輝く季節の中で!の巻<前編>
11月21日
相模湖の水あめのように滑らかな湖面を輝かせて朝日が昇る。
まるですべての生き物に希望を灯すかのような優しい光が、辺り一面を暗から明へと塗り替えてゆく。
・・だが、そんな光を当ててやるなどもったいない生き物もいるのだ。
ほら、そこで死んだ魚のような暗く濁った眼で朝日を眺めている、ピンク色の変なロードレーサーに乗った奴の事だ。
私は「自転車で遠くへ走りに行く」という、この世で最も愚劣で下らない行為を実行している真っ最中であり、しかもバカらしいと自覚をしているのにも関わらず、どうしてもこれを止められない。
それがまさに自分自身が「下らない」ということ。「この世から早急に消えさるべき生き物」なのだということを証明しているのだ。
こうした事実を受け止めれば受け止めるほど、気分が重苦しくなり、ペダルだってズッシリと重くなり、もう全てが嫌になってヘルメットを地面に叩きつけ、大地に膝をついてツルピカ頭をかきむしりながら、どうしようもなく雄たけびを上げたくなるのだ。
だが、そうはならない。別にいいじゃん。
みんなだってそうじゃん・・と、自分を正当化してしまうのだ。
まったく改善の余地なしで、本当にどうしようもない奴である。
私のような生き物の遺伝子は、次世代に伝えるべきではなく、私を最後に潰えるべきである。
・・200%ありえない話だがもし、私が巨乳で童顔で小柄でアニメ声の♀と結婚し、子供をもうけたと仮定しよう。
もう間違いなく、他の人と同じように子供をペット感覚で扱い、滅びゆく社会に子供を産み落としておきながら、その子の将来の事など一ミリも考えず、周囲に子煩悩である事をアピールすることで自尊心を満たすだけという、愛情の欠片もないクソ親になることだろう。
また、その点を人に突っ込まれれば、「俺は仕事が忙しくて、子供の将来の事など考えてる時間などないわ!文句あるならお前が政治家になって社会を変えればいいだろうが!!」とか、論点をすり替えてとんでもなく無責任な事をほざき、自転車に乗るとか好きな事をやる時間はしっかり確保という、人間のクズに成り下がるのも間違いない。
どっかの政治家が言っていたが、少子化対策のために子供を産みだせというのは、明らかにおかしい。まずはその少子化の原因が何なのかと考えなくてはならない。
子供は国を支えるための道具ではない。男の子は働くためや戦争に行くための戦士じゃない。女の子は子供を産みだすための機械じゃないんだ。
人の親になるには、自分の子供のためになら、どんな努力も苦労も厭わない無償の愛情。子供が幸せになるにはどうすればいいのか、将来にわたってずっと考え続ける哲学を持つことが必要なのだと思う。
また、世の中が破滅に向かっており、子供が幸せに生きるに値しないと判断して人の親になる事を断念するという、冷静な判断力も備えるべきなのではないだろうか。
人の命をこの世に産み出すという事は、重大なる責任が伴うという事なのだと思う。
つまり、私のように愚かで無責任で自分勝手な人間は、人の親になどなってはならないのだ。
まあ、私には親になりたい欲望すらも無いけども。
だが、私が自転車に乗りたいという欲望を止められないのと同じように、なりふり構わず欲望に向かって突き進む。それが人間だ・・。
・・それにしても疑問が残る。
なぜ私のような人としての愛情を持たぬ『人間失敗作』が出来上がってしまったのかってことだ。
もしかしてだが、欲望ばかり追い求めるだけで人としての愛情を持たぬ人間が育つような仕組みが、この社会のどこかにあるのではないのだろうか。
実は、官邸のHPに『大人や行政が主体となって家庭、学校、地域で取り組むべきこと』としてこのような事が書かれているのだ。
http://www.kantei.go.jp/jp/kyouiku/1bunkakai/dai4/1-4siryou1.html
