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mahaloな相談<3月のチラシ>

3月くうきのチラシ「mahaloな相談」の<お答え>全文をアップしました!
チラシの続きが気になる方は、こちらからどうぞ!

<青年センターが無くなってしまうというお悩み>
10年近く通っていた青年センターが無くなってしまいます。お芝居やダンスを観たり、歌を聴いたり、いろんな人とおしゃべりしたりすることのできた場所がなくなってしまいます。いつもひとりぼっちで苦悩していたわたしが癒やされる場所や時間がなくなるのではないかと不安です。どうしたいいでしょうか。
50代 男性


<お答え>
くうきのチラシ「mahaloな相談」も今回でおしまいです。今回はわたし自身の悩みです。自分なりに考えて答えを出してみました。

青年センターはなんだか、高度経済成長期に市街地に取り残された空き地のような空間でした。少なくともわたしが知っている10年ほどはそんな場所だったような気がします。わたしはこれを勝手に「青年センター空き地理論」と呼んでいます。空き地というのは、使いみちがまだ確定されないまま放置されている土地の呼び名であります。そこに近所の子どもたちが集まってきて鬼ごっこやかくれんぼや戦争ごっこをしたりします。雪が降れば雪合戦や雪だるま作りや場合によってはかまくらだって作れちゃうかもしれません。子どもの成長に重要な影響を与える遊び場です。

本当は土地には所有者という人がいます。その土地の持ち主です。本来ならば土地の持ち主がその土地の使い道を決めます。しかし、時としてどんな使い道がいいのか決めづらい場合もあって一定期間、使い道を決めずに放置されていることが、昔はままありました。そんなところを子どもたちはちゃっかり見つけて遊び場にしたのです。青年センターは、もちろん福岡市所有の建物でその使い道も条例によって定められていました。ですから、むかし子どもたちが集まってきて遊んだ空き地とは法律的には異なるものでしょう。ですが、なんとなくその雰囲気が、わたしには空き地のように感じられたのでした。何もかもがギチギチに取り決められ、一分の隙もないようなストレスフルな昨今の超超管理社会において、空き地のような雰囲気が醸し出される空間が、青年センターに創出されていたのは奇跡だと思います。

しかしながら、奇跡はそうそう長続きはいたしません。10年以上も続いていたのですから十分長いのですが、そろそろ終わりかなと薄々感じていたらやっぱり終わってしまいました。本来の使われ方が決まったようです。風の噂では商業施設の一部になるとかならないとか…資本主義経済体制では商売が第一ですから、きっとまっとうな使われ方でしょう。それはさておき、残されたわたしはどうしようかというのが、今回のお話です。

今まで青年センターで劇を観たり、ライブに参加したり、おしゃべりをして心を癒やしていたわたしは、その場を失うことになります。考えられる一つの解決策は、同じような活動を他の場所に求めることです。これまでに知ることのできた劇団の方々の公演を他の劇場に観に行ったり、気になるミュージシャンの活動をネットで検索してライブを聴きに行ったりするのです。おしゃべりもおしゃべりしたい人と喫茶店やカフェや居酒屋なんかでお茶したり、ご飯食べながらおしゃべりするのです。ちょっとお金はかかりますが、今までが奇跡だったので仕方ありません。悲しいことに現実的な資本主義経済体制ではお金がなければ何も得ることができないのでしょう。

そして、もう一つの解決策は、自分の中に空き地をつくるという方法です。今書きながら思いつきました。自分を空き地にするのです。自分自身の使いみちを決めつけずに自由に自分を使うのです。わたしは自分でも知らないうちに、あ~しなきゃ!こ~しなきゃ!と自分で自分を縛りつけてしまうことが良くあります。もちろん、仕事なんかはしなきゃいけないことで成り立っていますから、決まった通りにしなきゃいけないでしょう。だから、ちょっとくらいは無理をしてでもやります。でも、やり過ぎには十分気をつけようと思うのです。脳は身体の痛みを無視する傾向があるからです。ちょっとでもきつく感じたら休もうと思います。嘘でも何でもついて休みます。そうしなければ、自分を空き地にできません。自分をギチギチに使いまくっていたら、自由に遊ぶための余裕がなくなるじゃありませんか。

