ここにするわ。
西日の差し込む四畳半の部屋で私は呟いた。焼けた畳の匂いと陽に透けた男の腕の産毛が小麦畑を連想させたからだろうか。男は黙って微笑んだ。

この港町に夏の間だけの仕事を求めて出てくる女は少なくない。その日私もこの町での夏の間の住まいを探すべく歩き回っていた。 海からの照り返しと雑多な往来、物売りの声に気押され土色の町並を彷徨いながらやっと見つけた路地裏の不動産屋。白いシャツの男が水を撒いていた。部屋をお探しですね。涼しい声にあわててハンカチを出しながら私は曖昧に頷いた。今思えばそのシャツには必要以上に糊が利いていた。


知り合いの少ないこの町での楽しみは二階に住むS夫人とのお喋りだった 彼女は船乗りの夫を嵐で亡くして以来ヤクルトレディをしている。陽気な振る舞いとは裏腹な、自転車を漕ぐ艶めかしさが町の男たちの間で噂だった。 


ある晩、食堂での仕事を終え私は家路についた。嵐の前特有の生暖かい風が黒っぽい海をうねらせていた。港では船乗りたちが錨を下ろし始めていた。


部屋のドアの前ではじめてポケットを探り、私は鍵を無くしたことに気づいた。ひとまずS夫人の部屋を訪ねようと錆びた階段を上りかけた。私は息を潜めた。未亡人の赤い唇がすばやく動くのと男の指から煙草が落ちるのは同時だったように思う。ドアが閉まり、鍵のかかる音がした。私はゆっくりと回れ右をし、サンダルが鳴らないように階段をおりた。湿り気を増してゆく風が私の髪をかき回した。私は鍵を探しに港までのもと来た道を歩き始めた。