色々あった中でようやくこの文章を書けます。
まとめておきたいなと自分で思ったので、誰の薬になるのかわからない文章をつらつらと。
毒になったらごめんなさい。
Twitterで3月末につぶやきましたが、一身上の都合により前職を退職していました。
4月からはムの付く自由業でした。無職。転生できませんでした。
で、つい数日前。とある企業から内定もらいました。これにて無職生活終わりです。
なんで辞めたのかは色々ありますが…
・メンタルの悪化が体調に影響を及ぼしていた。
・びっくりするほど転勤後の仕事が合わなかった
が一番わかりやすいです。
転勤で2016年から東京より地元北海道に戻ることとなり、
時期を同じくしてメンタルがあばばばばな感じになりまして。
心療内科にも行き始めたのもこのころ。なお適応障害との診断が出ていました。
転勤で赴任した支社の状況はまぁひどいもので、挙げればきりがないです。
思い出せるものでトップのこりゃねぇな発言を挙げると、
・赴任初日になぜか取引先の接待に駆り出され、帰りに上司Aに「俺はお前なんか来て欲しくなかった」と言われた。
じゃあなんで転勤させたし。そして思っていても言ってくれるな。
お仕事もがらりと変わりまして。
管理系のお仕事が長くて、本業は全くの未経験。新人状態。ちょっとした転職みたいな感じでの転勤でした。
まぁこれも経験や。そう思っていた時期が俺にもありました。
客にはクソ怒られ、身内である社内にも想像以上に仕事ができないと蔑まれ、「存在価値とは」と考える日々でした。
そりゃできないよ。即戦力じゃないもの。みんな即戦力だと思っていたらしいですが。
表現としては、支社のビルが牢獄だと思っていました。
軽く書いているつもりですが、実際はもっと重たいと思ってもらえれば。
とはいえ、よくいう3年耐えろという話もあり、もっと言えば「なんでこっちが屈しないといけないのだ」というのもあったので、耐えました。
覚えなきゃいけないことも山積みだし、やれることからやろうと思って色々やったんです。
実際大きな仕事も任されたりもしたし、徐々に取引先の信頼も得られてきたなぁと感じることもありました。
曰く、しおえさんは細かいし、確実に仕事をするから、今の御社にはいない貴重な存在、とのこと。みんな不真面目なだけだよ。
途中、死んでいたこともありましたが(朝起きて嘔吐と倦怠感が半端ない状態)、なんとか行けていた状態です。
この嘔吐と倦怠感。
例えば前夜飲みすぎて朝吐きそうになるのはわかる。
でも、何もなくて、ただ会社と思うと、未来を思うと胃がぎゅーっとなって、吐きそうになるんです。
会社では気を吐いてゲロ吐かないようにしていましたが、緊張状態がなくなると街中でもやばかったです。よく耐えた。
ひどいときは、新千歳空港行きの電車で催しかけたことも。夏コミからのデレSSA公演の時です。
昨年の春にひどくなったとき、心療内科の医師に勧められて消化器科行って胃カメラ飲んだんです。
「綺麗なピンク色だね」と、何その淫靡な表現…と思いながら先生の話を聞いたのはよく覚えています。
要は「驚くほどに健康的で異常は一つも見当たらない」との見解でした。
「ストレスですね~」と清々しく言う先生、初めて(の胃カメラ)で不安だったのに非常に上手にリードしてくれて、穴に入れたときに痛いってなったくらいであとはスムーズでした。表現が淫靡なのはしおえさんだな!