もう、50を過ぎてるし、そう先は長くない。しかも、たいして社会に貢献できる見込みもないので、後はやりたいようにやるつもりです。それに、今年の目標は「わたしは幸せになる。」です。わたしは、周りの人が幸せじゃないと幸せになれません。困ったり、つらそうにしている人が身近にいると心が痛みます。とてもじゃないけど幸せなどとは思えません。ですから、これまで、わたしが我慢して周りの人が幸せになるのであればと考えたりもしてきましたが、どうも、うまくは行きませんでした。無理に我慢をしてもすぐにパンクして周りに八つ当たりをするのがオチだったのです。その結果、周りの人を却って深く傷つけてしまうのでした...というようなことに最近気づき、周りを幸せにするには、まず、「わたしが幸せになる。」のが先だと決めたのです。わたしがそう決めたのです。なので、自分の幸せを追求したいと思います。

でも、こんなふうに書くと、なんて自分勝手な奴なんだろうと眉をひそめられるかもしれないので、ちょっと言い訳をしておきます。わたしが幸せを追求すると言っても、そこには、他の人にも彼らが追求したい幸せがあることを理解して、それを最大限に尊重するということを含んでいます。例えば、わたしが恋人(まぁ、そんな相手はもちろんいませんが...)と休日、かき小屋に牡蠣を食べに行きたかったとします。ところが、彼女は出かけるのが嫌で家でビデオを観ていたいと言ったとします。わたしの幸せ追求の一番は恋人とかき小屋へですが、彼女の幸せ追求のナンバー1は家でまったりビデオ鑑賞です。このままだとわたしの幸せは実現できません。力づくで無理やり彼女を拉致してかき小屋に連れていくこともできるでしょうが、そんなことをしても彼女に嫌われるだけで下手をしたら警察に訴えられて逮捕されます。嫌がる人に自分の思い通りのことさせることができるのが権力というものです。わたしは権力を嫌悪しています。

ですから、もちろんそんなことは致しません。しょうがないからひとりでかき小屋に行くという選択肢もあります。しかし、それでは大好きな彼女と美味しい牡蠣を一緒に食べるという幸せの重要な要素が抜け落ちてしまいます。短気は損気です。少し冷静になってみます。そこで、彼女に「牡蠣は好き?」と尋ねてみます。どうも、好きなようです。できれば、今の時期に美味しく食べたいと思っていることも聞き出せました。そうなれば、また別の方法も考えることができます。彼女が家でまったりビデオを鑑賞している間にわたしがかき小屋に出かけて行って牡蠣を買ってくるのです。それを家でホットプレートを使って焼いて、二人で一緒に美味しく戴くのです。これでめでたしめでたし。もちろん、使ったホットプレートの後片付けはわたしがやります。

要は「俺を幸せにしろ!」ではなくて「わたしは幸せになりたいから、そのためにどうすればよいかを考えて、そうやる。」ということです。問題の解決です。周りの人の幸せとのすり合わせが難しいのですが、ともかく、周りの人の幸せを探り、調整を図らなければ、わたしの幸せも実現できません。どうせ、この世はろくなもんじゃない!とわたしの幸せを投げ捨てて布団をかぶって引きこもるのも一つの手ではありますが、もう、50だしそう先は長くないので(昨晩も寝入るまで頭頂部に変な痛みを感じていました。脳梗塞かもしれません。)やれることは、やってみようと思うのです。そして、やれることは、やってみようと思えるためには、どうしたってわたしには余裕が必要なのです。余裕がなければそんなめんどくさいことは、わたしには絶対にできないからです。

思えば10年前に青年センターを訪ね当てた時には、定職も収入もなく、不安でいっぱいでした。この10年なんとかかんとか生きてきました。これも全ては周りの方々のお陰です。わたしひとりではなにもできはしませんでした。でも、まぁ考えてみれば当たり前のことです。人はひとりでは生きていけません。誰かと寄り添い、苦楽を共にし慰めあったり、励まし合ったりしなければ、とても生きてはいけないのが厳しい現実です。ただ、人と人との関係の持ち方はこの数十年ですっかり変わってしまいました。きっと、昔のやり方は通用しないのです。今、見つけなくてはならないのです。わたしは青年センターでいろんなことを学んだのだと思います。ちょうど子どもたちが空き地で遊んで人とのつきあい方を学んだように...

その空き地がなくなるのです。神様は、たぶん、わたしに「もう、大人になれよ。」とおっしゃっているのでしょう。そうですね。大人になります。

さようなら。
青年センター
ありがとう。

Mahalo