どんなときも!の巻 | クレイジートラベラー!!~ロードレーサーで行く変態旅行記~

どんなときも!の巻

3月12日AM2:00

 

草木も眠る丑三つ時、とはよく言ったものだ。この世のすべてが眠りに落ちたような、漆黒の静寂ばかりが無限に広がるこのサイクリングロードの行く先は、もしかしたら誰も知らない常世の異世界なのかも知れない。

 
その常世へ向かっているのか、頼りないライトの明かりを人魂のように揺らしながら、一機のロードレーサーが走っている。
 
『ああ、眠い!寒い!!やっぱしこんなアホな事はするもんじゃねえな!!』
 
他に誰か居ないものかと辺りを見渡しても、やっぱり眠っていないのは私のような変態と、凍るように寒い夜空に浮かぶ丸い月だけのようだった。
 
急峻な山の斜面に開かれた温泉街。石段に寄り添うように立ち並ぶ、温泉宿やお土産屋さんを覗きながら行き交う観光客たち。
 
ここは上州三名泉のひとつ、伊香保温泉である。東京から160kmくらいしかなく、自転車趣味には最適な距離なのだが、私は今にも死にそうなクソジジイのように、フラフラとよろけながら石段を上っていた。
 
以前の私であれば、『この程度の距離でへたばるなんて情けねえ!若い頃はママチャリで普通に来てたじゃねえか!!修行が足りぬ!!!』とかいって、身体がなまりきった自分を奮い立たせていたであろう。
 
・・しかし今となってはそう思わない。
 
『俺はまた<自転車趣味>を行使してしまった・・今年に入ってもう二度目だ、本当にどうしようもないカスだ。こんな愚かで腐った行為をしてしまうのは、俺の頭ん中にたんまりとチンのカスがつまってて、それがどえらい悪臭を放っているからに違いない・・。』
 
基本的に人間は地球のガン細胞なので、やることなすこと全てが母なる星、地球を滅ぼす結果につながる。それなら何もしなければ良いのに、<自転車趣味>などという愚かな行為で<人生の時間つぶし>をしてしまうのは、それこそ生物としての修行が足りないからなのだ。
 
伊香保の日帰り温泉の大広間で寝転んでいたら、ふと昨日(3月11日)で東日本大震災から6年経ったということを思い出した。
昨日は一日中、寝転び続けて何もしなかったので、すっかり忘れていたのだった。
 
私は頭がとても悪いので、何らかの特別な日ってヤツを覚えておくことができない。そもそも<特別な日>というものが必要なのは、人間が非常に忘れっぽいからなのだろう。
 
 
つまり人は<特別な日>を覚えていたとしても、それから何かを学ぶ訳でもなく、分かったようなフリをするだけなのだ。人間の歴史とは<人間は何も学ばない>と言うことを教えてくれるものだ。
 
 
私は6年前に大地震が起こった日を忘れてしまうし、あの大惨事で居なくなってしまった人たちを悼むという、優しい心を持たない冷たい人間である。
 
つまり人間のクズとは、私のような者の事を言うのだ。
 
ただ、そんなゴミカスである私に出来ることと言えば・・。
 
私は、高崎のとある公園にやってきた。
ここには、3.11に起こった大地震による原発事故から学んで、危険な原発を無くそうと思う人たちが集結していた。
 
ネット上で群馬県は『未開の地グンマ-』とか、ものすごい言い方をされているようだが、現実には意外とマトモな人たちが居るものだ。(※自転車で山を登ることばかり夢中になるバカは除外)
 
『今日は1500人は集まってます!』と主催者の方の嬉しそうな声が公園の広場に響き、私は思わずズッコケそうになった。
自転車で群馬県の山を登るイベントには何千人も集結するというのに。
 
・・まあ、こんなもんだ。これが人間という生き物である。
大抵の人間は『権威』にひれ伏し、目の前の楽しさばかり優先し、周りに合せて行動するだけの個体であり、自分で状況を把握し、本当は今何をなすべきか考えて行動する事が出来るマトモな個体はごくわずかである。
 
 
日本の場合は特に国民の家畜化が進んでおり、『自分たちを苦しめる権力者の言いなりになり、それに反する者を叩く』という、かなり素晴らしいレベルに達している。つーか、家畜だってこれほど酷くはない。
 
日本人にはすでに遺伝子レベルで『家畜以下の家畜』が組み込まれているため、もうダメだし、私たちに待っているのは圧倒的破滅である。
 
私は悩み続ける。日本人はこの地球に生きる価値もない、破滅的な情けない生物に成り下がった。こんな国の未来を守ることに何の意味があるというのだろう。
 
いいや、何もしなければさらなる悲惨な破滅を招く。
どうしたらよいのかと悩み、答えを探し続けなければ、堕落するだけなのだ、人間という生き物は。
 
だから今の私に出来ることは、原発事故が起こったということを忘れず、例え無意味だと分かっていたとしても、私たちや子孫の未来を守るために行動し続けるということなのだ。
いや、私が私らしくあるために・・だな。
 
デモ隊は『子どもたちのために原発を無くして未来を残せ!』と声を張り上げて、高崎の街へと繰り出していった。
 
 
3月19日
東北の被災地を一泊二日で巡ってきたバスが、宮城県女川のとある港に到着した。
 
『途中に見えた不気味な煙突、原発かなあ。例え復興してもアレがまた爆発したら何の意味も無い・・。
 
作業着を装着した私は、15人ほどの参加者と共にバスを降りた。今回は養殖に使う土嚢袋を作る作業を行うそうである。
 
復興とは、一度衰えたものが再び元の盛んな状態に戻ること。という意味なのだが・・もともと、過疎だった場所が大きな被害を受け、住民が他所の場所へ避難してしまった後も『元の状況に戻る』事が出来るのだろうか。
 
果たして、復興支援に意味などあるのだろうか。
この世に居なくなってしまった人たちを悼むという、人間らしい優しい心を持たない、私ごときゴミカスが、この地に足を踏み入れてよいのだろうか。
 
 
あれこれ考えてみたが、今のところ私の出した結論は『何をやっても無意味だけど、何とかするべき現実に対して何もしないのは、さらなる無意味である』ということであった。
 
これだって間違っているかもしれない。でもいい。
 
いつもどんなときも、何をしたらいいのかと考え、行動し続ける日々が、私が私らしく生きるための答えになるのだから。
 
被災地でお土産を買いあさって経済的に支援をし、一生懸命生きている地元の方に寄り添うことくらいなら、私にも出来そうだ。
 
私はスコップを持ち、熱心に土嚢袋に砂利を入れて入れて入れまくり、依頼人を呆れさせるくらいに動いた。
 
今の俺に出来るのはこれくらいしかねぇ・・。
 
 
昼飯をみんなで食って、いよいよお別れの時である。
立ち去っていく私たちのバスに『支援に来てくれてありがとう!』と地元の方がニッコリと笑って手を振っていた。
 
こちらも手を振り返すのだが、そんな彼らの姿を見ていると、何だか、どこかの暖かく穏やかな海をぷかぷか浮かんでいるみたいに、私の心は安らぐのであった。
 
 
今回のエンディングテーマ『どんなときも』