目の前に見えてたスカイツリーにもずっと気づかなかった | ゆらゆらダイアリ

ゆらゆらダイアリ

あたまと性格とウツをこじらせた一人暮らし女子のダメダメな日々。



これはこの前のライフのイベ服。

ライフとワールドの新イベがはじまったけど、ワールドはかんぜんにやってない。
稲荷神社はかなりそそられたけど、観光地のイベをやる気力がぜんぜん湧かなかった。

ライフは酒場イベだからメインクエだけやれればいいなー、ってかんじで始めたけど、初日にログインできてなかったからスタートからいろいろ遅れてる。





今年の5月は異常に暑い、っていう記事をどこかで見た気がするけど、この数日ものすごい寒い。
東京の天気予報で言われてる気温は夏日になってるのに、うちのほうは半袖じゃいれないぐらい寒い。
きのうは寒波だったらしく、北風がすごくて真冬並みに寒くって、冬用の毛布とパーカーひっぱりだした。
外歩いてる人たちも冬服着てた。

いろいろそろそろ倒れてもおかしくない、っていう状態になってたから、この寒さでやっぱり体調崩した。
風邪だとおもうけど、悪寒だけして熱はなくて、ものすごい腹痛。
お腹を下してるわけじゃないのに腹痛だけすごいから、ヤクルトばっかり飲んでたら少しだけマシになった。

ものすごいだるくて、きのうはベッドから降りたらちゃんと歩けなくて、ものすごいよろよろして壁に手をつきながらトイレにいった。
でもバイトがヘヴィなシフトになってたから、ものすごいよろよろしたまま出勤した。

お腹はきゅーって全身まるまるぐらいに痛くなるし、立ってるだけでだるくて座り込みたくなるし、悪寒は時々波のように襲ってくるし、あたまのなかはぼーっとしてるだけ。
まともに仕事できる状態じゃなかったけど、いろいろ惰性で働いてきた。

バイトでいろいろめんどくさい人と働くことにも感情が動かなくなった。

なんか、感情っていう動きがものすごい鈍ってる。

友だちには先月に起こったことを話しはしたけど、そのあと、わたしと会おうとしてくれる友だちの誘いに応じれるだけの気力がなくて、いろいろ口実つくって断ってて。
じぶんのいまの感情、みたいなことはなにひとつ話すこともしてなくて。

いろいろやらなくちゃいけないことがおおすぎて、身内のだれにも「感情」のぶぶんの話をわたしはしてないし、泣いたのは看護師さんに手を握られたときと、あとは何回か涙がにじんだぐらい。
ひとりでいろいろかんがえると涙は出てくるけど、感情の波、みたいな大きな揺れはこない。

意外にこんなとき、感情ってうごかないんだ、っておもった。
わたしがニンゲン的におかしくなってるだけかもしれないけど。

友だちとかにはほんとに数人にしか話してなくて、仕事関係にはなにも話してなくて、わたしの日常は「いつもどおり」みたいに在って。
でも、非日常、というような時間はほんとに僅かでしかなくて、それが過ぎれば「いつもの日常」が記憶すら埋めてしまって、なんかあたまがぼーっとしたまま一日が終わる。

手帳のスケジュールにはいろいろ書き込まれているけど、そういう文字にもじぶんの感情がリンクしない。

日に日になんだか疲労感だけがたまってって、カラダを動かすのに「気合い」が必要な状態になったとき、ぱたってベッドに倒れ込んで、そのときは涙が出た。
この涙は感情のなにか、じゃなくて、ウツの涙。

ウツが出ると、意味もなくわたしは泣いたりする。
涙がなんの感情も思考も伴わないまま、生理現象みたいにただ溢れる。
これはかなしみもくるしみもない、ほんとに単なるウツの症状にすぎないんだとおもってる。

ウツの涙が出て、やっぱりウツの波が来るよねー、っておもって。
だけど、いまのわたしは、「人ひとりの死」の「後始末をする人」たちのタイヘンさ身に染みてかんじてるとこだから、もうじぶんは希死念慮にふわふわ負けるのもダメなんだろうなー、っていう、ものすごいヘヴィ感がある。

自殺することがおおきな希望だったから、その希望を「現実のしがらみ」に砕かれてしまうなら、なんかもうただしんどいね。

体調がおかしいとか、いろいろじぶんがくるしくかんじてることとか。
そういうことの吐きだし方がわかんない。
だからじぶんはなにひとつ問題がない人生をまともに送ってるようなふりをしてるみたいになってて、周りもわたしはしっかり生きてる、っておもって。

