この世からいなくなる | ゆらゆらダイアリ

ゆらゆらダイアリ

あたまと性格とウツをこじらせた一人暮らし女子のダメダメな日々。



みかみかさんはかわいそうなぐらいレアが出ないし、切手も出ないから、ひとりでメインクエストものすっごーーーーーい遅れてる。
ぴのさんはメインクリアしたのに。




いまはどんなお料理食べても100%ハートが出る期間なので、ぴのさんちのおもてなし料理はたまりすぎたデイリーゴハン放出中。




フェンスためてこのベンチのボーナス報酬ほしかったのに、フェンスもらえるランダムクエストがぜーんぜん発生しないので、期間中にどうやっても10個なんてためれない。
毟りだしたときにかならず発生しない仕様になっちゃったの?




いろいろちょこちょこ仕様がかわってるかんじのぴぐ。

ワールドのイベはぜんぜん手をつけてなかったけど、途中からあじさいもらえるランダムクエストが発生したから、それが急にほしくなってそこまで進めた。
でも、ハプニングの数値が3ケタとかまだまだ低いままだから、さくさくランクエ進めれちゃったよねー。


あいかわらずぴぐのイベントやってない人にはぜーんぜんわかんない話、でした。





バイト先の事務所にはってあった去年のこの時期の販促データに出てた気温みたら、ことしのほうが高いのが明らかだった。
来週はものすごい高温予報が出てたし、梅雨はいったばかりでこんなんじゃ、ほんとにものすっごい猛暑になりそうだよねー。

でも、お天気にくわしい、っていうおじさんは、今年はそんなにきつい猛暑にはならない、って言ってたけど。

昼間はどんなに暑くてもいいから、夜も30度越えとかはやめてほしい。
夜の気温がちゃんと下がれば、カラダはもつんだよね。





やりたいことをする時間がまともにとれない。
一日中稼ぎにつながる仕事ばかりしてる、っていうなら、経済的には潤うからいいけど、そういうわけでもないし。

人がひとり死ぬ、っていうのは、肉体の死とどうじに社会的な死もあるから。
肉体の死は葬儀→火葬→納骨で始末をつけて。
社会的な死はいろーんな手続きが必要になる。

生きてた人の名義のものをいろいろと抹消していく、っていう作業は宗教的な葬儀みたいな社会的葬儀、っていうかんじ。
段階的にひとつひとつ抹消作業を進めて、ようやくかんぜんに抹消させて、この社会からかんぜんに去る。

いまはその社会的な葬儀の途中。
納骨もまだだけど。

死亡届を役所に出すと、まず「死亡」が確定する。
肉体の死をお医者さんが診断するように。

それから、どんな手続きがいろいろ必要なのか調べる。
葬儀屋さんといろいろ相談するみたいに。

それで必要な手続きをひとつひとつして、いろんな書類が飛び交う。
読経みたいに。

いろいろサインをする。
焼香みたいに。

ひとつひとつ手続きが完了していく。
四十九日に向けた七日ごとの法要みたいに。

死後、僅かに返還される公的なお金とかも、受け取るのは「遺族」になるから「相続」なのだと言われて。
相続人ぜんいんの委任のサインとか必要で。

そっとひとり静かに死んでいくことは、かんぜんな天涯孤独な人でないとダメなんだねー、っていうのを実感で知っていく。

いま、じぶんが死んだら、遺った身内はこういうことをやらなくちゃいけないんだ、っていうのを知る。
そのことにゾッとする。

自殺がいけない、という理由はたったひとつじゃん。
身内に迷惑がかかるから。

命の価値とか感情の問題じゃない。
たんに物理的迷惑をじぶん以外のだれかにものすごいかけることになるから。

わたしが死んだあと、弟がこんなことできるわけがない。
って、おもった。

叔父さんのときはわたしはまだ子どもすぎて、こういうことをなにもわかってなくて、じぶんの感情しかなかった。
だけどあのときも、オトナの身内はこういうことに追われたんだよね。
かなしみのショックでなにもできなくなる、ということすら、身内には許されない社会の仕組み。

いかに人の一生は国に管理されてるか、っていうのがわかる。
生まれてきた時点で自由に生きることはできない。
自由になるには、こういうことがかんぜんにどうでもよくなれるぐらいに狂うしかない、ってこと。





葬儀なんてなにもしなくていい、って言われてたけど、葬儀は本人のためのもの、っていうより、遺された身内の社会的な活動、なんだともおもう。

親戚や交流のあった知人たちすべてに隠しておけば、遺された人たちがこまる、っていう社会的な事情があるね。

そういうのもあって、本人の意思を尊重しながら、でもお祖母ちゃんや叔母さんの立場もいろいろかんがえて、けっきょくはフツーに菩提寺で一切をやることになった。
お祖父ちゃん一族、って、お墓みるといろいろすごいんだなー、っていうのがわかる。

