エミリーのお庭にあった記念パネルで撮影。
でもノラが隠れちゃって見えないよー。
◆
月曜は一日中雨。
窓を開けたままにしてたら出窓がものすっごいビショビショになってた。
だから閉めたわけじゃなくて、寒すぎたせいで閉めた。
だけどこのあと今週はものすっごい猛暑的な気温になる。
夏は暴力的に来る。
一日中雨だったわりには、そんなに湿気をかんじなかったのはフシギ。
ちゃんと湿度をはかったわけじゃないから体感にすぎないけど。
雨だっていうのにタオルケットを洗っちゃって、室内干ししてた。
乾きにくいとおもったから除菌剤をたーっぷりいれて洗ったのに、意外にも夜にはカラカラに乾いてた。
雨の量と湿度の関係がわかんない。
日曜の夜はまだ雨が降る前で、空全体が曇ってるんじゃなくて白い雲があちこちに浮かんでて、夏の空をかんじさせてた。
ラジオで西のほうから雨が降りだしてるって言ってたけど、ほんとに西のほうに向かって走ってたら雨が降りだして空がぴかぴか光って。
窓を開ければひんやりしてたのに、雨のせいで閉めるとガラスが曇る。
仕方ないから除湿のためにエアコンつけて、涼しい時間帯にガソリンをムダにつかうことにちょっとイラっとして。
◆
このまえ夜中に走ってたら、キケン走行してた車に追突されそうになった。
あっちも回避しようとものすごい音たてて急ブレーキ踏んでたけど、「あー、ぶつかるねー」ってその映像がスローモーションのように見えて。
時間にしたら1秒よりぜんぜん短いとおもうけど、そのあいだに「ぶつかるねー」って認識して「どうしよう」って悩んで「こっちで回避するしかないじゃんー」って判断して、安全な回避策を一瞬にして確かめてその通りにじぶんがアクセル踏んでギリギリ回避。
あのときのじぶんの能力をじぶんですごいとおもった。
パニック的な反射行動ではなかったから。
ものすごい冷静に状況を把握して素早く思考して動けてた。
そういう能力はあるみたい。
なのに。
日常のいろんな不安にものすごいうろたえるじぶんもいる。
ものすごいパニックになって手が震えるときもある。
そういうじぶんを、ものすごい小心者なんだとおもってる。
緊急事態でものすごい冷静になれてるじぶんと、ささいなことで怯えて震えるじぶんと。
極端にちがうじぶんは、一体どんなふうに出現する法則があるんだろ。
ちょっとしたカラダの異変をかんじた。
そのまえにもおなじような異変をかんじて、そのときは「なんかのかんちがい」的に流してしまったけど。
またおなじような異変をかんじたとき、これはほんとに異変なんだ、って自覚して。
その途端、ものすごい怖くなって息ができなくなった。
たぶんこれがほんとにタイヘンなことで、そういう診断が下されちゃったりしたら、わたしは開き直れるんだとおもう。
開き直ったわたしはだいたいふてぶてしい。
だけど、そうなれるまでに襲われる不安にはものすごい弱々しくめげかける。
いろんな生活の不安もしょっちゅう形を変えて襲ってくる。
そのたびに怖くなって全身の力が抜ける。
ヒステリックに泣き叫びたくなるけど、それができなくて、ただただ不安に押しつぶされかける。
そこから自発的に抜け出せる術をわたしはまだ知らない。
自然になにかのきっかけでぽんと抜け出してしまえたり、怯えを「抱え込める」規模に無理矢理収縮させて、常に不安をこころのどこかに宿らせて精神をダメにしてったり。
間近で病死していく人をみた。
カラダの変調を死に至るまでみてた。
死の瞬間もみてた。
いつかはそんなふうにじぶんもなる。
「あ、いま死んでいく」
っていうぐらいの段階になれば案外冷静でいれるとおもう。
だけど、そこに至るまで、どれだけの恐怖がじぶんに襲うんだろ。
それをかんがえるだけで、ものすごい怖くなる。
強くなれ、ってじぶんにおもう。
生きてるかぎり、いつかは死ぬ。
おもいどおりの死に方じゃないかもしれない確率のほうが高い。
じぶんのおもいどおりに死ねるならなんにも怖くない。
死そのものは、わたしは少しも怖くないから。
おもいどおりじゃないとき、そこに至るまでのじぶんに不安がある。
わたしには手をずっと握っててくれる人はいないのだから。
それをじぶんが必要としてもいないのだから。
なにもかもじぶんひとりで向き合うしかなくて。
戦力はじぶんのみ。
生きることでいろんな壁にぶちあたるたびに、ひとりでそれを乗り越えていかなくちゃいけなくて。
その強さをじぶんに持てる安心は、どんなふうに得れるんだろ。
だらだらと生きていくにも強さが必要になる。
◆
バイト先の例のおじさん問題。
なんにも良好な展開にならないから、じぶんのかんがえかたを変えた。
どんなふうな働き方を見ても、わたしはそれをぜったい「意地悪くない解釈」するようにした。
なんでこんなこともちゃんとやろうとしないんだろう。
っていうイライラも。
ここまでしかできないのかもしれない。
って解釈をして。
そしたら、できてないぶぶんをじぶんが補おうとおもえる。
ほんとはわざとやらないのかもしれないし、テキトーでいいっていうかんがえを死ぬまで変える気がない人なのかもしれないけど。
そういうタイプの人なんだ、って解釈をすれば、そういうタイプの人をあとはじぶんがどう飲み込むか、ってじぶんの問題になるから。
この人の不得意なぶぶん、って解釈をする。
そのぶぶんはわたしにはできるのだから、わたしには不得意ではないぶぶん、ってことになる。
だったら、不得意でない人が人の不得意なぶぶんをやればいい。
そこに「努力すればいいのに」っていう要求を無意識にしてるから、「なんでそんな努力もしないで人にやらせるわけ?」ってイライラするんだよね。
人が努力してるかしてないか、なんてことは関係ない。
できてない事実を、意地悪くない解釈して、じぶんができる最善のことをかんがえればいい。
そんなふうにかんがえかたを変えるようにしたら、ぜーんぜんイライラしなくなった。
「あ、ここできてないねー」
って見て気づいたとこは、「なんでやらないの?」とか「またここやってないー」っていちいちおもわないで、「ふむふむ」ってじぶんがそこに手を自然に出すクセがつく。
相手がやらないことを黙ってこっちがやってやればいいんだ、っていう好戦的な対応とはまたちがう。
なんにもストレスなく、相手がやってないぶぶんに手を出せてる。
「やってないぶぶん」がその日の作業の大半なのは相変わらずなんだけど。
現実はなんにもかわってないのに、じぶんのかんがえかたひとつでぜんぜんストレスがなくせるねー、っていう体験をひとつ知る機会になった。
そういう「かんがえかたの切り替え」で、日々の不安を対処できればいいのにね。
そこまでにはまだまだ至らないのがわたしの脆弱ポイント。