そんな話はどうでもいい。
メンタルは日常にも影響を及ぼしていて。
まず、髪をむしるようになりました。
朝起きたらたぶん無意識的にやったんだろうなっていう感じの抜け方した髪の毛が枕元にあるわけですよ。ハゲの家系じゃないし、そも昼間も抜くことあったから、これはだいぶ病的だなって医師にも言われました。
白髪があるのがなんか嫌なのか、見つけては抜いていたら時間単位で経過していたりとか、意味もなく髭全部抜いたりとか。
止められないんですよね、スイッチ入ると。
あとは部屋に光が入るのが嫌で、カーテンの端にテープはったり強力磁石つけたり、キッチンの窓には新聞紙貼ったりしてとにかく光を遮ったりしていました。寝たかったんです。
もともと睡眠障害があって導入剤飲んでたんですが、それでも中途覚醒がひどく、寝ても寝てない感じで。
それがストレスになり、さらに朝が来ると朝日で起こされるのがとてつもなく不快で。
体調がよくないのは常でしたが、とても悪いなと思うときはだいたい状況が似ていました。
上司Bが躁鬱持ちで、発狂すると大体ダメでした。
客先に行く車の道中、上司や部下の悪口を延々聞かされ続け(私は黙っていました、どこで矛先がこっちに来るか怖いから)、時には車窓を開けて山崎まさよしを熱唱し始めたり、根っからの学会の人なので選挙前に謎の電話がたくさん来たり、まぁすごい人でした。
そうなると社内の雰囲気も尋常じゃなく悪くなるので、自分はスケープゴートにならぬように、とみんな動くわけで。
で、人柱にされる。
そんな環境の中で黙るのも嫌なので、会社側にも話したりはしていました。
一応東京では管理系のお仕事をしていたので、話は通りやすかったです。
支店の人間を変えてくれと。環境を変えてくれと。
10年戦士ばかりでなぁなぁのお仕事になっている。雰囲気も悪いぞ、と。
まぁその結果、年明け数週後に店長室に呼ばれたわけで。
「春から東京な」
「……は?」
「〇〇部な」(全社的に見ても有数のヤベー部署)(そして全然やったこともない分野)
あっ、変わんの自分すか。。。
いや、100歩譲って、出てもいいとは言っていたけど、そこはダメだ。希望通らないにしても悪手すぎる。
まぁそこにはロジックがあって。
要は人が辞めすぎて、本社に人が足らないと。だから地方から若いのを集めると。
だから商材知らなくても何でもいいから人が欲しいわけで。
さらに私は独り身だし動かしやすかった。
3年前もよくわからん理由で転勤させられて、今回もまた……。
ちなみに転勤の内示もらった週末は私が大好きな声優・鈴木絵理さんが札幌に来てイベントする日でした。
当日楽しかったし、打ち上げも楽しかったけど、えりぴょんじゃなきゃ行かなかっただろうレベルでメンタルが死んでおりました。
個人の気持ちとしては、東京に戻りたい気持ちもありました。言っていましたし。
でも、明らかに心身共に合ってない仕事を東京でも続けることはできないな、と。
東京で潰れるだろう予感があった。
何より心が折れていた。
あと、一応北海道生まれなので、冬の寒さ以外は蝦夷地に愛着あります。
何より自分の知らないうちに病気になって、しかも手術も事後報告だったりする両親もいるわけで。
このまま会社に残っても自分の仕事の希望を通すことはできないだろうなと。
とてもとても悩みました。
ここが人生の岐路なんだろうな、なんて考えながら。
なんとかメンタル持ち直して転勤に向けて前向きになろうとしたんですが、まぁ色々と考えて。
取引先の偉い人にも「まだ心決まってねぇんだろ」と見透かされたりもしました。
何も言い返せない自分がみじめに思えました。
普段全く相談をしない両親にも相談をして、「好きに生きなさい」と言われて。
で、決意して上司ズに辞意を伝えて3月末を迎えました。
バラバラに説明するとズレると思ったので、支社長部長課長全員まとめてお話ししました。
上司ズもお互いに仲悪いからこの全体攻撃はすごく効いたようです。
「上司ズはこんらんしている!」
辞意を伝えてからはまぁ大変でした。
人が減ることは引継ぎをしないといけないわけで。
しおえさんのやっていた仕事は非常に細かいものが多く、しかも自分しかこの数年やっていなかったものもあって、要は引継ぎ万全にしたいから有給消化は難しいって言われたんですわ。
マニュアルに引き継ぎにと普通に働いたのは???でしたし、やめるってまわりにも伝わったのでそんな中でのお仕事は気まずさ満点でしたね。
まぁ上席はともかく現場レベルの人間は「やめんのもわかるわ」「まだ若いんだし、こだわる会社でもないよ」と言ってくれたので気は楽でした。
こうして転職活動が始まったわけです。いや、実際にはもう2年前くらいに始めていたりしたのですが、途中上記の通り体調がダメだったので中止したりしていて。