都内に菩提寺があるんだけど、そんなに敷地が広くもない墓地のかなりの部分をお祖父ちゃん一族が占めてて。
本家のお墓はものすっごいおおきくてリッパ。
その周辺に分家のお墓がずらずらずらーっとある。
お祖父ちゃんも分家のひとつ。

お墓参りするときは、じぶんちのお墓だけじゃダメで、本家から分家ぜーんぶにお墓きれいにしてお線香あげてお花もあげて。
だからタイヘン。
だけどお祖父ちゃんはいまでも身内ではない人たちがしょっちゅうお墓参りしてくれてるから、常にきれいなお花と好きだったお酒に取り囲まれて、このお墓だけ万年パーティ状態。

お花の種類で、叔父さんにお墓参りした人がいる、っていうのもわかる。

お母さんの葬儀のおねがいにお寺にいった日。
ものすごい偶然だけど、なーんにも知らされてなかった親戚の人がお祖父ちゃんと叔父さんにお墓参りをしてた。
遠い地方に住んでる人だけど、命日でもないのになんとなくお墓参りしたくなってわざわざ上京してきたんだって。
すぐに帰るつもりだったから親戚の中でいちばん年が近くて交流があったわたしのお母さんにはなにも連絡しなかった、って。

だからそのときに「今朝亡くなったの」ってはじめて病気のことも話したら、ものすごいびっくりして、ものすごい泣き崩れて。
だけど、このタイミングでお墓でわたしたちと会ったのは、そういうものに呼ばれたのかな、って。

その人が必要な親戚にぜーんぶ連絡してくれて。
お祖母ちゃんもじぶんのほうの親戚にもいろいろ連絡して。
わたしが家出したときに泊めてくれたイナカのおうちとかね。
身内だけで何人も集まることになった。

わたしはそれまで身内の中では、じぶんはまだ子ども、っていう意識があったから、親戚のことはほとんどなにもわかってなかった。
お母さんやお祖母ちゃんたちから聞く話程度。
お母さんはお父さんと別居していろいろ苦労するようになってから、親戚にそういうの知られたくなくて必要な法事とか以外はあまり繋がってなかったから、わたし自身、いとことか身内にいろいろ会う機会ってほとんどなかったし。

だから今回のことで、わたしはお祖父ちゃん方とお祖母ちゃん方の親戚、っていうのをちゃんと知ることになった。
葬儀にきてくれたのは、おもにお母さん世代とそれ以下の親戚。
お祖母ちゃんの代の人たちは高齢すぎて出かけるのがもうムリな状態の人がおおかったから。

わたしが知らなかっただけで、親戚はちゃんといろんな法事で集まってたから、一族の繋がり、っていうのはすごい密接にあった。
ちいさい頃しか会ったことない人たちはみんな、ずっと会ってきたかのようにわたしに接してくれて、わたしの成長って親戚にちゃんと伝わってたんだー、っていうのを知ってびっくりした。

「これからはみかみかがやっていかなくちゃいけないからね」
って親戚の人から、今後の親戚づきあいの話もされた。

高齢の親戚の人たちはいままでこういう法要にはいろいろきびしくていろいろタイヘンすぎたけど(これだけリッパにしろ、とか言われて、莫大なお金がかかる法要をしなくちゃいけなかったんだって)、その下の世代はゆるゆるでやっていくからそんなにタイヘンじゃないよ、って説明された。

お祖父ちゃんの葬儀の話聞いてびっくりしたからねー。
家が建てれるぐらいのお金かけてたからねー。
お祖母ちゃんはそこまでする気はなかったのに、親戚の人たちからムリヤリさせられたんだって。

お金なんてぜんぜんかけないで、ってお母さんは言ってたけど。
お寺でフツーに葬儀する、っていうのは、「ぜんぜんかけない」で済む話じゃなくて。
このまえツイッターで「お寺のお坊さんが言う『気持ちだけで』ってお布施の相場は○万」って情報が流れてきたけど。
うちのほうはその「気持ちだけ」はケタがちがってる。
アマゾンのお坊さんサービスは庶民にはぜったい必要、っていうのがわかった。

喪主のわたしは叔母さんと一緒に葬儀屋さんといろいろ決めてって。
カタログみたいなのを見て決めていくんだけど、ちゃんと写真がいろいろあって、葬儀のグレードがひとめでわかる。
グレードのいちばん下といちばん上は、もうぜんぜん「層」がちがう、っていうぐらいちがう。
こっちは地表の人だけど、いちばん上は雲の上の人、っていうかんじ。

