日本人と記録の力 | 熊本アエロのブログ

熊本アエロのブログ

メディア・政治・経済関係の雑談

今日からFlashの授業が始まります。たまに「私はFlashがあまり好きでなくて・・・」という人がいますが、なんでなんでしょう?もう古いのかな。

で、今日の本題は「日本人と記録の力」。

『日本人は、メモや日記を数多く残してる稀有な民族だと聞いたことがある』

上記の文章は桐野夏生氏が東野圭吾の小説「悪意」の文庫本解説で書いた文章の冒頭部分です。

なるほど、古典の文学作品でも「日記」のついたものが多いのも、日本人の気質によるところが多いのかもしれません。日本が世界に出る以前から、おそらく識字率が恐ろしく高かったのも、日本語が「読み書き」に適してるのも、そのせいかもしれない、とか考えてしまいます。それでも自分たちの使う文字(漢字) を一生勉強している民族ってのも珍しいと思います。

日本語が敬語や言葉遣いで男女やその人たちの上下関係も識別できるようになっているのも記録好きな面があるのかな、とか。

ブログが主に日記に使われ、世界のブログで使われてる言語の一位が日本語(英語と同等くらいの割合)なのもうなずけます(海外ではブロガーと呼ばれる人が基本ニュース発信などにつかっているらしい)。ネット人口比で世界一メールを使ってるんじゃないんでしょうか?

「悪意」は東野圭吾のミステリーでもいわゆる「叙述トリック」を使った作品としては異色の面白さというか、読者を錯覚させていくと同時に作品内で主人公の小説家が「手記」という手法を駆使して刑事を騙していくという「小説の中で犯人が叙述トリックを使う」というものなのですが、それに関して桐生氏も「記録は本当だという錯覚を引き起こさせる力がある」という事を言っておられて、実際に私たちも書いていることが自分が知っていることを全部書いているわけでもないし、正確に書いているかもわかりません。自分に都合の悪いことは書かないし、「当たり前のこと」、つまり同時代に生きてる人が情報共有していることは書きません。

「この文章は日本という世界の経済大国の埼玉県に住んでいる私がノートパソコンという情報機器を使ってキーボードという入力装置のローマ字入力によって(以下略w」などという事は書かないのです。まあそれくらい現代ではほかの資料を見れば当然なのですが、昔は記録したものも少ないし、特に宗教的に当然の行動については記録しません。その時は記録する価値がないほど当然の行動が、のちの時代は当然ではなくなるということです。

それでも「記録」「文字で書かれたもの」というのは誠実な感覚を受けて、話していて「それはウソだろー」と思うことが、文字情報だとどこからどこまで本当か分からなくなります。
その最たるものは朝日新聞の「従軍慰安婦の強制連行」に関する記事でしょうか。新聞に載った情報が長い間事実として利用されています。
「南京大虐殺」も同じような経緯ですね。

日本人の特性を逆手に取った、逆に日本人が一番無防備な所です。

この部分の安全保障の観点が欠落してしるのは「記録好き」だからと「記録の力」に疎いからにほかなりません。

余談ですが、作家の井沢元彦さんも「逆説の日本史」のなかで、歴史家の欠陥の一つとして「データ(記録)至上主義」があると指摘されており、「その時代で当然のことは記録として残らない」ことで1000年後(前)の日本人がその時の日本人と同じ考えを持っているとは限らないという前提で過去の記録は読み解いていかなければって話ですね。

久々に難しいことを書いてしまいました。

アエロ