いよいよ、

明日発売です

 

 

 

短編小説も、本日で終了

 

1、2話はこちらから

下矢印下矢印

 

 

 

 

鯛を釣る少年③

 

千……、三十……何回目だっけ?

 

とうとう、竿を振った回数が分からなくなった時、夕焼け小焼けの音楽が鳴り響いた。

 

「優斗―」

 

パパの声が、背中から聞こえてくる。

 

帰る時間だ……。

でも、今日だけは振り向きたくなかった。

 

もうちょっとなんだ……。

今日しかないんだ。

 

パパの声を無視して、僕は千三十数回目の竿を振った。

 

五メートル先の浮きを眺めていると、隣にパパの気配がした。

僕は、ずっと前だけを見つめ続けた。

 

太陽が、海面に落ちかかっている。

 

夕暮れ時。

 

もう少し……。

もう少しなんだ。

 

今日はまだ、帰りたくない。

 

「どうだ、優斗。釣れそうか?」

 

パパの言葉に、僕は首を振った。

 

「そうか……」

 

少しの間を置いて、パパがまた口を開く。

 

「そろそろ帰るか」

 

僕は、もう一度首を振った。

 

「今日はもう少しやりたい」

 

少しだけ考え込んだパパは、小さく「そうか」とつぶやいた。

そのまま、僕が投げ込んだ浮きをずっと見つめ始めた。

 

こんなパパの反応は初めてだった。

毎日五時きっかりに川辺に来て、すぐに僕を家まで連れて帰ろうとするのに。

 

僕は思わずパパの顔を見た。

 

「いいの?」

 

パパは、僕の言葉には答えなかった。

ずっと浮きを見ている。

 

「なあ優斗……」

 

「……なに?」

 

「鯛……、釣れそうか?」

 

思わずパパの顔を見たけど、沈みかかった太陽の光があまりに眩しくて、どんな顔をしているのかは、わからなかった。

 

「釣れるよ。今日なら釣れる」

 

「……なんでそう思うんだ?」

 

「理科の先生に聞いたんだ……。川で鯛を釣る方法ってありますかって」

 

パパは無言で、僕の言葉に耳を傾けている。

 

「川と海の境目、海水が混じってるところだったら、鯛が迷い込む可能性があるんだって」

 

その言葉に、パパが大きく目を開いた。

 

「……汽水域か」

 

「うん、先生もそう言ってた。それで、その日の潮の満ち引きで、海水と川の水の境目の位置が変わるんだって……」

 

パパが、再び浮きに目をやった。

 

「今日の夕方、一番の満ち潮になるから、ここまで鯛が来るかもしれないんだ」

 

先生がわざわざ調べてくれた。

ここまで潮が満ちる日は、数ヶ月先までない。 

 

だから今日なんだ

 

五時の夕焼け小焼けの少し後の時間。

そこが、僕の最後のチャンスだ。

 

僕は、川面を見つめた。

夕日に照らされて、キラキラと輝く美しい水面。

 

来い……。

来い……、海水、来い!

 

心の中で、必死に祈る。

 

隣を見ると、パパも目を見開いたまま、ずっと浮きを見つめている。

 

祈るように。信じるように……。

 

僕とパパの心の声が共鳴したように感じた瞬間、不思議な光景が目の前に広がった。

 

水面の色が変わったのだ。

 

透き通るような川水が、少し緑がかった色になる。

 

その緑を辿るように右に視線を送っていくと、徐々に色が濃くなって、やがて真っ青な海の色になった。

 

「来た……、海が来た」

 

呟くと、緑の水面に黒い影がヌッとあらわれた。

 

ツンツンと竿が突かれた感覚が、両手に伝わる。

 

「……」

 

なんだと思った直後に、赤い浮きが物凄い勢いで、水中に消えた。

 

「えっ?」

 

次の瞬間、物凄い強さで、竿が引っ張られる。

 

「パッ……パパッ!?」

 

僕の声で、ハッとした表情を見せたパパが、大声をあげた。

 

「優斗! かかったぞ! 竿を立てるんだっ!」

 

これまで聞いたことのないような強い声に、僕は反射的に竿を立てた。

 

それに抵抗するように、恐ろしい程の力が返ってくる。

竿が冗談みたいな角度にしなる。

 

凄い力だ!

 

クラスで一番腕相撲が強い武くんなんか比較にならないくらいの、強引なパワー。

 

カラカラと回るリールから伸びる糸は、あっという間に十メートルを超えた。

 

パパは、手伝ってくれない。

何かを信じるかのような必死な目で、僕を見ている。

 

「優斗っ! 何が何でも釣り上げるんだっ! 優斗の凄さを見せてくれ!」

 

これまで聞いたことないような、パパの絶叫だった。

 

「ええっ……。でっ、でも……凄い力だよっ」

 

「負けるなっ! 負けないでくれっ! 優斗っ!」

 

それって、応援の言葉なの?