ほんとはつらいんじゃない?
って、だれかが気づいて、わたしのあたまに手をぽんと置いてくれる。
なんてのは幻想。

そんな「手」をわたしは永久にもたない。
かんがえたら、そんな「手」を知っていた時期はとっくに過去の話。

それが人生なんだね。
小説や映画のように、だれかがじぶんをちゃんと見てくれる、とか、だれかがじぶんのこと気づいてくれる、とか、そんな神さまのような第三者の目なんてじぶんに向いてなくて。

そんなものがなにひとつなく、じぶんがここでなにをしていても、たとえばネットに日記を書くとか、じぶんからじぶんを発しなければ、この世でだれも、「わたし」に気づかない。
リアルではじぶんの日記をみんなに見せてまわることもしないから、リアルではじぶんがなにも発しなければじぶんの心中なんてだれにもわからない。

その自由を得るかわりに、「ほんとはつらいんじゃない?」ってぽんとあたまに置かれる「だれかの手」を得ることはない、ということ。
それが、じぶんの人生。

気づいたら、わたしはじぶんがなにか困ったとき、おかーさんー、って声出してお母さんに駆けこんでいくこともなくなった。
たぶんちいさいときは、そういうこと、自然にできたとおもうけど。

じぶんが困ったとき、助けて、って素直にそのコトバを吐ける人を、わたしはいつから持たなくなったんだろう。

だからいまさら、身内のだれがこの世からいなくなろうが、わたしはそれで「困ること」はない。
「喪失感」は直後じゃなくて、あとでじわじわと押し寄せてくるんだろうとおもったけど、もしかしたらそんなにおおきな波ではないかもしれない、っておもった。

だって。
わたしは親に対してとっくに、喪失的な体験をしてたとおもうから。

じぶんの世界に在ったものがもうなくなる、という、ある種の喪失はいろんな痛みの形でじぶんを襲うとおもう。
そういうものは「感傷」として、そのときのじぶんに抱きやすい形にじぶんが変えて、うまく処理するんじゃないのかな。
そんなときに流す涙は、じぶんを浄化する作用がある気がする。

処理できないような感情が、これからいつか、わたしを襲うのかな。

叔父さんのときはあった。
それと死別ではないけど、じぶんの中でおおきい存在だったものをなくしたときも。

叔父さんのことは、いまはもうじぶんの中で処理できてる。
それは時間がそうしてくれたのかもしれないし、じぶんの成長がそういうものを受け入れる容量を増やした、ってことかもしれないし。

もうひとつのは。
こんなタイミングで、また夢を見た。
もういちどだけ話したいとおもって、バカみたいにじぶんから話しかけて。
そしたらものすごい冷淡にあしらわれて、未練がましい真似をしたじぶんが死ぬほどイヤになって。

そんな苦い夢から醒めて、これは警告なんだなー、っておもった。
処理しきれていないものをじぶんの中から出すな、って。
そういうことをすれば、じぶんがただミジメになるだけだ、って。

夢も役立つね。
わたしはその夢でじぶんを戒める。

弱っているときに、「だれか」にすがろうとする精神性を捨てていかないと、ただじぶんの人生がミジメになる。
友だちに対してさえじぶんの感情の吐きだし方がよくわからなくなっているのだから、このままもうじぶんのネガティヴな感情というものを一切封じ込めてしまえばいい。

吐きだしたいものはこのアカウントで醜く垂れ流して、その代わり、リアルではもう一切のネガティヴな感情をだれにも見せない、ぐらいの自制をじぶんに持つ努力をして。

処理しきれない感情。
流したくない涙。

そんなものにじぶんが作動しないように、そこらへんのスイッチを切れる人になって。
これから生きていかなくちゃいけないのだとしたら、どんなつらいことも、どんなくるしいことも、なにひとつ、動じないじぶん、をつくるしかない。

泣くべきときかもしれないときに泣けなくて。
泣きたくもないときに涙が出て。

ほんとにきれいな涙は感動する小説を読んで流せばいいし。
笑いたいときはたのしい物語を。
澱んだ感情を浄化したいときは創作の感動を。

じぶんの感情を、なぜ、そのままリアルで出す必要があるの?

ないよね。

出すのは、そんなじぶんの感情をだれかに知られたいとき。

だれにも知らせなくていいなら、そんな感情を表に出す必要もない。

笑うことは友だちとシェアしても。

怒り。
かなしみ。
くるしみ。

そんなものは人に見せなくていい。
人生はそういうものだ、とおもえば、ひとりでもなんとか生きていける。


リアルにださないものはここにぜんぶだして。
醜くネットに存在して。
ネットではきれいごとなんて言わない。

そしてぱそこんかわたしが壊れたら、それでおしまい。



生きるも死ぬも生物の自然の営みにすぎないのに、人間社会はバカみたいにめんどくさい。
ほんとにバカバカしい。