2月の広島文フリとか3月のテキレボに行けなくなったのは今回の退職が原因です。それどころじゃなかった。
行っていけないことはなかったけど、きっと自分は死んだ魚の目をしていただろうなと。
楽しくない人間が行って楽しくなるわけがない。ので行きませんでした。
転職活動はまぁ苦しかったです。
3月までは「退職予定」って書かないといけないし、4月以降は「退職」って履歴書に書かないといけない。
まぁこの2-4文字の持つ魔力は企業の人事担当者によく効くんです。
バイアスかかるのは承知していましたが、時に圧迫かと思えるくらいグイグイ攻めてくる企業もありました。
「在職中になんで転職活動しなかったの?」
「なんでやめるの? なんかあったんじゃない??」
うるせ~~~~~~~~~~~知らね~~~~~~~~~~~FINALFANTASY
な感じでした。
不利にならない程度に理由固めて説明しましたが、まぁ厳しかったですね。
どうやら現代社会は一度ドロップアウトするととても目が厳しくなるようです。オーイェーアハン。
まぁ実際年齢面でもかなりのハンデはあったと思います。
一応それなりの年齢なので、大卒数年の人と求められているものが違うわけで。
35歳限界説はもうないとは言われていますが、それでも人を測るのにわかりやすい指標は年齢なわけで。
だからこそ「その年齢で転職することはかなりの覚悟があったのでは」と言われることも結構ありました。
言葉通りの場合もあれば、遠回しにオメーその年で何言ってんだよと言っている場合もありました。
能力を見るのではなく、経験を見るのでもなく、やめたという事実と年齢を見ている。
現実とはなかなか厳しいものでした。
じゃあここでドロップアウトしたら人間はどこに行くのだろう。
なんて哲学的なことも思いながら。
とにかく私の転職活動は疑われるという言葉がある意味で表現として正しいかもです。
「持病は?」
「ありません」
「実は発達障害なんじゃない?」
「……いいえ」
なんてこともありました。いや、お前、それ聞くか。
違うって言ったら聞いてもないのにベラベラと差別交じりなことを言い始めるし。
ちなみにこの会社、後日選考辞退の電話をしたら、数日後には「あなたのご意向に沿えない結果となり云々お祈り云々」のお手紙が来ましたね。
えっなんでこっちが落ちたことになってるの?
こっちがフッたら相手のほうが「こっちがフッたんだよ!」って言ってる感じですよね。ふしぎ!
転職活動を苦しくしたのは何よりも会社選びでした。
まず、私の年齢。結構上なんです。ので、ポテンシャルよりも経験を重視されるわけで。
で、わたしの希望する職種はなかなか求人自体多くはない。
そのうえで、お休みとか勤務場所とかいろんな要素を見ていくと、さらに企業数は減るわけで。
給与は落ちてもいいと思っていました。
一応前職が東京本社企業だったので給与は北海道では高い部類でした。
ですので、北海道拠点の会社ならまぁ当然給料落ちるやろな、と。
給与よりも大事なものがそこそこあったのです。心の平穏です。
4月に入り、令和になると体調は打って変わってよくなりました。
朝がこんなに清々しいものとは。
元号が発表されるときも家でゆっくり見られました。
そういえば八村塁がNBAに日本人で初めて1巡目指名される瞬間も家にいられた。これも嬉しかったことの一つです。
4月からは何をしていたのか。無職です。
役所の手続きに追われていたのもありましたが、しっかりと転職活動したりしていました。
家はずっと荒れに荒れていたので大掃除したり、前職の職場から持ち帰ったものを整理したり、ランニング再開したり、自転車で遠出したり。
ランニングは異常なまでにやっていました。
毎朝6時とかに起きて走って。おかげで生活リズムは狂わずに済みました。
たぶんこれを書いている時までに300キロ近く走ってる気がする。週5-6で8キロくらい走ってたことも。
意外にやらなかったのはゲーム。ゲームは何の背徳感もない中でやりたい人なので。
読書はそれなりに。でも積読は減りません。
お役所の手続きは意外としっかりしていました。
今話題の年金の手続きも想像以上に親身になってやってくれたり、ハロワも自己都合退職なのに心療内科の話をしたら会社都合にしてくれてすぐに給付してくれたり。
ある程度まとまったお金が出ることで精神的には余裕ある暮らしができました。
のうのうと暮らす私が言っていいことではないのでしょうが、「あぁ、辞めてなかったら知らなかった世界だなぁ」と思いました。
転職の面接でもよく聞かれた質問があります。
「自分の決断を後悔していますか?」
私は即座に答えています。
「一切後悔しておりません」
だって、後悔していないもんマジで。
