死と生についての忘備録的日記 | とろけるアロマ L'oiseau Bleu ロワゾブリュ 京都在住・伊賀もんセラピスト
こんばんは〜(*^^*)
京都はもうすぐ大文字があります。ザお盆です。

私も今年は父の初盆を迎え、いつもより頭の中がザワザワしております。1つの節目であります。

父が臨終を迎えた時、悲しみを身体の痛みとして受け取りました。身体中の細胞が、自分のルーツを失った事を知っている。そんな感覚です。

すごいですね。身体はいつも今を感じているのです。未来の計画や心配、過去の思い出や後悔は頭が作り出す。瞬間、瞬間は身体が無意識の中で感じて、感情を生み出している。

病室のみんなの悲しみ、父の身体が活動を終えたロウソクが燃え尽きたような空気、看護師さんの気遣い、充満するいろんな気持ち、自分の所在の無さ、戸惑い…いろんな瞬間。時計仕掛けみたいに先の段取りを考える頭。

お葬式が終わってしばらくする迄は、この頭と身体の時間感覚の違いが凄かったです。
悲しみで身体が痛いので、否応無く自分の身体の半分は父で出来ている事を思い知らされました。

私達は1人で生まれて来るけど、その命は決して1人ではありません。大きな生命で繋がれた小さな点のようなもの。あなたが嬉しい時、きっとあなたを作っている命も嬉しいはず。

私が嬉しい時、父を側に感じます。だからきっと私の中で生きている。よく亡くなった方が近くにいる様な気がするのって、こういう事なんじゃないかなぁ〜と思うのです。

死は闇かも知れませんが、同時に生の輝きを強烈に彩りますね。命のバトンは私には重かった。私が病室に入った時には、すでに事切れていたのですが、ドスンと胸に突き刺さるものがありました。

私は生きた。お前はどうだ。

そうやって繋がって行くのですね。私にはバトンを直接渡す人はいませんが、それでも間接的に誰かにバトンを渡すのだとしたら、無駄な死は無いんじゃ無いかと思うのです。

小さな現実を作り出すのもままならない私。でも、父も失敗だらけの人生を一生懸命生きたし、私達のためにたくさん働いてくれたし、人が良すぎて騙されたりもして、誰かを助けたり助けられたり、実現出来なかった事もたくさんあったけど、まあまあ破天荒な事もして、とにかく生きた。

きっと思い通りにならないけど、だから良くて、

まあまあ頑張ったなー、もういっか。

と思って死ねたらいいなぁと、最近は思うのです。積極的に生きると積極的に死ぬは同じに見える今日この頃です。

皆さんは如何でしょうか?
では、キラキラ輝く命に感謝して
お休みなさい♪

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