った演劇世界の中では、演者も観客も、しばし違う自分を体験することができる。それは演劇の一つの効能であり、楽しみである。意気揚々とかっこよく、勇者や魔神、魔王の役割に扮した彼らの躍動感溢れる演劇世界に、心を躍らせる時間だった。
この文章は、2021年12月18日(土)16:00開演の劇団羅針盤『教室に先生と勇者』についての劇評です。

ひと皮剥けた、と言っても良いのではないか。12月17〜19日に金沢市民芸術村ドラマ工房で行われた劇団羅針盤の公演『教室に先生と勇者』(作・演出:平田知大)。この劇団に対しては、以前の劇評(2017/12/15「奔放なイメージに追いつけない言葉と身体」)で苦言を呈したことがあったが、今回は息もつかせぬハイスピードな展開にもかかわらず、役者たちの発声が良いのでセリフが聞き取りやすかった。特にcoffeeジョキャニーニャの間宮一輝、劇団KAZARI@DRIVEの朱門という2人の客演が功を奏したと思う。彼らと共同作業を行う必要性から、従来の飛躍し過ぎた世界観がややセーブされ、言葉が俳優の肉体にしっかりと根を下ろして普通に見やすい作品に仕上がっていた。羅針盤のコアなファンではない私にとっても楽しめた。

高校の教室。授業中に「来たか!」とか「くそっ!」などと叫んで突然出て行ってしまう生徒・加藤(能沢秀矢)は、腕や頭に負傷して包帯を巻いて帰って来たりする。担任の数学教師・応真(平田知大)は心配する。社会教師・風祭(間宮一輝)によれば、加藤はロールプレイングゲーム(RPG)で勇者として戦っているらしい。彼はゲームに熱中するあまり、先生から進路希望を聞かれた際も「勇者」と答えるのだった。同じクラスには7回も留年して今だに高校3年生の番長(朱門)がいる。いつも3階のトイレでタバコを吸っている彼もまた、ゲームの世界で役割を演じていた。応真は生徒のことを理解するため、風祭に訊ねながら、ゲームを始めてみる。やがて応真は、自分がかつてその世界で氷の魔神(能沢)や炎の魔神(朱門)、風の魔神(風祭)らを従える魔王だったことを思い出していく。

スリムな体つきに少年のようなボサボサ髪の加藤、ガテン系の筋肉質な体型に人懐っこい笑みを浮かべる番長、むっつりした外見の下に野望を隠し持った風祭先生、生徒思いが高じてゲームの世界まで追いかけて行く応真先生とそれぞれのキャラクターが役者にぴったりとはまって魅力的だった。4人の登場人物が現実(高校)と虚構(ゲーム)の世界を行き来しながら、1人で何役も演じ、刀剣を手に殺陣を繰り広げる。加藤と番長のイケメン2人は現「勇者」と元「勇者」というライバル同士であり、競い合いながらもお互いをさりげなく思いやる関係性が素敵だ。番長というキャラクター自体、1980年代の学園物ドラマを連想させて懐かしかった。一方では風祭と応真のコンビも、トボけた感じが絶妙に可笑しかった。

個々の場面は面白い、面白いの連続。つい声を上げて笑ってしまったシーンも少なくない。随所に盛り込まれたチャンバラもスリル満点で見事だった。とは言え、全体としてどういう話なのかと考えてみると、よくわからない。錯綜するストーリーの中から次第に何らかの意味が浮かび上がって来るのかと期待したが、そういう仕掛けもなかった。最初はゲームの世界に取り込まれた生徒を先生が助けに行く話なのかと思った。しかし、いつの間にかミイラ取りがミイラになり、先生があちらの世界でも主役級の「魔王」になっている。しかもなぜそうなってしまったのかがよくわからない。そもそも魔王という奴はどの程度の悪者なのか。人類を滅ぼそうとしているのか。そいつがいたら誰か困るのか。そういう情報がまったくない。ただ魔王は、魔王だから、魔王なのだという感じ。そんな魔王と勇者は何のために戦うのかが理解不能だった。見ている間はそれなりに刺激的なのだが、見終わった後で何も心に残らない。

終演後の舞台挨拶で平田は「コロナ後も北陸の皆さんに娯楽を届けたい」と語っていた。「娯楽」という言葉につい引っかかった。まるで都合のいい免罪符のように響いたからだ。彼の言い分によれば、「娯楽」なのだから、テーマなど必要ない、切れ味の鋭い殺陣をお見せすれば、満足してもらえるはずだ、ということなのだろうか。しかし、1時間半も席に座っていた観客としては、この作品はこういうことを言いたかったのかと見た後で気付くようなテーマを明確に伝えてくれた方が納得できるし、何かをもらったような気分で家へ帰れるんですけど、と言いたいのだ。

