こんばんは。
前の記事でご紹介した本『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』
図書館に返そうと思ったら、またメモしておきたい文章があったので、急いで覚書しました。
4章【シェアとナイショ】
ここから引用↓
“「つながり」という言葉にはなんとなく良きニュアンスがありますが、実のところ僕らはつながりをひどく恐れている。
思い返してみてください。僕らの抱えている傷つきの多くはつながりからやってきたものではなかったか。人間関係では、時に手ひどい攻撃が起こり、深刻な裏切りが生じます。確かだと思っていたつながりは、あっという間に壊れたり、失われたりしてしまう。つながりは危うくて、はかない。”(p123)
“シェアのつながりは複数人で一緒にいるときに、ナイショのつながりは二人きりでいるときに結ばれやすい”(p133)
“シェアとナイショの本質的な違いはどこにあるのでしょうか?僕が思うに、それは「傷つきの扱い方」にあります。
“一緒にいると、苦労はシェアされ、分かち合われる。すると、そこは弱音を吐いたり、助けを求めたりできる場所になります。抱えている苦しいことが「自分だけではなかったんだ」と思えるからです。重要なことは、この傷つけない関係が、僕らを「自分らしく」してくれることです”(p135)
“傷つけあう関係性は、二人の間に摩擦が起きて、傷つけあうことが起こります。だけど、摩擦とは研磨でもあります。ナイショをめぐる傷つけあいは、あなたを相手と一緒にいられる形へと研磨していく。”(p139)
東畑開人『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』より
シェアのつながりは、複数人(集団やグループ)が多く「わかる、わかる」「しょうがないよね」と言ってくれる「傷つけない関係」。同時に「ここでは傷つけられることはない」と安心していられる。そんな場所にいると元から存在している「自分らしさ」を素直に外に出すことができる。周りを傷つけないから「いいやつ」に見えてくる。性格が「やなやつ」になるのも、「いいやつ」に思えるのも、案外環境次第。
ナイショのつながりでなされるのは「傷つけあい」
であり、例えば親子、あるいはパートナーとの関係、親友との関係、師弟関係など。
時間の経過によって、状況は変わり、人は変わる。ナイショは無限に生まれてくるし、その関係を続けるには、深入りしたり、深く傷ついたりしながら、新しい関係を作り直し続けて存続していく。
傷つけあう時間は、接触を試み続けていることの証でもあり、相手が本当にどういう人なのかお互いのことを学び直していく時間。
つながっているのに寂しい。
つながりたいのに、傷つきたくない。
傷つきたくないのに、関わってしまう。
孤独や絶望と、希望と喜びなどを含めて、人のこころや、人間関係の複雑さをわかりやすく書かれていると思います。
何か心に引っかかる部分のある方は、ぜひ手にとってみてはいかがでしょうか?
↓次は、これを読みます↓
今年は暖冬で、このコート1枚で大丈夫でした!