いちばん下、でも、ぜんぜん安っぽく見えないようになってて、これは故人の尊厳を少しも傷つけないようになってるんだねー、っておもった。

このまえ読んだばかりの『世界から猫が消えたなら』でも、余命を宣告された主人公がじぶんの葬儀を申し込んでくる場面がある。


[引用]
祭壇にも棺にも遺影にも、何から何までランクがあって、値段が細かく付けられている。死んでからもランク付けされるなんて、どこまでも人間はしんどい生き物だと思う。

///『世界から猫が消えたなら』 著:川村元気


世界から猫が消えたなら (小学館文庫)/川村 元気

¥670
Amazon.co.jp
[/引用ここまで]

この主人公が選んだじぶんの葬儀代は150万。
これはランクのいちばん下のほう、だよね。

わたし、この本は葬儀が終わってから読み終えたんだけど、この引用したぶぶんは葬儀屋さんのカタログ見てたとき、じぶんがおもったこととおなじだった。

仏教は「人の富」をその人の価値と等価だと説いてるわけではないとおもうのに。

戒名を決めるとき、おなじお墓にはいる人はおなじランクの戒名じゃないとあの世で釣り合わない、って言われた。
死んでからも格差があるんだねー、っておもうと、「死」は人をかんぜんな自由にはしないものなんだね。
その「自由なき死」っていうのが、宗教のもとで死ぬ、ってことなんだとおもうけど。

死んだあとかんぜんに魂を自由に放ちたいとおもうなら、どんな宗教にもかかわらない死を選ぶしかない。


いろいろナゾだったのは。
葬儀屋さんとカタログ見て取り決めるのは、お通夜から火葬されるまでのいろいろな費用。
これはいちばんやすいランクでも100万円はくだらない。
それと別に「こころづけ」っていうのがいろいろ必要だって言われて、これはお寺と火葬場を往復するバスの運転手さんとか、火葬場のいろいろな人たちとかに、数千円ずつわたすもの。
これって領収書がでないお金、っていわれたから、申告しなくて済む収入、ってことだよね。
毎日こういうのが何軒か分はいってくるだけで生活できちゃうねー、っていう下世話なことまでいろいろかんがえちゃった。

そういうのを一切取り決めたあと、「その他」はお寺さんと話してください、って言われて「?」ってなったら。
お寺さんにはその葬儀代とべつに、「場所代」とか「照明代」とか「お気持ちのお布施」とか払うようになってた。
葬儀代と場所代別なの???
ってナゾだったけど、お寺さんに払うものもいろいろケタがすごい。

親が死んでお金の話を書く、っていうのもどうかとおもうけど。
わたし、葬儀でいちばん「?」っておもったことが、こういうお金のことだったんだよね。

お金がかかるねー、ってグチじゃなくて。
なんでこんなにお金をかけなくちゃいけないしきたりなのか、っていうとこに、ものすっごいギモンをかんじたから。

だって、たとえば家族がいる稼ぎ手の人が亡くなったら、その遺族はその後の生活がいろいろタイヘンになる。
家族がひとりいなくなる、っていうのは、それまでの生活はおおきく変わることのほうがおおいとおもう。

お葬式って遺族にお金を残させない仕組みになってる。
なんで?

少しでも残して遺族の今後の生活を支えることは故人の望みだともおもうのに。
フツーにお葬式する、っていうだけで、わたしなら一年ぐらい暮らせちゃうお金がかかる。

お葬式にお金をかけたくない、って主張する人たちが増えるの、わかる。
「死」を軽く扱うことじゃなくて、現実的な人生、のため、だよね。

死んだ人には二度となにもしてあげれない、っていう遺族の心情につけこんだような葬儀の価格に、なんかものすごいモヤモヤがあった。

わたしがお世話になった葬儀屋さんは、そんなビジネスライクじゃなくて、いろいろ遺族の心情を思いやって、そんなにお金がかからないプランを故人の尊厳をまったく損ねないコトバでさりげなく勧めてくれた良心的な対応だったけど。

だけど、すべてのランクがおなじページにならぶ写真つきカタログを見ると、いちばん安いものを選ぶとき、いちいち罪悪感に襲われる。

お花はもっときれいなランクにしてあげるべきかな、とか。
少しでもリッパな棺にいれてあげるべきかな、とか。
それだけの人生を送ってきたはずの人だから。
現実的な富の数字でなくて、「その人の生き方」として、わたしは故人をものすごいリッパな人、っておもってて。

だけど、そういう銀行口座の残高の数字に反映しない「リッパな生き方」は、葬儀のランクにもまったく反映されない。

お金がある人はリッパな葬儀をあげれて、ない人はそれなり。
人格がどうリッパか、なんて関係ない。

そんなことを明確にするのが葬儀なの?