そりゃ確かに転職先決まってないから不安になることもあったけど、じゃあ前職に居続けられたかと自問すると、答えは「No」なわけで。
上手くいこうが行くまいが、辞める決断をした自分をほめたいし、悔いるのは過去の自分に失礼なのだと思っています。
最終的に内定もらったところとは別に、なぜかそういう圧迫質問とかしてきた企業の中で1社内定くれたところがありました。
辞退したのは、募集内容が事前に聞いていたのと乖離しすぎていたし、圧迫の内容がひどかったのと、何より社長が横文字ばかり喋るので何言っているのかわかんなかったからです。
面接後30分で内定のメール来ててあればびっくりしたなぁ…。全く後悔していないあたり、ほんといい判断だった。
4月以降、特に誰に対しても今何している的なことを言ってないはず。
別にお涙頂戴をしたいわけでもなく、かといってネタにしたいわけでもなく(全部終わったらネタにしますが)。
決まったら笑い話。決まんなきゃお蔵入り。それだけ。
沈んだときは公共のメンタルヘルス窓口に電話したり、メール相談もしていました。
在職中からずっと使い続けていたのでありがたかったです。
結局は話を聞くだけの存在なので何の解決もしませんが、話すだけでもそれなりに違います。もちろん人によりますが。
転職エージェントも結局人それぞれでした。
こっちが言わなきゃ情報も出さないところもあったし、出してくる情報が的外れとかそういうのもありましたしね。
エージェントに100%頼り切るのはよろしくないです。普通にマイナビ転職等のサイトも併用したほうがいいし、ハロワも悪くなかった。
エージェント、こっちが別件で連絡したら、思い出したように2週間以上前の書類選考の結果連絡してくるしね。
「オススメ案件です!ぜひ応募を!がんばります!」→「ダメでした。先方の望む人物像と違うようです」
うん、、、バカなの、、、それ見抜けよ、、、
とかね。
一週前に落ちた企業から別媒体でオファーがきたりとかね。
とまぁ、いろいろとありました。
人間の闇ですね。
これは別の機会に書こうと思いますが、
この無職期間に同人活動もしていました。
北ティア出たり、みやびぃアンソロ作ったり。
でも、「昼間暇だからできたんでしょ、やってたんでしょ?」と言われそうですが、ほとんどやっていません。
基本的には作業時間は早朝9時前と、夕方以降が主でした。
もちろん印刷所とかのやりとりなど、昼間にしかできないものとかはやっていたものもありますが、基本作業はそれ以外に。
しかも夜も在職時と同じ時間に寝てました。
まぁ何が言いたいのかというと、昼間遊んでたわけじゃないぞということです。
働いている時と同条件でやらないと再就職したあとの活動もできないと考えていたのです。
この辺りはまた改めて。
そんなわけで、辞意を伝えてからは約7か月、無職になってから4か月。
こうやって文章を書くことができて、ようやく一区切りできたなと思います。
一応10年働いた会社。想いがないわけではないです。
やめてせいせいした、なんて単純な言葉でも語れない。必要な場所だったのです。
死ぬほど飲んだり、一緒に旅にいった同期入社の人たちや部署の人たちには感謝しているし、
今も月一で近況を聞いてきてくれる入社当時からの上司(もう隠居済)がいたからここまでやれた。
退職時には色んな人からメールを頂いて、少しでもこの人たちの役に立てていたのかなぁなんて思いました。
同僚の中には私の同人活動を始めるきっかけになった人もいました。
たぶん前職に入っていなかったら同人サークルを立ち上げることもなかったし、コスプレもすることはなかった。
もちろんそれだけじゃないけど、得るものがとてもとても多かった。
最後のほうはマイナスな面が多かったかもだけど、トータルはどう考えてもプラス。
感謝しています。むしろ、その方向についていけなくてごめんなさい、という気持ちです。
他にも、即売会で会うたびに「大丈夫?」「無理しないで」「もうやめちゃいなよ」と心配して、背中を支えてくれた皆様もいて。
ありがとうございます。会うたびにまず体調や仕事の話になるのが申し訳なくて。
次からは清々しく小粋なジョークを言えるようにしますね。
もちろん新しいお仕事であり、これからがまた大変になるのは目に見えているのですが、それはそれ。
空は普通に青いし、ごはんは普通においしい。
普通の幸せで十分。
とりとめなく、たまり切ったヘドロを出すように書いてみました。
ということで、長いピットインを終えて、しおえさんは社会戦線に復帰します。
何の憂いもないわけじゃないけど、この状態でコミケ参戦できてよかったです。
明日からバカになってきます。
とはいえ、言っておきたいことが。
労働は悪い文明!!
……働きたくないでござる!!!!