 

一瞬そんなことを思ったけど、そんな事なんて考えられなくなるくらい、糸が引っ張られる。

 

竿を立てて、必死にリールを巻く。

巻いては、再び糸が引っ張られる。

 

負けるもんかっ!

 

絶対に鯛を釣り上げて、ママに会うんだ!

 

無我夢中って、きっとこういうことなんだ。

普段出ないような力が、体の中から湧いてきた。

 

今なら、武くんにも腕相撲で勝てそうだ。

そんな自信がみなぎってきた。

 

ママに会いたい!

 

落ちかけた夕日の光に反射して、キラキラと輝いている水面。

そこから真っ直ぐに伸びた糸は、右へ左へと、まるで生きているみたいに暴れ続ける。

 

「このおっ!」

 

叫び声をあげて竿を立てた瞬間、大きな影が水面から飛び出した。

 

反り返った魚影は、三十センチはありそうな大きな体。

トゲトゲの背鰭は、恐竜みたいでカッコイイ。

体を覆う鱗は、夕日を浴びてキラキラと真っ赤に輝いていた。

 

あまりの美しさに、僕は思わず息を呑み込んだ。

 

「鯛だっ! 鯛だぞ! 優斗っ!」

 

興奮したパパの絶叫に、我に返った。

 

着水した鯛は、再び僕の竿を川に引っ張り込もうとする。

 

釣れる! 

釣ってママに会う!

 

最後の力を振り絞って、僕は竿を体に寄せた。

 

「優斗っ! もう少しだっ! 運命を変えてくれっ! 優斗!」

 

パパの言葉は、もはや意味なんて持っていなかったけど、不思議と僕に力を与えてくれた。

 

絶対に負けない!

釣り上げてやるっ!

 

そう思った瞬間、突然竿が軽くなった。

 

「うわっ……」

 

まるで、綱引きの綱を突然手放されたみたいに、僕は葦の草むらに転げこんだ。

 

鯛はっ?

 

慌てて立ち上がって水辺に駆け寄ると、さっきまで格闘し続けていた鯛が、再び水面に跳ねた。

 

美しい赤い魚影。

 

しかしそれは、あっという間に元の住処へと消えていってしまった。

 

糸はもちろん繋がってない。

 

鯛が逃げた。

 

理解したくないその事実を知った瞬間、僕は思わずその場に膝をついた。

 

まるで、完敗したボクサーみたいだった

 

足に力が入らない。

 

力一杯竿を引っ張り続けた手は震えていて、鯛の力強い感触が残っている。

 

「釣れなかった……」

 

悔しくて、涙が溢れてきた。

もう少しで、釣れたのに。

後一歩で、ママに会えたのに。

 

「優斗っ!」

 

顔を上げられずにいると、パパが飛びついてきた。

 

大きな力で抱きしめられて、息が苦しくなる。

 

「よくやった! 優斗! よくやった、よくやった!」

 

パパの声は掠れていて、言葉の間には鼻水でグシャグシャの鳴き声が混じっていて、はっきりとは聞き取れなかった。

 

「でも……、釣れなかったよ、鯛」

 

僕は、日が落ちて暗くなった川面を見ながら呟いた。

 

パパはすぐには答えなかった。

その代わり、首に回した腕にとんでもなく力が入る。

 

……そろそろ息ができなくなる。

 

耳元で聞こえるパパの声は、ずっと鳴き声だった。

 

そんな状態がしばらく続いた後、パパがようやく口を開いた。

 

「釣れたよ……。優斗は鯛を釣った。凄いよ」

 

あれで釣ったと言っちゃうのは、ズルじゃないかな?

 

そんなことを思ったけど、確かに釣り上げられはしなかったけど、釣ったのは間違いない……。

 

それに、あれはどっからどう見ても鯛だったし……。

 

ちょっと都合はいいかもしれないけど、そんな風に納得した。

 

……てことは。

 

「これで僕は、ママに会える?」

 

その言葉に、パパがピクリと反応した。

一瞬の間の後、再び絡まった腕に力が入った。

 

「もちろんだ! ママに会いに行こう、優斗!」

 

ママに会える。

 

鯛は釣り上げることはできなかったけど、そんな悔しさなんてどうでも良くなるくらい胸が熱くなった。

 

ママに会えるんだ。

 

本当は、釣り上げた鯛を持ってママに会いに行きたかったけど、そんなことはどうだっていい。

 

早くママに会いたいな。

 

Fin