「ゲーム」というキーワードでつい連想してしまったが、昨年のNetflixで世界的に大ヒットした『イカゲーム』という韓国ドラマがある。謎の無人島に集められた人々が「だるまさんがころんだ」や綱引き、ビー玉といった誰でも知っているゲームに挑戦する。最終的な勝者には数十億円もの賞金が約束されている一方、途中で負ければ命を奪われるという残酷なルールになっている。バイオレンス満載の殺伐としたドラマなのだが、それでも登場人物たちがゲームをクリアする過程でハラハラドキドキさせられたり、男女の濡れ場があったり、人間にとって本当の強さとは何かと考えさせられたりもする。しかも見終わった後で、まぎれもなく現代の厳しい格差社会を反映した作品だとわかるし、人々がこんなゲームに参加せざるを得なくなった事情についてもきちんと描かれているので納得できる。娯楽性とテーマ性は決して相反するものではなく、深い次元で両立可能なのだ。劇団羅針盤においても、「娯楽を届けたい」と宣言するからには、チャンバラカッコいい、ギャグウケる、だけでなく、作り手の思いが観客側にもちゃんと伝わるような作品作りをぜひともお願いしたい次第だ。

(以下は更新前の文章です。)

(劇評)「2人の客演が奏功して見やすく」原力雄

ひと皮剥けた、と言っても良いのではないか。12月17〜19日に金沢市民芸術村ドラマ工房で行われた劇団羅針盤の公演『教室に先生と勇者』(作・演出:平田知大)。この劇団に対しては、以前の劇評(2017/12/15「奔放なイメージに追いつけない言葉と身体」)で苦言を呈したことがあったが、今回は息もつかせぬハイスピードな展開にもかかわらず、役者たちの発声が良いのでセリフが聞き取りやすかった。特にcoffeeジョキャニーニャの間宮一輝、劇団KAZARI@DRIVEの朱門という2人の客演が功を奏したと思う。彼らと共同作業を行う必要性から、従来の飛躍し過ぎた世界観がややセーブされ、言葉が俳優の肉体にしっかりと根を下ろして普通に見やすい作品に仕上がっていた。羅針盤のコアなファンではない私にとっても楽しめた。

高校の教室。授業中に「来たか!」とか「くそっ!」などと叫んで突然出て行ってしまう生徒・加藤(能沢秀矢)は、腕や頭に負傷して包帯を巻いて帰って来たりする。担任の数学教師・応真(平田知大)は心配する。社会教師・風祭(間宮一輝)によれば、加藤はロールプレイングゲーム(RPG)で勇者として戦っているらしい。彼はゲームに熱中するあまり、先生から進路希望を聞かれた際も「勇者」と答えるのだった。同じクラスには7回も留年して今だに高校3年生の番長(朱門)がいる。いつも3階のトイレでタバコを吸っている彼もまた、ゲームの世界で役割を演じていた。応真は生徒のことを理解するため、風祭に訊ねながら、ゲームを始めてみる。その世界では加藤は氷の魔神、番長は炎の魔神、風祭は風の魔神でもあった。やがて応真は、自分がかつてゲームの世界で魔王を演じていたことを思い出していく。

スリムな体つきに少年のようなボサボサ髪の加藤、ガテン系の筋肉質な体型に人懐っこい笑みを浮かべる番長、むっつりした外見の下に野望を隠し持った風祭先生、生徒思いが高じていつの間にか魔王になってしまった応真先生とそれぞれのキャラクターが役者にぴったりとはまって魅力的だった。4人の登場人物が現実(高校)と虚構(ゲーム)の世界を行き来しながら、1人で何役も演じ、刀剣を手に殺陣を繰り広げる。加藤と番長のイケメン2人は現「勇者」と元「勇者」というライバル同士であり、競い合いながらもお互いをさりげなく思いやる関係性が素敵だ。番長というキャラクター自体、1980年代の学園物ドラマを連想させて懐かしかった。一方では風祭と応真のコンビも、トボけた感じが絶妙に可笑しかった。

個々の場面は面白い、面白いの連続。つい声を上げて笑ってしまったシーンも少なくない。随所に盛り込まれたチャンバラもスリル満点で見事だった。とは言え、全体としてどういう話なのかと考えてみると、よくわからない。錯綜するストーリーの中から次第に何らかの意味が浮かび上がって来るのかと期待したが、そういう仕掛けもなかった。最初はゲームの世界に取り込まれた生徒を先生が助けに行く話なのかと思った。しかし、いつの間にかミイラ取りがミイラになり、先生があちらの世界でも主役級の「魔王」になっている。しかもなぜそうなってしまったのかがよくわからない。そもそも魔王という奴はどの程度の悪者なのか。人類を滅ぼそうとしているのか。そいつがいたら誰か困るのか。そういう情報がまったくない。ただ魔王は、魔王だから、魔王なのだという感じ。そんな魔王と勇者は何のために戦うのかが理解不能だった。見ている間はそれなりに刺激的なのだが、見終わった後で何も心に残らない。

終演後の舞台挨拶で平田は「コロナ後も北陸の皆さんに娯楽を届けたい」と語っていた。「娯楽」という言葉につい引っかかった。まるで都合のいい免罪符のように響いたからだ。彼の言い分によれば、「娯楽」なのだから、テーマなど必要ない、切れ味の鋭いチャンバラをお見せすれば、満足してもらえるはずだ、ということなのだろうか。しかし、1時間半も席に座っていた観客としては、この作品はこういうことを言いたかったのかと見た後で気付くようなテーマを明確に伝えてくれた方が納得できるし、何かをもらったような気分で家へ帰れるんですけど、と言いたいのだ。