教壇に立ちたかった私 | 手稲山・発寒川からの手紙

手稲山・発寒川からの手紙

北海道の野生動物や自然の状況についてなど手書きの絵などによって詳しくお伝えします。

 私は、昭和初期の世界的大不況のさなかに占冠村で生まれた。

冷水害や後で少しふれる「日勝線の鉄道誘致」にのめりこんで倒産、離農した家族とともに炭鉱町に引っ越し、小学校に入学した。

一学年が3クラスもある大きなこの小学校では、悪童どものいじめに遭ったが、担任のA先生やO先生に励まされ、学芸会の主役に選ばれたり、絵の校外展で賞をもらったりして先生にかわいがられた。

2年生の時に、満州国を経て中国東北部に転戦していた長男である兄が戦死した。

6年生の時に日米開戦。

その翌年、同学年の中から10名が岩見沢中学に進学したが、中学ではほとんど勉強をせずに軍事教練にあけくれ、戦争で人不足の農家や炭鉱へ“勤労動員”に駆り出された。

 

 3年生の夏に敗戦。

戦争で欠員になった教師の穴埋めに教員資格のない体育や英語や歴史の代用教員の授業を受けた。

4年生で中学の修了証書がもらえたが、上の兄が生活費を、また、戦死した長兄が“煙草ほど”の兵隊への支給金を貯めて生命保険に加入していたので、その“保険金”で学費を出してくれたので5年生まで在学した。

 

 師範学校へは、占冠村で、農業を営む傍ら村役場に勤めて、石勝線誘致にのめり込んで奔走し、道の役所の人に騙され、私財を無くして倒産、離農した父が、『教師は聖職だ。師範に行け』と、私が教師になる道を勧めてくれた。

 

 藻岩山の麓にあった師範学校は、敗戦直後には、建物の一部を駐留軍が使用していた。

軍国主義時代の国の教育制度のかけらも一部残っていたおかげで、札幌に身寄りのない私は助かった。

それは学費無料と全寮制。

私は、文科の音楽を専攻したかったが、真駒内にある米軍の糧秣倉庫でのアルバイトに通い過ぎ、オルガンの練習不足で教師に叱られて諦め、2年目からの選考科目を理科・生物学に変えた。

 

 やがて、卒業の年になった。

この年から、教育委員会が出来て、それまで卒業生が自由に赴任希望の学校長とかけあって赴任先が決められていた(慣行?)を変更して、教委が採用や赴任先を決めるということになった。

私は、札幌市内に赴任して、実験動物飼育の兄の手伝いをしたかったが、かなわなかった。

この事情を知った生物学担当のK先生が、親切に、出身のH大動物学科の先生に頼んで専科生(聴講生)になる手続きをすすめてくれた。

私はH大の助手を勤めた後、国立の研究所に移動し、野生動物の研究を続け、学位や学会費をもらい、また海外にも出かけて定年退職までのあいだ野生動物と「森林保護」の研究を続けることができたが、理科の教師として子供たちに教えたいという思いは断ちがたく、一昨年、師範学校で同じ科目を専攻した親友Oさんの紹介で、教育委員会を通して、札幌市内の約100校の中学にNHKラジオで放送した絵入りの『北海道の野生動物の話』を贈呈した。

 

 

手稲山・発寒川からの手紙 NO,23 (2020年11月1日 発行)