お母さんの意思のとおり、葬儀なんてしなくてよかったのかもしれない。
お母さんのために泣いた人は何人もいたんだから。

でも、いろいろな事情でそういうわけにもいかなくて。

たぶん、「いま」わたしが死んでも、そうなんだとおもう。
どんな身勝手な死に方をして、遺書にちゃんと「なにもしないで」と書いたとしても。
たぶん、ほかの一族の人たちとおなじように、わたしはお寺で葬儀をだしてもらい、親戚にお骨をひろわれ、納骨までしてもらう。
その後も親戚のだれかが生きてるかぎり、わたしのお墓にはわたしの為にお花やお線香をもらう。

わたしはそういう親戚一同を巻き込む死に方しかできない。
いまのところは。

そういう現実を知った。





お祖母ちゃん方の親戚の人たちもいろいろ集まったけど。
そっちのほうは仏教じゃなくて神道なんだって。
だから、お葬式も神道のやり方で、その話はいろいろおもしろかった。

お祖母ちゃん方の一族も、先祖代々一族みんながはいるおおきな墓地をじぶんの土地にもってる。
その中のどれかにはいれるからお墓の心配しなくていいよ、ってわたしは言われたから、わたしがはいれるお墓はあっちこっちにあるみたい。
死んだらホームレスにならない保証だけはあるわたし。

でも独身のまま死んだら、お祖父ちゃんや叔父さんやお母さんがいるお墓にはいるんだとおもう。
弟も独身のままだったら、おなじ。
叔母さんもたぶんおなじ。
お祖母ちゃんもおなじ。

いつかお墓でみーんないっしょになる。


火葬場で待ってる時間、わたしはいっしょに来てくださった副住職さんと並んで座ってた。
副住職さんは脱サラでお坊さんになった人で、ものすごいちゃらくて、おもしろいの。

ちゃらい人は好きじゃないけど、お坊さんなのにちゃらい、っていうキャラクターはすごいおもしろい。

サラリーマンやってたけど、なんかずっと続けたいとは思わなくなって。
転職かんがえたとき、食いっぱぐれがない「手に職」つけた仕事、ってことでお坊さんになったんだって。

そんなちゃらい理由を火葬場で喪主にちゃらく説明してくれちゃうヘンなお坊さん。

わたしはそのとき、ぜんぜん泣けなくて、なんかかわいた気持ちになってたから。
それを誤魔化すみたいに、副住職さんとちゃらい雑談をいろいろ交わしちゃってた。

読経のとき、住職さんがお経の本のページをいろいろめくりながらお経をあげてるのを、すぐ後ろの喪主席からわたしはずっと見てて。
あれは、ああやってめくることが儀式なんですか?
って聞いてみた。

そしたら、その葬儀によって読むお経がいろいろちがうから、それを選んでるだけ、っておしえてもらった。
お通夜と一緒にやる場合と別にやる場合、とか、戒名によって、とか。

般若心経はお経のダイジェスト版、っていうのも話してくれて。

いろいろ素人的な質問すると、なんでもこたえてくれて、もっとたーくさん話してたかった。
雑談できるお坊さんの友だちほしい、っておもった。





ひとつの感情に暮れるだけの日々じゃない。
現実的な「わたしの日常」は、絶え間なく現実的に続いてるし。


こんなに早くに母親を亡くしたことを、何度となく「不幸」にかんじる。
おなじ年代のだれかのお母さんらしい女の人が元気に動いているのを街なんかで見かけると、ふと、「なんでわたしのお母さんだけ」っていう悔しい気持ちになる。

どんなに悔しがっても、その悔しさをどこにぶつけていいのかもわかんない。


だから、って、わたしは死なずに済んでいる現実の幸運について、だれかにそれを大切にしろ、とは言う気はない。

生きてることは素晴らしいとか、生きてるうちにしかできないことがあるとか、悔いがない人生を送るべきとか、じぶんの生き様をだれかに宛てた遺書のつもりになるとか。

わたし。
『世界から猫が消えたなら』の小説にしらけてしまったのは、いま、このタイミングで読んだから、なんだとおもう。

あの小説の冒頭に、これは僕の遺書だと書かれてる。
読者は、その遺書を受け取らされる。
主人公が最期につかんだ人生観で読み手の人生観も塗り替えられるような強い発信力を、読後にかんじる。

遺書とはそういうものだとおもわれてるのかもしれない。
遺された人たちになにか残してやろうという死んでいく人の希望。



だけど。

遺書は、送る側の明確な意図としてでなく、受け取る側がかんじるメッセージ。

そういうものなんだと、わたしはおもう。

送信するものじゃなくて、受信するもの。

だから、受信者によって解釈は変わるだろうし。










だけど、この映画の主題歌は好き。