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鯛を釣る少年②
樋口武弘。
面会受付の台帳に、自身の名前を書き込む。
続けて、右の空欄にペンを走らせる。
面会患者名、樋口美香、三○五号室。
もう何度、名前を書いただろうか?
そんなことを考えながら、薄汚れた白い壁紙が貼られた廊下を歩く。
どこか無機質な空間にカツンカツンと響く足音が、自身の憂鬱を増幅するようで気味が悪い。
美香の病室へ向かう前に、緩和ケア科の外来診療室へと向かう。
すでに日常診療時間は過ぎており、外来の灯りは落とされていて薄暗い。
唯一、煌々と蛍光灯が灯っていた診療室の扉をノックする。
「樋口美香の夫です」
「……どうぞ」
扉の先に座っていたのは、年配の男性医師だ。
思い返せば、まだたった三ヶ月の付き合いだが、随分と濃厚な時間を共有している。
彼は、美香の担当医だ。
患者用の丸椅子に腰を下ろすと、医師がゆっくりと口を開いた。
「まずは、先日のCT検査の結果をお伝えします」
その口調から、良い結果なんて望めないことが、ありありと伝わった。
あらかじめ期待するなと言わんばかりの、医者特有の予防線だ。
ますます聞く気が失せる。
しかしどんなに悪い結果でも、聞く義務がある。
そして、自分以外結果を聞く人間がいない。
他ならぬ、美香の体のことだからだ。
パソコンの画面には、美香の全身を輪切りにした画像が並んでいた。
はじめてみた時は、まるで人体解剖図鑑のようなその画像をおぞましく感じたが、何回も目にしていると、嫌でも慣れてくる。
医師がペンで画像を指し示す。
「抗がん剤後の精密検査ですが……、肝臓と……、お腹の壁、それに骨……、あとは脳にも転移が広がってしまっています」
抑揚のない口調で、淡々と説明する。
初めは違和感が強かった医者独特の口調は、どんなに厳しい結果であろうと、聞き手を混乱させないためのものなのだと、最近ようやく理解できるようになった。
医師の説明は、総じて厳しいものだった。
全身、がんの転移まみれだ。特に頭の中には、素人でもわかるほど不自然な円形の影が沢山映っている。
体を埋め尽くす腫瘍の影は、世の中の不条理を感じさせた。
「せっかく頑張っていただいた抗がん剤ですが、全くと言って良いほど効果が認められませんでした」
芝居がかった大袈裟なため息をつくと、医者がこちらを見据えた。
「やはり、先日お伝えしたとおり、余命は一ヶ月もないと思います」
余命一ヶ月。
もう何度、絶望の言葉を聞いただろうか……。
はじめは信じることなど、できようもなかった。
散々否定もした。
まさか、美香との人生がこんなに簡単に終わるなんて、思ってもみなかった。
しかし、何度も同じ言葉を聞くうちに、納得させざるを得ない状況なのだと、脳が強引に理解するようになった。
「今日、旦那様をわざわざ別にお呼びしたのは、奥様にどのように説明するのかの相談と、今後のことについてです……」
芝居がかったセリフ。
こちらの反応がなかったことを訝しんだのか、医者がもう一度口を開いた。
「退院して、自宅で最期の時間を過ごしませんか?」
それは、何度も考えたし、自分だって本当はそうしたい。
そうするべきだと思っている。
「しかし、美香は息子にこんな姿を見せたくないと言い張っているのです」
医師がため息をついた。
「それも理解はしますが、しかしご家族で過ごせる最後の一ヶ月になるかもしれないのですよ。余命宣告を受けた患者さんは、どうしても思考が混乱しがちです。辛いとは思いますが、本当に大切なのはなにかを、あなたが導いてあげるのが大事ですよ」
はい……、と答えるしかなかった。
『樋口美香』
と書かれたプレートが掲げられた扉にかけた手が止まる。
いつものことだ。
美香が入院してから、もう二ヶ月も経つというのに、未だに慣れない。
