米子城御殿の水路跡 | 源行近のブログ

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山陰中央新報 2021年9月9日記事

米子城御殿の水路跡 三の丸で発見 1600年ごろ造築か?



国史跡・米子城跡三の丸(米子市久米町)で、割石を敷き詰めた水路跡が見つかった。発掘した米子市によると、手の込んだ造りで、藩主御殿の遺構とみられる。
江戸後期の遺構より下の地層で見つかり、造築は1600年ごろまでさかのぼり、戦国末期の城主・吉川広家か、関ヶ原の戦い後に初代藩主となった中村一忠が関わった可能性もあるという。
三の丸だった旧湊山野球場外野の地下20~40センチの深さに、幅30センチの溝が南西から北東の方向に傾斜し、長さ20メートルにわたって延びていた。市は中海とつながる内堀へと流れていたと想定する。
全体の規模や石質は定かではないが、青石が交じる見た目を意識した造りで、藩主御殿の区画を示す溝のほか、庭園への導水路や雨水の排水路とも考えられるという。
現存する幕末の絵図には記されていなかった。市文化財課の佐伯担当課長補佐は「藩主級の人物と三の丸のつながりを示す貴重な史料」と指摘した。発掘調査は史跡公園整備のために行った。
江戸後期米蔵の遺構が長さ30メートル幅6メートルの規模だったことや、防御構造の石垣「升形」の高さが、ほぼ絵図通りの3.9メートルだったことも判明した。溝とともに、埋め戻して保存する。(田淵浩平)

米子城とその周辺の整備に期待したいところです。米子城へも再び行ってみたくなりました。