手稲山・発寒川からの手紙

手稲山・発寒川からの手紙

北海道の野生動物や自然の状況についてなど手書きの絵などによって詳しくお伝えします。

手稲山・発寒川からの手紙

2020/1/12

インスタグラムを始めました。

今まで作成してきた作品を投稿しております。

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手稲山・発寒川からの手紙

2020/1/12

ホームページを開設しました。下記アドレスをクリックしてください。

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2015/5

北海道の野生動物の話

作:前田 満 編集・監修:南島 順子 編集・監修:伊藤 遥



全国発売 

2015/5

鼻長ネズミのお酒造り -アイヌの森の動物たち-

作:前田 満 中国語訳:尹 燕燕 監修:南島 順子 

全国発売 



2014年7月21日(月祝) 15:00

私の絵本出版を記念いたしまして紀伊国屋札幌本店インナーガーデンにてトークショーを開催いたしました。



2014/9/6

北海道新聞に私の記事が載りました。



2014/3

空とぶカエル

作:前田 満 中国語訳:尹 燕燕 監修:南島 順子 

全国発売 



2013/8/16
毎日新聞(北海道版)に私の記事が載りました。

2013/08/05

『ミハイル・ディメノークのタイガ日記』を自費出版しました。


手稲山・発寒川からの手紙
 

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2009/11/1 

「手稲山・発寒川からの手紙」別館を開設しました。

 

私のインドネシアの滞在記です。ぜひご覧下さい。

 

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2009/9/19 

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2009/9/15 

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手稲山・発寒川からの手紙

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 私は、昭和初期の世界的大不況のさなかに占冠村で生まれた。

冷水害や後で少しふれる「日勝線の鉄道誘致」にのめりこんで倒産、離農した家族とともに炭鉱町に引っ越し、小学校に入学した。

一学年が3クラスもある大きなこの小学校では、悪童どものいじめに遭ったが、担任のA先生やO先生に励まされ、学芸会の主役に選ばれたり、絵の校外展で賞をもらったりして先生にかわいがられた。

2年生の時に、満州国を経て中国東北部に転戦していた長男である兄が戦死した。

6年生の時に日米開戦。

その翌年、同学年の中から10名が岩見沢中学に進学したが、中学ではほとんど勉強をせずに軍事教練にあけくれ、戦争で人不足の農家や炭鉱へ“勤労動員”に駆り出された。

 

 3年生の夏に敗戦。

戦争で欠員になった教師の穴埋めに教員資格のない体育や英語や歴史の代用教員の授業を受けた。

4年生で中学の修了証書がもらえたが、上の兄が生活費を、また、戦死した長兄が“煙草ほど”の兵隊への支給金を貯めて生命保険に加入していたので、その“保険金”で学費を出してくれたので5年生まで在学した。

 

 師範学校へは、占冠村で、農業を営む傍ら村役場に勤めて、石勝線誘致にのめり込んで奔走し、道の役所の人に騙され、私財を無くして倒産、離農した父が、『教師は聖職だ。師範に行け』と、私が教師になる道を勧めてくれた。

 

 藻岩山の麓にあった師範学校は、敗戦直後には、建物の一部を駐留軍が使用していた。

軍国主義時代の国の教育制度のかけらも一部残っていたおかげで、札幌に身寄りのない私は助かった。

それは学費無料と全寮制。

私は、文科の音楽を専攻したかったが、真駒内にある米軍の糧秣倉庫でのアルバイトに通い過ぎ、オルガンの練習不足で教師に叱られて諦め、2年目からの選考科目を理科・生物学に変えた。

 

 やがて、卒業の年になった。

この年から、教育委員会が出来て、それまで卒業生が自由に赴任希望の学校長とかけあって赴任先が決められていた(慣行?)を変更して、教委が採用や赴任先を決めるということになった。

私は、札幌市内に赴任して、実験動物飼育の兄の手伝いをしたかったが、かなわなかった。

この事情を知った生物学担当のK先生が、親切に、出身のH大動物学科の先生に頼んで専科生(聴講生)になる手続きをすすめてくれた。

私はH大の助手を勤めた後、国立の研究所に移動し、野生動物の研究を続け、学位や学会費をもらい、また海外にも出かけて定年退職までのあいだ野生動物と「森林保護」の研究を続けることができたが、理科の教師として子供たちに教えたいという思いは断ちがたく、一昨年、師範学校で同じ科目を専攻した親友Oさんの紹介で、教育委員会を通して、札幌市内の約100校の中学にNHKラジオで放送した絵入りの『北海道の野生動物の話』を贈呈した。

 

 

手稲山・発寒川からの手紙 NO,23 (2020年11月1日 発行)

外出自粛のためしばらく外出していないため、平和の滝へ散歩に行ってきました。

 

トドマツやエゾマツの針葉樹林には種実・昆虫食性のヒメネズミが棲み、広葉樹林から草原にかけては種実食性のアカネズミが棲み、草原や植栽地には草食性のヤチネズミが棲みやすい。

北海道に生息するネズミの仲間

野ネズミ(5種)






家ネズミ(3種)



手稲山・発寒川からの手紙No.28 2020年1月12日発行

は 古い書物にも、国内の、竹・笹の大面積、一斉開花・結実によって、ネズミ大発生が起きたという記録があり、これと関連して起きた社会的混乱も、開高健『パニック』などの小説などにも数多く書かれている。
しかしながら、ササの結実量やネズミ数の変動を測定した資料はまったく存在していなかった。