『子どもを厳しく「飼い馴らす」必要があることを国民にアピールして覚悟してもらう』
これが政府の方針だとは驚きである。子供はペットなのだと言ってやがる。じゃあ、それを産みだす親だってもちろん厳しく人間扱いされてねえよな。
それに「覚悟してもらう」って何だ?これから戦争するから子供など人として扱わなくていいので、お国のために差し出して戦わせる覚悟を決めろってことかね?そもそも、上から目線で主権者である私たちに命じているところが危険すぎる。
※是非、他の所も見て欲しい。あまりにも突っ込みどころ満載過ぎる。つーか、こんな頭がおかしい方策をHPに堂々と掲載している日本政府って、相当ヤバいという事が良く分かるだろう。もちろん、これについてはすでに官邸および内閣府に、こりゃどういうことやねん!さらに上から目線で主権者である国民に対して命じるとは何事か!と抗議しておいた。
なるほどねー・・道理で。私は何となく分かってきたよ。彼らがどのように私たちから人としての愛情を奪っているのかが・・。
「うちの子可愛いでしょー!」と誰かが言うと、みんなが「本当、可愛いですねー!」といい、私が「確かに可愛いけど、その子供の将来が不安ですね。」と言うと、一気にしらけたり。
また誰かが「自転車でこんな遠くに行ったぜ!こんなに坂を上る所要時間が短縮できたぜ!」というと、みんなが「おー!凄いですね!」といい、私が「今はそんな事に夢中になっている場合じゃないでしょう?」というと、同じようにしらけてしまう。
時限爆弾がカチコチと爆発の時を刻んでいるのに、それを止めようともせずにみんなで踊り続けており、誰かが危ないから止めようぜ!というと、「せっかく楽しんでるんだから、つまらない事を言うなよ」という異常な状況。
とんでもない破滅が自分に降りかかってくるのに、まるで他人事なのだ。
一体何がこのような状況を可能にしているのだろうか?
それはつまり、他人事だと思わせれば良い。
この社会でひとりひとりに「立場」に合わせた「役柄」を与えてしまい、「演劇」の中での出来事だと錯覚させてしまうのだ。
役者は「世間」が用意した台本を読んでいればいい。台本にない台詞を言う者がいれば、冷たい目を向けてシカトすればいい。
「立場」や「役柄」こそが大事なのであり、人間本来の存在意義などはどうでもよい。というふうにすり替えてしまう。
自分は「世間」の立場に沿った役柄を演じているから、後の事は誰かがその「役柄」をこなせばいいと思い込むのだ。これがまさに、愛情の無さと無責任さに繋がっているのだ。
つまり、子供の将来を考えるのは他の人の役割なのだと思い込んでしまう。
私はもう、こんなつまらねえ「学芸会」はウンザリである。
いい加減に、与えられた台本は捨てて、自分の頭で考えて人間性を取り戻すことから始めなくてはならないのではないだろうか?
子供のいない私が言うとシラけるだろうし、冷たい目を向けられてシカトされるのを承知で言うが、これでは未来を生きる子供があまりにも気の毒である。
子供は親を見て育つものだと思う。『人の形をした他の生き物』が育てれば、その子もそうなるだろう。犬に育てられた猫は、犬そっくりの行動を示すようになるようだしね。
・・と愚かな私は自分に言い聞かす。
おっと。『旅』の事について全然書いていなかったが、すでに日付が変わって真夜中の新潟県の糸魚川に到着である。
先月もここにやってきたが、性懲りもなくまたやってきてしまったぞ。
私は8号線沿いにあるバス停のベンチに横になった。
少々寒いけど、凍死する前には目が覚めるだろう。
それにしても、大型車さえ爆走してこなければ静かで良い夜なのだが・・。
地響きを立てて走り去るトラックの騒音がいつの間にか遠のいて、私は眠ってしまっていた。
<つづく>