扉の先の世界は、時の流れが違っているように思う。
美香は、想像を超える速さで変わっていく。
もちろん、良い方にではない。
確実に死に向かっていく美香を見るのが辛かった。
自分の考えを振り切るように首を振る。
一番辛いのは、美香だ。
死への恐怖と闘っている彼女の気持ちを思うと、心が締め付けられる。
一つ息を吐いて、扉を開ける。
個室とはいうものの、黄ばんだ壁紙の質素な部屋に、置いてあるのは簡素なタンスとテレビだけ。美香はずっとこの無機質な部屋で時を過ごしているのだ。
美香が、ベッドからぼんやりと窓を見ている。
その先には、暗闇が広がるばかりだ。
「美香……。調子はどうだ?」
ようやく気づいたのか、美香がこちらを向いた。
抗がん剤で抜け落ちた髪、痩せこけた頬、それに脳転移で顔面神経の麻痺が起こり左右高さの違う瞼……。
ほんの三ヶ月前の美香の姿は、どこにもない。
「きてたんだ……」
掠れた声からは、生気は感じられない。
「ああ。先生から話を聞いてた」
「CT検査の結果だっけ……。どうだった?」
一瞬言葉に詰まったが、あの絶望的な結果を、そのまま伝えるわけにもいかない。
伝える意味もない。
「変わらず……かな。薬の効果が出るのは、これからだって」
「嘘でしょ」
「え……」
「悪くなってるんでしょ? 流石に自分の体だからわかるわ」
「……すまん」
それきり、二人の間に沈黙が流れた。
なんでこんな事になったのだろうか?
何もしていない。
ただ家族の幸せを願っていただけなのに……。
これが運命だというのならば、あまりに残酷だ。
抗えない。
時を戻すこともできない。
夫婦で何か悪いことをしたわけでもない。
なぜ私たちなのだろうか?
果たして、この世に神などいるのだろうか?
美香は、虚ろな瞳で暗闇を見つめている。
「なあ美香……」
ゆっくりと振り向いた美香の瞳は、混沌としている。
「……なに?」
「最期は家で過ごさないか? 優斗も、美香に会いたがってる」
優斗の名前を出した瞬間、美香の瞳に大粒の涙が浮かんだ。
「こんな姿、優斗に見られたくないよ……。会ったって、私はすぐに死んじゃうんだから、それだったら、優斗の記憶の中では、綺麗なまま死にたいの……」
美香の声は、嗚咽にまみれていた。
何が正解なんだろうか?
美香の意見を尊重するべきか、それとも、優斗の気持ちを優先するべきか。
それとも、家族が再び一緒になることで、新しい未来が開けるのだろうか?
小さい背中が、脳裏に蘇る。
大人用の釣竿を、毎日必死に放る優斗の背中。
三日もすれば諦めると思っていたが、もう一ヶ月以上経つのだ。
想像以上に、優斗の意思は強かった。
それだけ美香に会いたいのだ。
「優斗は、もしかしたら俺たちが思っているより、ずっと強いかもしれないよ」
「……え?」
「優斗は、美香に会うために、川で鯛を釣ろうとしている」
「川でって……、そんなことできるわけないじゃない」
「そうだな……。でも優斗はやろうとしてる」
川で鯛を釣ったら……。
なんであんな理不尽な条件を提示してしまったのだろうか?
美香の気持ちを汲んで?
……違う。
優斗にとって、優しい嘘を選んだ?
……それも違う。
私が抱えきれなかった世の中の理不尽を、優斗にぶつけてしまったのだ。
一人では耐えきれなかった。
それだけだ。
自分の弱さに辟易する。
美香の苦しみも救ってやれない。
一人で理不尽に争うこともできない。
優斗の望みを叶えることもできない。
しかし、懸命に川に向かって竿を振り続ける優斗を見ていると、想像する以外の未来も掴むことができるんじゃないかと思えてきた。
「もし、……もしも本当に優斗が川で鯛を釣ったら、家に戻ってこないか? 美香」
思いもよらなかった言葉が、口から漏れ出た。
続く
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