 アジア・太平洋戦争が敗戦で終わった日本では、戦後、復興のため、大量の木材が必要であった。
それゆえ、北海道の天然林が大面積に伐採された。
この跡地には、本州産のニホンカラマツが“拡大造林”された。ところが、草食性エゾヤチネズミにより激しい樹皮食害を受けた。
このため、「野鼠研究室」が農水省の林業試験場に新設され、私はここに就職した。

 研究室が、野ネズミ類の生態と防除法の研究を続けていた昭和50年に、空知・石狩管内で、チシマザサ(食用タケノコのネマガリダケ)の、大面積の開花・結実・枯れ死が起こった。
このため、研究室の我々は、それまで続けて来ていた全道的なネズミとササの調査とともに、研究室の所在する札幌市の羊ヶ丘の実験林内で、ササ枯れとネズミ類の個体群変動との関わりを詳細に調べることができた。
(なお、この経験は、研究室員が参加したその当時のNHKテレビ“ネズミ騒動”でも放映された。)




手稲山・発寒川からの手紙 No.28 2020年1月12日発行




ねずみの絵
         前田 満
         北方林業 1953年1月号   


↑写真の油絵は、本文に紹介した一の橋の試験地。
 飾ってあるのは研究室の実験台。
 実験・図表を背に、タバコをくわえているのは24才の青年。

『俺達の小屋に、女っ気がないから、絵を一枚置いていってくれ。』
小さな集落。
しかも、北の国の、1番北に寄った村から、けわしい谷川に沿って四里も登り詰めたところに、ただ一軒、ポツンと立っている造林小屋の人たちが、ものものしい絵の道具を持ち込んだ私を取りかこんで話しかけてきた。

小屋のぐるりは、すでに険しい崖で、ヤチダモやカラマツの茂みに埋まっていた。
夜ともなれば、ほの暗い石油ランプの灯が、わたしたちの夕食の車座を照らしていた。

『わしら、1,000円もそんな高い金はないが、200円くれるならモデルになってやるべさ』
と、林道の草刈りに来ていた、おかみさんたちが、私に冗談を言って冷やかす。

この山奥での、我々の暮らしは、毎朝きまって、けたたましいカケスの鳴き声の合図で始まる。
続いて小鳥たちの囀り......。
谷底から濃い霧が這い上がってくる。
ササの葉を露玉がゆらゆら動かす.......。

1日の労働を終え、夕食を共にしながら、
『今日のオヤジ(熊)は、のんびり歩いておったよ。
あれを、あんたに、見せたかったなあ......』と。
都会育ちの私は、熊の絵も描きたいが、気弱に相槌を打つ。
内地(東北地方)に妻子を残して出稼ぎに来た彼らは、日中の労働を、夕食時の語らいで忘れようとしている。

わたしは、水彩を中断して、この春から開始した油絵の、絵具やカンバスを、ネズミ捕りの重い調査用具と一緒に背負って、この山奥にやってきた。
それは、ネズミ捕り「調査」と「絵描き」を両立させるつもりだった。
ところが、彼らと接するうちに、この考えの甘さにぐらつき始めた。

今年もあわただしく過ぎた。
都会の職場の仕事終わりの日の煤払いのときに。

クモの巣が張り巡らされ、夜は、ランプの明かりをたよって蛾の大群が飛び込んで来る山小屋での、彼らとの語らいを思い出す。
私には、新しい感慨がわいてきた。
まだ、頭の整理は不十分だが、“ネズミのいないネズミの絵”を、私には描けるかもしれない、と。


手稲山・発寒川からの手紙 No.12 2019年4月21日発行

Mは、小学校2年生からの数年間、茂兄(三男)が家計のたしに始めたイタチ捕りを手伝った。

兄のイタチ捕りは次のようなものだった。


11月末から1月の中頃までの早朝の仕事・・・イタチが暖かい冬毛に換わる季節を狙う。雪が降るとスキーを履いて。


②炭鉱では、地下にトンネルを掘って採炭する。このトンネルが落盤で埋まらないようにカラマツの丸太組を作る。この丸太が野積みされた坑口近くの土場にネズミが多く住む。これを追いかけてイタチが集まる・・・北海道にイタチは3種、棲息しているが、捕らえるのは一番体の大きなニホンイタチ。


③ワナは、3枚の木の板で出来ている。餌のイワシをイタチが引っ張ると支え棒がはずれ、重い石を載せた天板が落ち、イタチを押しつぶす仕組み・・・このワナは占冠で長男の稔が使用していたものを真似たという。Mは最近、アイヌ博物館でこのワナと同じ仕組みのワナの原型を発見した。


④前夜に仕掛けてあった数個のワナを早朝、見て回り、かかっているイタチを集める・・・ワナを仕掛けた場所に近付くと、イタチがかかっている場所では、10メートルも先から最後っ屁の匂いがしてくる。


⑤帰宅して、イタチが凍っているうちに皮を剥ぎ広げて乾かす・・・兄のイタチの皮むきをMは手伝う。鼻に綿栓をして最後っ屁を避けながらイタチの体を握って・・・兄はその頃、小樽の毛皮貿易商に、タテ約30センチ、ヨコ約15センチの毛皮一枚を1円ほどで卸していたように思う。(現在、ネズミの天敵としてイタチの捕獲は法律で禁止になっている)



↓アイヌの使った捕獲罠




↓兄の作ったイタチの罠




手稲山・発寒川からの手紙 No.2 2020年1月26日 発行

久々に更新いたします。
1/12に90歳になり、記念に
・こちらのブログの復活
・ホームページ開設
・Twitter開設
・Instagramの開設
・YouTubeの開設
などを予定しております!

本も3冊全国出版いたしました。
後ほど紹介いたします。

これからも『手稲山・発寒川からの手紙』をよろしくお願いいたします。